過去と未来
どうもはじめまして春と桜です。
あたかかく見守って頂けたらなと思っています。よろしくお願いします。
扉が閉まると、廊下の気配が遠ざかった。私は椅子に腰を下ろし、すぐ隣にいるチャロの身体へそっと手を添える。向かいの椅子が静かに軋み、父が腰を下ろした気配がした。それでも、すぐには声が聞こえてこない。私は何も言わず、その沈黙を待った。十年間、誰にも明かさずに抱えてきたことなのだと思えば、急かす気にはなれなかった。
「お父様。私が生まれた日のことを、教えてください。どうして私の目は見えないのか……どうして、ずっと閉じていなければならなかったのか。私、自分のことをちゃんと知りたいです」
「……分かったよ、リリー」
父は小さく息を吐いた。しばらくして、その声にほんの少し笑みが混じる。きっと父の中では、十年前の出来事が昨日のことのように残っているのだろう。
「リリーが生まれた日はね、本当に嬉しかったんだ。母上は出産を終えたばかりだったから、身体を休めてもらっていた。私も仕事があったから、ずっと傍にいるわけにはいかなかったけれど……少し時間ができるたびに、顔を見に行っていたよ。小さな娘が気になって仕方がなくてね。仕事へ戻ったと思ったら、また見に行きたくなるんだ。今思えば、ずいぶん落ち着きのない父親だったと思うよ」
父がくすりと笑った。
「それで……私が二十五回目に覗きに行ったときだったかな」
「二十五回……?」
少し照れたような父の声に、私も思わず笑ってしまう。
「そのとき、乳母に抱かれていたリリーが、初めて目を開いたんだ。小さな瞼がゆっくりと持ち上がってね。私は少し離れたところから、その様子を見ていた。……ところが、次の瞬間だった」
父の声が静かになる。
「乳母の声が、途切れた」
私は息を潜めた。
「何が起きたのかと思うより先に、メデューサのことが頭をよぎった。幼い頃から聞かされていた、あの古い伝承だ。見た者を石に変える蛇の女。まさかと思ったよ。でも、目の前で乳母の身体が石へ変わっていくのを見たら……もう疑う余地はなかった」
父の声が、わずかに掠れる。
「私は咄嗟に顔を背けた。リリーの目を見てはいけない。そう思ったんだ。近くにあった布を手探りで掴んで、リリーを包むように覆った。それからしばらく、顔を上げることができなかったよ」
「……怖かったんですか?」
「怖かったよ」
父は、少しだけ笑った。
「でもね。怖かったのは、リリーの力じゃなかった」
短い沈黙が落ちる。
「メデューサの子孫が生まれたら、殺す。この国には、昔からそんな掟があったからね」
「……私も、殺されるはずだった」
「うん」
父の返事は静かだった。
「そうなるはずだった。でも、布の中にいる小さな娘を抱いていたら、そんなことを考える余地なんてなかった。国王として失格だね」
父の声が柔らかくなる。
「それでも最初から私にはリリーを殺すなんて選択肢はなかったんだ」
「……お父様」
「だから、決めたんだ。掟に従うんじゃなくて、リリーが生きられる道を探そうって」
その言葉を最後に、父は少しだけ息を吐いた。
「それで、私の目を……?」
「そう。そこから先は、少しばかり大変だったよ」
父の声に、ほんの僅かな苦笑が混じる。
「メデューサの目は、取り出しても再生する。だから、目をなくすだけでは力を封じられなかった。そこで魔封じの石を使ったんだ。目を取り出した場所へ石を入れて、瞼を閉じ、魔法の糸で縫い合わせた。王家に伝わっていたものを、こんな形で使うことになるとは思わなかったけれどね」
私は自分の瞼へそっと触れた。
「……そうして、私は生きられたんですね」
「そうだよ」
父の返事は穏やかだった。
「乳母のことも、あの日のことを知る者も、すべて別の形にして隠した。そうして十年が過ぎた。誰にも知られずに済んだのは……まあ、私がそれなりに上手くやったからかな」
最後だけ、父は少し得意そうに笑った。
「これからも、そうするつもりだよ。メデューサの血を引いていることも、石化の力を持っていることも、誰にも知られないようにする。昔の掟は、なくなったわけじゃないからね」
「……私が知られたら、殺される?」
「そうなる可能性はある」
父の声から笑みが消えた。
「だから、このことだけは秘密にしてほしい。リリーが何も悪くなくても、血を理由に怖がる人はいる。そんな人たちから、私はもう一度リリーを守らなくてはいけなくなるからね」
「……チャロのことは?」
「使い魔なら問題ないよ。ただ、チャロから聞いたことまで話す必要はない。知っている人間は少ないほうがいいからね」
