メデューサの子孫
どうもはじめまして春と桜です。
あたかかく見守って頂けたらなと思っています。よろしくお願いします。
――リリー。
熱に沈んだ意識の中で、何度もその名前を呼ばれていた。
七日間、私は高熱に苦しんだ。その間に、前世の私が知るはずのなかったリリアーナとしての十年間の記憶が、少しずつ蘇っていった。家族との日々も、王女として過ごしてきた日々も、私が読んだ小説には描かれていなかったものばかりだった。それらを受け入れていくうちに、九条菫としての記憶とリリアーナとしての記憶が、いつしか一つの中に馴染んでいった。
「……リリアーナ様?」
七日目の朝、意識が浮上すると、すぐ傍から声が聞こえた。私は重たい身体を動かし、その声へ顔を向ける。
「……はい」
掠れた声で返した瞬間、相手が息を呑んだ。
「リリアーナ様……!」
侍女が慌てて部屋を出ていき、ほどなくして医師が呼ばれた。熱はすでに下がっており、脈や呼吸にも問題はない。七日間も高熱が続いていたとは思えないほど身体の状態は安定しているらしく、医師は何度も首を傾げながらも、しばらく安静にしていれば問題ないだろうと告げて部屋を出ていった。
その直後だった。
「リリー!」
廊下から聞こえてきた声に、胸が大きく跳ねた。扉が開き、父が駆け込んでくる。その後ろには母と三人の兄たちまでいて、皆が一斉に私のもとへ集まってきた。
「よかった……本当に、よかった……」
「心配したのよ、リリー。七日も熱が下がらなくて……」
「もう大丈夫だからな。兄上たちがついている」
次々に掛けられる言葉に、私は胸が詰まるのを感じた。父も母も兄たちも、皆が泣いている。前世の記憶にはない温もりだった。それなのに、リリアーナの記憶が彼らを知っている。私は差し出された手を握り返し、自然と微笑んだ。
「ご心配をおかけしてしまって、ごめんなさい」
「謝らなくていい。お前が生きていてくれた。それだけで十分だ」
父の声は震えていた。
その日一日、家族はなかなか部屋を離れようとしなかった。侍女たちも何度も様子を見に訪れ、私は自分がどれほど大切にされていたのかを、改めて思い知らされた。ようやく夜になり、皆が休むために部屋を出ていったあと、私は一人で寝台に横になりながら、昼間とは別のことを考えていた。
どうして私は、この世界にいるのか。
なぜリリアーナは蛇に噛まれたのか。
そして、あの蛇はなぜ私を「姫君」と呼んだのか。
その答えを考えていたとき、静かな寝室に、かすかな音が響いた。
するり、と何かが床を這う音。
私は息を潜めた。
やがて、その気配は寝台のすぐ傍まで近づいてくる。姿を見ることはできない。それでも、あの感触を知っている。
「……姫君」
幼い少女のような声がして私はゆっくりと身体を起こした。
「……あなたは、あのときの蛇ですね?」
「はい! ようやくお話しできますぞ、姫君!」
やはり蛇だった。
けれど、なぜ私を姫君と呼ぶのかは分からない。
私は少しだけ息を整えてから、静かに尋ねた。
「……では、教えてください。あなたは何者で、なぜ私を姫君と呼ぶのですか?」
蛇は、待っていましたとばかりに声を弾ませた。
「もちろんですとも。今宵は、すべてお話しいたしましょう」
その言葉を聞いた瞬間、私は眠ることを諦めた。
「まずは、姫君がご無事で何よりでございます。あの毒は、人の身ならばとうに命を落としていてもおかしくないものでしたからな。ですが、やはり私の見立てに間違いはなかった。姫君は、我らの血を受け継ぐお方にございます」
私は黙って蛇の言葉を聞いていた。姿は見えない。それでも、声が聞こえる位置から考えて、蛇は寝台のすぐ傍にいるらしい。腕を噛まれたときの感覚が蘇るが、今のところ敵意を向けている様子はない。それどころか、その声には長い間探し求めていたものをようやく見つけたような喜びが滲んでいた。けれど、私はその言葉の中に聞き捨てならないものを見つけた。
「我らの血、ですか? 私は人間です。それに、あなたは私を姫君と呼んでいる。いったい何の話をしているのか、最初から順番に説明していただけますか」
蛇は少し黙ったあと、嬉しそうに笑ったような声を出した。どうやら私が冷静に話を聞こうとしていることが気に入ったらしい。けれど、私としては当然のことだった。目を縫われた十歳の少女の身体で目覚め、毒蛇に噛まれ、その蛇から「姫君」と呼ばれている。これだけ不可解なことが続けば、まず必要なのは恐怖ではなく情報だ。私は寝台の上で姿勢を正し、次の言葉を待った。
