理想の自分
体育の授業は、日程に組み込まれていた。一限目からなので、教室に入ると、もう既に着替え終わっている生徒がちらほらといる。
安城もジャージ姿だった。
「おはよー」
「やあ」
「あれ? 今日の園嵜君、元気だね。また雰囲気変わった?」
安城は不自然なくらいに僕を綺麗な瞳で見つめていた。
「そうかな?」
「男らしくなったというか、うーん。よく分からないや。そう言えば、昨日、雪女が現われたんだよ。その所為なのか、まだ雪が降るには早いのに、雪が降ったんだ! 園嵜君も来ればみれたのに」
君が雪を見てロマンチックな気分になっている間、生憎、僕は極寒の吹雪の中にいたんだ。いや、灼熱の中と訳したほうがいいだろうか。
雪に良い思いではない。雪が降ると地面が凍って必ずこけてしまう。何度笑われたことか。
「ブラック・ジョーカーはどうだった?」
「さあ。私はしらない。雪に夢中だったから。雪だるま作ったんだよ。今日の朝見たら、まだ残っていたんだ」
「おうふ」
まあ、いいか。大した活躍もしていないし。雪女を選択したのはよかった。雪が降った事で、楽しんでもらえたのだから。
朝の会が終り、教室で僕はいつものように身体を隠して着替えていた。貧弱な身体を見せるのは恥ずかしいが、同じくらいにマッチョな身体をみせるのも気が引ける。
取り壊してさっさと新築にした方がいいと感じる、汗のにおいが染みついた体育館で準備運動をした。そして、先生から集合が掛けられる。面倒臭がりで放任的な先生だったのに、珍しく集合をかけるということは何かあるのだろうか?
ああ、なるほど、そういうことかと僕は思った。チーム替えがあったのだ。
僕がいるAチームが全く勝てないので、不平等だという意見が出されたからだ。体育の先生は口を濁して、誰が悪いとは言わなかったがちらりと僕を窺ったので、口にしているのと変わらない。クラスメイトからの重い視線も浴びている。
僕の所為ですよね……。すいません。
心の中で謝罪した。こればっかりは本当に申し訳ない。
結果、僕はまた最後に名前を呼ばれてCチームになった。Cチームの連中は「負けた」と落ち込んでいる。
全く。何を落胆しているんだか。僕にはさっぱり分からない。
Aチーム。バスケ部のエース峰岸。
Bチーム。生徒会長、廻間。
Cチーム。僕。
このような戦力図になった。
……はははは。これは、なかなか絶望的ではないか。
試合決めは各チームの代表のジャンケンで行われ、AチームとCチームが試合をすることになった。整列して、一礼をした。
僕は相変わらずノーマークだった。いなくていても変わらない、むしろいない方が正に働くと未だに思われているのが残念だ。
僕は確かめていた。コートをいくら往復しても、疲れない身体。後ろに目が付いているのかと錯覚するほどの広い視野。試合中だというのに、安城の姿がしっかりと目視することもできた。
「パス」というリアクションを終盤になっておこなった。斎藤は渋っていたが、堅い守備で立ち止まってしまい、僕にパスを出すしかない。
さあ、思い知るがいい。
僕はパスを取りこぼすことなく受け取った。まともなドリブルをするので、これではまずいと思ったのか、機転を利かせて近くにいた相手チームの一人が僕に立ちはだかった。
『リズムのあるドリブルで、次々とクラスの男子を抜き去る。
全てが遅く感じる。
最後に構えていたバスケ部の峰岸を抜こうとするが、中々隙をみせないので、フェイントを一度、二度入れ、峰岸の体勢を崩し、もう僕のシュートを止めることが可能な者はコートにいない。
平常心を保ったまま膝を深く沈め、シュートを放つと同時に、ばねのように膝を伸ばす。身体全体で放たれたボールは、一種の芸術のように美しい湾曲を描き、金具に掠ることなく、高らかに設置されているゴールの枠に吸い込まれた。
その瞬間、ブザーが鳴り、対抗試合は、逆転勝ちで幕を閉じる』
――それが現実になった。
「うそだ。こんなのまぐれだ。俺があいつに負けるわけない」
峰岸はその場で膝をついて、呟いた。
周りも驚いている。
だけれど一番驚いているのは僕だった。
これは理想の僕だ。
決して実ることのなかった今までの努力が、やっと実ったんだ。
だとするなら、負ける筈が無い!