「分かりました」
父はしばらく黙った。
「本当は、こんな話をするつもりはなかったんだ」
「……どうして?」
「知らないまま、幸せに暮らしてほしかったからだよ」
その声は、今まで聞いたどの言葉より柔らかかった。
「兄たちと笑って、母上に甘えて、私のところへ来てくれる。それだけでよかったんだ。リリーが何も知らずに大きくなってくれれば、それで十分だった」
「……お父様」
「でも、リリーが自分のことを知りたいと言ったんだ。なら、もう隠しておくことはできないよね」
父が小さく笑った。
「だから、知ったことは胸にしまっておいてほしい。私が守ってきたように、今度はリリー自身のために守ってくれるかな?」
「はい。約束します」
「うん。ありがとう、リリー」
私はそっと、隣にいるチャロへ手を伸ばした。白銀の鱗へ触れる。
自分が何者なのかを知った。
父が十年間守ってくれた命なら、私も大切にしたい。
そして、この先に何が待っているのかは、誰かに決めてもらうのではなく、自分で確かめてみたい。
そんな思いが、静かに胸の奥で芽を出していた。
執務室を出てから自室へ戻るまで、私はほとんど口を開かなかった。父から聞いた話は決して軽いものではなかったが、それよりも、今まで知らなかった世界の一端に触れたことで、次々と疑問が湧いてくる。魔封じの石があり、魔法の糸があり、そしてメデューサのような存在さえ伝承として残っている。この世界には、私がまだ知らないものがいくつもあるのだろう。そう思うと、恐ろしさよりも知りたいという気持ちのほうが強くなっていった。
自室へ戻り、寝台に腰を下ろす。すぐ傍まで来たチャロの大きな身体へ手を伸ばすと、ひんやりとした鱗が指先に触れた。父から聞いた話を胸の中でもう一度なぞりながら、私は考える。前の人生で身につけた医学だけが、人を救うためのすべてではない。この世界には魔法がある。ならば、病や怪我を治す方法にも、私がまだ知らない可能性があるのではないか。そう考えた瞬間、胸の奥に眠っていた医師としての気持ちが、静かに目を覚ました。
「……私、医療の道へ進みたいです」
「医療、ですかな?」
「はい。この世界の医療がどんなものなのか、知りたいんです。魔法があるのなら、私が知らない治療法だってあるかもしれないでしょう? それに……自分の力をきちんと使えるようになれば、それを誰かを救うために役立てられるかもしれません」
口にした言葉は、思っていた以上に自然だった。父に守られてきた命だからこそ、ただ守られるだけで終わらせたくない。前の人生で救えなかった命があったからこそ、もしこの世界で新しい可能性に出会えるのなら、今度こそ手を伸ばしてみたいと思った。まだ何ができるのかも分からない。それでも、分からないからこそ学びたい。その気持ちは、もう揺らがなかった。
「それは姫君らしいですな。私も、できる限りお力になりますぞ」
「ありがとうございます。まずは宮廷医師の方にお話を聞いてみたいと思います」
「それがよいでしょうな」
チャロの声を聞きながら、私はそっと鱗を撫でた。医療について考え始めると、自然に一つの問題へ行き着く。私には目が見えない。診察するにも、薬を扱うにも、医師として生きていくなら越えなければならない壁は多いだろう。けれど、そこで諦める気にはなれなかった。
「……でも、目が見えないのは困りますね」
「そうですな」
「医師になるなら、患者さんの状態を自分の目で確かめられないのは大きいでしょう?」
少しの沈黙のあと、チャロが静かに口を開いた。
「姫君。蛇の中には、目で見る以外の方法で周囲を知るものがおりますぞ」
「……どういうことですか?」
「熱ですな。生き物が持つ熱を感じ取って、暗闇でも相手の位置を知るのです」
私は息を止めた。
「それは……私にもできるかもしれない?」
「まだ分かりませんぞ。ですが、姫君と私が契約を結んだことで、その感覚が繋がっている可能性はありますな」
「試せる?」
「もちろんですぞ」
返事を聞くより早く、私は寝台から立ち上がっていた。
「じゃあ、やってみましょう」
「今からですかな?」
「今からです」
チャロの声が、嬉しそうに弾む。
「さすが姫君ですぞ!」
私は思わず笑った。
できるかどうかは、まだ分からない。
けれど、可能性があるのなら試してみたい。
見えないことを嘆くより、その先に何があるのかを確かめてみよう。
そう思えるだけで、私の世界はほんの少し広がった。
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