第01話_軽く返せると思った?
「榎本くんのこと、好きなんだ。私と付き合ってほしい」
相原奈々にそう言われて、俺は鞄を肩へ掛け損ねた。
放課後の廊下。窓際に寄っていた相原が、俺の返事を待っている。いつも教室で聞くより少し小さい声だった。
「……俺?」
「うん」
聞かなくても分かることを聞いた。
相原の向こうには友達が一人いて、こちらを見ている。早く帰りたいのだろうか。二人で買い物に行く話を、帰りの教室でしていた気がする。
いつもの俺なら、聞き間違いじゃなくてよかった、とか何とか言ったと思う。
でも、今それを言って、この話まで冗談になったら困る。
去年、相原とは同じ委員会だった。
プリントを配り忘れていた俺に、余った分を届けてくれたことがある。階段で会えば声をかけてくれるし、授業中の変な言い間違いを、あとから二人で思い出して笑ったりもした。
特別なことは何もなかった。
ただ、新しいクラスの名簿で相原の名前を見つけた時、俺は少し嬉しかった。
「俺も、相原のこと、気になってた」
言った。
言ってしまってから、急に相原の顔が見られなくなる。
窓の外へ目をやり、向かいの校舎に誰かがいるのを見て、また相原へ戻した。
「だから、うん。付き合いたい」
相原が目を丸くした。
その顔を見たら、今度は俺の方が何か言わなくてはいけない気がした。
「日曜、空いてる? どっか行かない?」
「日曜?」
「昼とか。駅の辺りで、飯食べて……いや、行きたい所あったらそっちでも」
いきなり一日中は長いか。
昼飯だけなら、もっと一緒にいたくなった時に、あとから行き先を決められる。
そんなことまで考えていた。
相原が口元を押さえ、友達の方を向くまでは。
「待って。日曜まで決まっちゃった」
友達が先に吹き出した。
俺は、開きかけた鞄のファスナーから手を離した。
スマホで日曜の予定を見ようとしていた。確認しなくても何もないのに。
「ごめん、榎本くん。嘘告」
相原が言った。
笑いながら言って、そのあとで、まずいと思ったように口を閉じた。
「告白できるかって話になって。それで……」
「ああ」
相槌だけ、すぐに出た。
「今、すごい真面目に返してたよね」
友達が相原の隣へ来る。
さっきまで二人の間にあった隙間が埋まって、俺は一人で窓際に立っていた。
「ごめん。本気にすると思わなくて」
相原の声が少し変わった。
本気にすると思わなかった。
その前に、気になっていたと伝えた俺がいるのだが。それを言う前なら、まだ選べたのか。
さっきと同じ場所に立っているのに、何をしているのか分からなくなった。
肩から落ちかけた鞄を持ち直す。
「……せめて日曜の前に言ってくれてよかったわ」
自分の声が聞こえた。
少し笑った。相原の顔から、いくらか力が抜けるのも見えた。
「榎本くんなら、軽く返してくれると思ったから」
「買いかぶりすぎだろ」
いつもの調子だった。
ちゃんと返せる。それが今は、ひどく嫌だった。
「じゃ、俺帰るわ」
「うん。ごめんね」
相原の友達が、またね、と手を上げた。
俺も上げた。何のために上げたのかは、自分でも分からなかった。
階段を下りて、靴を替える。
紐が一回で結べなくて、ほどいてやり直した。後ろから来た生徒を先に通す。
校門を出たところで、笑っていた顔がようやく戻った。
頬が疲れている。
相原が本当に困っていたら、日曜を断られるだけでもよかった。
予定があるでも、まだ分からないでも。
そうしたら俺は、じゃあ別の日に、と返したと思う。
そこまで言わずに済んでよかった。
そう思おうとすると、昼飯のあとにどこへ行こうか考えた自分が、また出てきた。
家へ着いて、制服のままベッドへ腰を下ろした。
スマホを開くと、相原から連絡が来ていた。
『さっきはごめん。怒ってる?』
親指が止まる。
怒ってない、と打つだけならすぐだった。廊下でも、似たような返しはできたのだから。
トークを閉じ、予定表を開く。
日曜日には何も入っていない。昼も、そのあとも。
何かを入れかけて、やめた。
階下で食器の音がした。母が帰っているらしい。
鞄から弁当箱を出すのを思い出し、机へ置く。普段ならすぐ台所へ持っていくのに、今日はそこで止まってしまう。
結人とのトークを開いた。
『今日、相原に嘘告されたんだけど』
ここまで打てば、あとは笑えるようにすればいい。
日曜に誘ったことは書かなければいいし、俺も気になっていたことなんか、最初から言わなかったことにできる。
でも、相原には言った。
文字を全部消した。
画面を暗くして、しばらく何もせず座った。
「湊、ごはんできるよ」
「分かった」
返事をしてから、もう一度相原のトークを開いた。
怒ってるかどうかだけ答えて、終わりにはしたくなかった。
『明日、昼休みに少し話したい』
送信して、弁当箱を持って立った。