変わるぞ。
いいや、僕は変わるのではなく、変わったのだ。
僕はこれを機に、学校でもヒーローになってやる。
世界は今、僕を中心に回っている。
というよりは、理想郷にいると言った方が正しいのかもしれない。
理想郷。
ここは紛れもなく、僕の理想郷なのだ。
存在しない理想の世界であり、現実と相対する世界。
それは、僕の頭の中に確固として構築されていた。
僕が理想郷を創造したのは中学入学時と重なり、丁度落ちこぼれになった時期とも重なる。
小学生までは、それなりに頭がよかったと思う。
有名な私立中学にも入学できて、そのままエスカレーター式でS校に行けた。このような経緯で、落ちこぼれの僕が優秀な生徒が多く在籍している学校にいるわけだ。
しかし、それなりの頭の良さが仇となった。
気付けば、僕は最底辺だったのだ。
理想郷を創造したのは、嘲笑から生まれた感情が原因だった。
最初は、無限の空間にただポツリと孤島があっただけだった。
静かに暮らしたい、誰もいない場所に行きたいという表れだったのだろう。
海が見たいと願うと、島の周りに海が果てしなく広がった。
望んだものを創造すれば、もともと存在していたかのように現われ、僕を満たしてくれた。新たな可能性に気づき、それから、この孤島は発展していく。
ハーレム帝国となる豪勢な王国が設立するのに時間は掛からなかった。
五年だ。
五年間で、理想郷を築き上げたのだ。
簡単に崩される城ではない。
理想郷こそが僕その物だ。
――そう思っていた。
ついさっきまでは。
現実を知らなかったのは僕の方だった。
何を有頂天になっていたんだ。
ああ、やはり、負け組なんだと思い知らされた。
廻間桂吾は何もできなかった僕に言う。
「こんなものか」
冷たい一言は、廻間の穏やかなイメージを覆すものだった。
僕の牙城のユートピアは脆くも崩れ去る。
***
足取りは重く、ふらふらと教室に向かった。
僕を待たずに、クラスのみんなはさっさと教室に向かって歩を進めて、見えなくなっていた。トイレに駆け込もうか、それとも保健室に行くかと頭に過ぎる程、情緒は不安定で吐き気がする。空が青かったからという理由で、暴れ出してしまうかもしれない。
何をしでかすか、自分でも分からない。
心の支えであった理想の世界で負けてしまった。
馬鹿にされても、笑われても、けっして折れることのなかった心が、簡単に握り折られてしまった。
教室に戻り、おもむろに服を脱ぎだした。自分が何をしているのかもよく把握できていない。ただ、体育の授業の後は制服に着替えなければならないというシステムが僕を動かしているに過ぎない。
「いや~、園嵜って実は凄い奴だったんだな」
「だよなー。峰岸にこうやって、しゅわしゅわってやって、そのあとじゅわーんだもんな」
「ははっ、意味わからねえ」
クラスの話題の中心は体育の授業で、意外な一面と活躍をみせた僕だった。
「でもよ、廻間にはやっぱり敵わなかったな」
「ああ、あれは別格だから」
今の僕にその話題を聞かせないでくれ。
僕は廻間に何もできなかった。まるで予知の如くボールを奪われ、無抵抗に等しいまま横を抜かれる。確かに、僕は守備に徹する想像をしたことはない。攻めるだけしか脳のない単純なやつだった。だけれど、攻めまでもが通用しないなんて……。
峰岸は、にこやかな顔をして僕に近寄ってきた。
「……園嵜はバスケやってたのか?」
「いいや。やったことないよ」
「ははは。俺の目は誤魔化せんぞ。あれはやっているやつの動きだった」
「現実でちゃんとやったことはないよ」
僕は上着を脱いだ。普段は、身体を隠しながら着替えていたのに、今回は意識が別のところにあったので、隠すのを忘れてしまっていた。