「承知いたしました。では、長い話になりますが、どうか最後までお聞きくださいませ。かつて、この地には神々の国から追放された一人の女がおりました。その女は首を落とされて命を奪われましたが、その姿を哀れに思った神が、女の血を一滴だけ地上へ落としたのでございます。その血から生まれた娘こそ、我ら蛇の一族が今なおお慕い申し上げる始祖、メデューサにございます」
メデューサ。
その名前を聞いた瞬間、胸の奥に嫌な予感が走った。前世の世界でも知っている名前だった。蛇の髪を持ち、その瞳を見た者を石へ変える怪物。けれど、目の前の蛇が語るそれは、私が知っている神話とはどこか違っていた。私は何も言わず、続きを促すように首を傾ける。蛇は私の反応を確かめるように少し間を置いてから、さらに言葉を続けた。
「メデューサは、生まれたときから美しい娘でございました。そして、決して目を開けなかった。やがて小さな国の王に見初められ、その側室となり、子を産み、その子がまた子を産みました。メデューサは孫を持つまで生きながらえましたが、姿は若い頃とほとんど変わらなかった。それを見た者たちは次第に恐れ始め、ある貴族が、その血を引く幼い娘を手に掛けたのでございます」
蛇の声から、先ほどまでの明るさが消えた。怒りとも悲しみともつかない感情が、その小さな声の奥に滲んでいる。私は黙って聞いていたが、胸の奥には一つの疑問が浮かんでいた。石化。メデューサ。そして、自分の縫われた瞼。偶然にしては出来すぎている。けれど、まだ結論を出すには早い。
「その貴族を、メデューサが石にしたのですね?」
「はい。愛する子孫を傷つけられたメデューサは、その男を石へ変えました。それを見た人々は彼女を怪物と呼び、王さえも彼女を恐れるようになったのでございます。メデューサは自分の子孫を守ろうとしました。けれど、恐怖に駆られた人々は彼女の子らを次々と殺し、ついには、たった一人を残して皆殺しにした。その怒りと悲しみの果てに、メデューサは国そのものを石へ変えたのでございます」
私は息を呑んだ。
国を、石に。
それがもし本当なら、メデューサの石化は単に目を合わせた相手を石にする程度の能力ではない。私は無意識に、自分の閉じられた瞼へ触れた。生まれたときに乳母を石にしたという、リリアーナの記憶が脳裏をよぎる。父が何かを隠していることも、私が盲目の王女として扱われてきたことも、すべてが一本の線で繋がり始めていた。
「……では、そのメデューサの血を、私が受け継いでいると?」
「その通りにございます、姫君」
蛇は迷いなく答えた。その言葉を聞いて、私はしばらく黙り込んだ。自分が小説の中の悪女として生きることになるだけでも十分に理解し難いのに、その身体には人々が恐れてきた怪物の血まで流れている。けれど、同時に私は医師として一つのことを考えていた。もし石化が本当に血筋による能力なら、それは治療に使える可能性がある。血管を止血できるのなら。骨折した部位を固定できるのなら。使い方次第では、命を救える。
「……一つ、確認してもいいですか?」
「もちろんでございます」
「あなたは、私がメデューサの血を継いでいると知っていて、わざと私を噛んだのですね?」
蛇は少しだけ黙った。
「はい。姫君がお生まれになったときから、我らはずっとお探ししておりました。ですが、血を引いているだけでは確信が持てなかった。だからこそ、十歳になられた姫君へ我らの毒をお試ししたのでございます」
私は眉を寄せた。
「……つまり、私が死なない身体なのか確かめるために?」
「はい。毒に耐えられるかどうかは、我らにとって大切な見極めでございました。そして姫君は、見事に耐え抜かれた。だからこそ、私には確信できたのでございます」
私は深く息を吐いた。
毒蛇に噛まれて、生死の境を彷徨った。
それを「見極め」と言われても、簡単に納得できる話ではない。
けれど、ここまで聞いてもなお、私には一つだけ理解できないことが残っていた。
「……それなら、なぜ今まで私を探していたのですか?」
蛇の気配が、静かに動いた。
そして次に聞こえた声は、これまでとは少し違っていた。
「それは――我らが、姫君をお守りするためにございます」
その言葉に、私は黙り込んだ。
蛇は続ける。
「メデューサの最後の血を受け継いだ者は、代々、我ら蛇族が守る。それが遥か昔から続く約束なのでございます。そして姫君には、まだお伝えしなければならぬことがございます」
私は自然と身を乗り出していた。
「……何でしょう」
蛇は、静かに告げた。
「姫君の御父上は、すべてをご存じでございます」
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