第16話 腫れ物と義理と悪だくみ
教官が倒れてから、学園での俺の扱いは、すっかり腫れ物になってる。
廊下を歩けば、前から来た学生がさっと道をあける。教室に入れば、話し声がぴたりと止まる。食堂で隣に座る奴は一人もいない。研究発表で教授たちを黙らせた話も、あっという間に広まったらしい。
まあ、静かでいいけどな。前世の会社でも、昼飯はいつも一人だった。
その日も、俺は窓際の席で教本を開いていた。
ふと顔を上げると、教室の反対側から、クラウスと取り巻きたちがこっちを見ている。ひそひそ何か話しては、ちらちらと俺をうかがう。訓練場で青い顔をしてた奴が、今日はずいぶん粘っこい目をしてるな。
放っておいてもいいんだけど、ずっと見られてるのも鬱陶しい。
俺は教本を閉じて、クラウスたちのほうに向き直った。
「なんだ、何かあるのか?」
教室が、しんとなる。
「『ヴォート男爵様』と言って跪くなら、話くらい聞いてやるぞ?」
取り巻きの一人が、椅子を蹴って立ち上がった。がっしりした体つきの、赤毛の男だ。元のシンクレアの記憶だと、コノック男爵家のダリルだったかな。伯爵家の寄子の家だ。
「貴様!」
ダリルは大股で俺の前まで来ると、胸ぐらをつかんで引き上げた。顔が近い。鼻息が荒い。
身体強化を使うまでもないな。
俺は、胸ぐらをつかんでるダリルの手に、自分の手をそっと重ねた。上から、撫でるみたいに包み込む。
ダリルが、一瞬だけ怪訝な顔をする。
次の瞬間、俺は手首を返して、体重を乗せたまま、床に向かって一気にねじり落とした。
べきべき、と嫌な音が教室中に響く。
ダリルの体がくるりと回って、背中から床に叩きつけられた。手首はあり得ない方向に曲がってる。
「ぐあああっ!」
ダリルは床の上で、折れた腕を抱えてのたうち回る。誰も、駆け寄ろうとしない。
俺は襟元を直しながら、ダリルを見下ろした。
「ふむ! その度胸と威勢に免じて、無礼討ちとは言わないでいてやる」
それから、クラウスのほうに目をやる。クラウスは椅子に座ったまま、一歩も動いてない。
「しかし、手下が勇気を見せて胸ぐらをつかんだのに、助けにも来ない寄親の家か。……ククッ」
クラウスの顔が、真っ赤になる。でも、立ち上がりはしない。
俺はもう一度、床のダリルを見た。脂汗を流しながら、それでも俺をにらみ上げてる。
いい目だな。
「おいお前。バカだが、俺に向かってくるのが気に入った。治ったら、俺の所に来い」
「行くわけねえだろ!」
ダリルは歯を食いしばったまま、吐き捨てるように言った。腕が折れてるくせに、声には少しも迷いがない。
「ハハハッ、本当にいいなお前」
思わず、声を出して笑ってしまった。
こういう奴は嫌いじゃない。前世の会社には、上司に食ってかかって潰された奴なんていなかったからな。俺以外は。
俺は鞄をつかんで、そのまま教室を出ていった。
♦
シンクレアの足音が遠ざかると、教室にようやくざわめきが戻った。
クラウスは椅子から立ち上がり、床にうずくまっているダリルのそばへ歩み寄った。
「ダリル。よくやった」
ダリルは折れた腕を胸に抱えたまま、ゆっくりと身を起こした。そして、クラウスの顔を見上げる。その目には、敬意のかけらもなかった。
「これで、アンタの家に義理は果たしたろ」
「……何?」
「腕が治ったら、伯爵家の寄子としてじゃなく、俺個人でヴォートに向かっていくさ」
ダリルはそれだけ言うと、よろめきながら立ち上がり、誰の手も借りずに教室を出ていった。
残されたクラウスと取り巻きたちの間に、重い沈黙が落ちた。誰も、クラウスと目を合わせようとしない。
クラウスは、こぶしを握りしめたまま、取り巻きたちをにらみつけた。
「お前らは、何か考えはないのか!」
取り巻きたちは、互いに顔を見合わせる。しばらくして、一人がおずおずと口を開いた。
「……あの、うちの使用人が言ってたんですが」
「なんだ」
「あいつの屋敷では、使用人の子供を集めて、仕事の間は子守りや乳母が面倒を見てるとか。それで、ガキどもを散歩にも連れ出してると……」
別の取り巻きが、ぎょっとした顔で振り向いた。
「お前、まさか」
「俺たちは貴族だぞ! 使用人のガキに手を出すなんて……」
言い出した男は、気まずそうに目をそらした。
クラウスは、黙っていた。
窓の外を見つめたまま、長いこと何も言わない。取り巻きたちは、息を詰めてその横顔をうかがっている。
やがて、クラウスがぽつりと言った。
「……なるほどな」
口の端が、わずかに吊り上がる。
「もし、あのガキどもが怪我でもしたら、ヴォートはどんな顔をするんだろうなあ」
それだけ言うと、クラウスは振り返りもせずに教室を出ていった。
残された取り巻きたちは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
やがて、俯いたまま、互いの顔をうかがう。誰も、何も言わない。
それから、ゆっくりと目を合わせて、小さく頷いた。