「おまえ、その身体……」
峰岸は僕の身体を目にして笑みが消えていた。人間は確信や意表を突かれると、表情に出てしまうというが、まさにその通りだった。
「これは……」
うまい言訳が返せない。
「裏で頑張ってたんだな」
峰岸はにかっと口を曲げたが、眼はあまり笑っていなかった。
「いや、違……」
「俺も負けてられねえ! 筋トレする量を増やすわ」
僕の否定をかき消して、峰岸は自分の席に戻っていってしまった。
廻間に負けていなかったらきっと誇らしかったんだろう。だけれど、今の僕には自分を誇れる余裕も、自信もない。
制服に着替えて、僕は妄想をした。廻間を打ち破る妄想をしてみるが、イメージが湧かない。逆に、いいように殴られるイメージしか出てこない。
「よお。いい感じに仕上がっているじゃねーか」
一闇妃影はポケットから這い出て、腕を枕代わりに机で寝ている僕に言った。机と腕に出来た空間に忍び込んでいる。悪魔の囁きとはこのことだ。
僕の悪の感情は沸点に達し、煮詰まっていた。
「よお、相棒。ここで、復讐しないでどこでするんだ?」
「復讐はしないよ」
「アホか。お前は活躍しても勝っても馬鹿にされるようなやつなんだよ。だったら、馬鹿にしてくる奴らを力で従わせちまえ」
「……」
「ひゃははは。最悪は最高だぜ! さあ、やってこい。相棒。きっと、スカッとするぜえ」
妃影はポケットの中に帰って、僕の行動を見守った。
僕は起き上がると安城が隣にいた。
彼女は僕に向かってにこりと笑った。
「おはよう、園嵜君。また夢でも見ていたのかな?」
「ああ、まあ」
悪夢だったけれど。
「凄かったね! 更衣室は園嵜君の話題で持ちきりだったよ!」
「あ、ああ」
「皆、見直したって言ってた。私は前から園嵜君は凄い人だよって言っていたんだけど、やっと気づいてくれたみたい」
「僕は、……全然だよ。次の試合は何もできないで負けっちゃったし……」
「そんなことない!」
そして、安城は視線をずらして、肩をすぼめた。視線を伏せたまま、ちらちらとこちらを窺ってくる。後ろめたいことでもあるのだろうか。もしかして、更衣室で僕の悪口でもいわれていたのか。廻間に負けてしまった僕だ。仕方ない。
「カッコよかったよ」
僕にしか聞こえない様に、ぼそりと安城は言った。
「え?」
「私の理想の人と重なってみえたよ」
――え? なんだって?
「それってどういう……」
僕はもう一度聴き直そうとした。安城は男子とも仲がいいのだけれど、褒めることはあまりしない。ましてや、カッコイイとストレートな言葉で男を掌に乗せて、もてあそぶことは、絶対にしない。そう思っていたのだが、安城は僕に言った。その事実は変わらない。
キーンコーン。
チャイムは悪いタイミングで鳴り響いた。まだ、着替え終わっていない生徒、席についていない生徒は焦って、行動速度を上げた。
「さっ、次の授業だね!」
安城は二冊の教科書とノートを重ねて、立てながら机に一度置き、端を揃えた。そして、音を立てることなく机に教科書を置いた。
僕は椅子に座り直して、間抜け面で放心していた。
この後僕は、教材を出さないで授業を受けていたので、先生にこっぴどく怒られた。
「忘れました」
咄嗟に出た嘘だったが、隣の人に見せてもらえと言われたので、隣の席の人と机を並べた。僕は窓側の席だったので、隣の席は安城しかいない。
僕は何故あのような刺激的なことを言われたのかよく分からなかった。
安城の真意を知りたくてこの授業で何度もチャンスを見計らっては、訊こうとしたが、喉から言葉が出なかった。




