助けを求める声は、弱さじゃない
月曜の朝、紗季は嫌な予感と一緒に目を覚ました。
理由ははっきりしている。
先週末に送った企画の件で、クライアントからまだ返事が来ていない。
――こういう時は、大体よくない。
出社してすぐ、予感は的中した。
メールの件名にある【至急】の文字。
内容は、想像以上に厳しかった。
方向性の再検討。スケジュールの再調整。
そして、責任の所在を匂わせる一文。
「……はあ」
深く息を吐く。
周囲は忙しそうにキーボードを叩いていて、誰も紗季の異変に気づかない。
――大丈夫。
――私が、やる。
いつもの思考だ。
誰にも迷惑をかけず、誰にも弱音を吐かず、全部自分で片づける。
昼休みも取らずに資料を修正し、社内会議で頭を下げ、制作会社へ連絡を入れる。
オンラインミーティングの画面に律が映った瞬間、胸が少しだけ痛んだ。
「……急でごめん。修正、お願いできる?」
声が、思ったより固い。
律は状況を一瞬で察したようだった。
「分かりました。まず、全部共有してください」
その言い方が、頼もしくて――でも、同時に怖かった。
甘えたら、崩れてしまいそうで。
ミーティングが終わったあと、律から個別にチャットが来た。
【律】
『紗季さん、今、余裕ないですよね』
指が止まる。
画面を見つめたまま、数秒。
『仕事だから』
そう返しかけて、やめた。
『……ちょっと、きつい』
送信した瞬間、胸がざわつく。
こんな弱音、吐いたことがない。
既読はすぐについた。
『ですよね』
『今日、少し話せますか』
『仕事の話なら』
『仕事の話“も”です』
逃げ道を塞がれた気がして、でも、嫌じゃなかった。
夜、会社近くの小さな公園で会った。
ベンチに座ると、昼間の張り詰めた糸が少し緩む。
「……ごめん。巻き込んで」
紗季が言うと、律は首を振った。
「巻き込まれてません。一緒にやってるだけです」
「でも、私の判断ミスで……」
「ミスじゃないです」
被せるように言われて、紗季は言葉を失う。
「クライアントの要求が変わっただけ。よくあることです」
「でも……」
「でも、紗季さんが一人で抱える必要はない」
律の声は、低くて、落ち着いている。
逃げ場を作るのではなく、真正面から支える声。
「私、年上だよ」
また言ってしまう。
弱音を吐く理由を、探して。
「知ってます」
「それなのに、こんな……」
「年上でも、弱るときは弱ります」
律はそう言って、少し間を置いた。
「それに――年下に頼るの、そんなに嫌ですか」
嫌、じゃない。
怖いだけだ。
頼ったら、壊れる気がしていた。
今まで積み上げてきた“ちゃんとした自分”が。
「……嫌じゃない」
絞り出すように言うと、律はほっとしたように息を吐いた。
「じゃあ、今日は頼ってください」
「なにを?」
「全部。愚痴でも、不安でも」
紗季は視線を落とし、しばらく黙ったあと、ぽつりと言った。
「……失敗したら、全部終わる気がしてた」
「終わりません」
即答。
「三十二になって、今さら間違えられないって思ってた」
「間違えていい年齢です」
「……年下のくせに」
「年下だから、言えるんです」
その言葉に、紗季はとうとう笑ってしまった。
同時に、目の奥が熱くなる。
「……怖かった」
小さな声。
でも、確かに外に出た。
律は何も言わず、隣に座ってくれた。
肩が触れる。
その距離が、ちょうどいい。
しばらくして、律が静かに言った。
「明日、僕からも一案出します。紗季さんの案を守る形で」
「……いいの?」
「もちろん」
「私が、弱いから?」
「違います」
律は紗季を見る。
「紗季さんが、本気だからです」
その言葉が、胸の奥に落ちて、じんわり広がる。
帰り道、並んで歩きながら、紗季は気づいていた。
今日、自分は初めて――誰かに、ちゃんと頼ったのだと。
駅で別れるとき、律が言った。
「明日、きっと大丈夫です」
「根拠は?」
「僕がいます」
ずるい。
でも、嬉しい。
紗季は、小さく頷いた。
「……ありがとう、律くん」
その呼び方が自然に出たことに、自分でも驚きながら。
年上だから、強くなければならない。
その思い込みが、少しずつ溶けていく。
残るのは――
支え合える、という感覚。




