第18話「葛の葉」
破魔矢が飛んできたのは、二度目だった。
今回は着弾精度が上がっていて、レジ横の伝言板のど真ん中に刺さった。Kiraが「掲示物は所定の様式で!」と怒っていた。矢文の文面は、前より短かった。
> 零へ
>
> 今宵、社まで参られよ。
> 一人で来い。
>
> 葛の葉
「……一人で、ねえ」
なんかやっちゃいましたか、俺。心当たりを棚卸ししてみたが、思い当たるのは、歳暮用の油揚げの仕入れ値を強気に見積もったことくらいだった。値引き交渉なら受けて立つ。俺は贈答用の一番いいやつを一箱包んで、日が落ちてから、穴守稲荷の石段を登った。
境内は、月だった。
満月が、掃き清められた石畳を、白く照らしていた。狛狐の欠けた首も、今夜は月光で継がれているみたいに見えた。
そして、社殿の縁側に、その人は座っていた。
月色の髪。きちんと締めた帯。背筋の伸びた、大人の姿の葛の葉。酔ってもいない。戦ってもいない。ただ静かに、正装で、そこに座っていた。初めて見る佇まいだった。宴の夜のとろけた気配とも、決戦の刃物みたいな色気とも違う。強いて言えば――仏壇の前の背中に、いちばん近かった。
「……えーと。値引き交渉なら、卸値五パーセントが限界っすよ」
「阿呆」
葛の葉は、ふ、と笑って、自分の隣の縁側を、とん、と叩いた。
「話をしよう。座れ、零」
俺は油揚げの箱を間に置いて、隣に座った。月が明るくて、影が濃かった。
「なあ、零。おぬし、わしの歳を聞いたことがなかったの」
「聞いたら祟られる案件かと」
「千と少しじゃ。……そのうちの、たった五十年だけ、わしは人間だったことがある」
風が、境内の木を、さらりと撫でた。
「昔話じゃ。長うなる。……聞いてくれるか、店主どの」
「――営業時間外の相談は、割増ですけどね」
「帳簿につけておけ。じゃが、な」
葛の葉は、月を見た。
「この話、聞き終わったあとも、おぬしが覚えておるとは、限らんぞ」
意味を聞き返す前に、彼女は話し始めていた。そして、そこから先は――どういうわけか、俺の記憶の中で、彼女の声だけになる。俺の相槌も、俺の顔も、どこにもない。ただ、月と、声だけ。
◇
――雨の日じゃった。
行商の男が、雨宿りに駆け込んできた。この社は当時から寂れておっての。雨漏りのする軒下で、男は濡れた荷を解いて、勝手に商品の検分を始めよった。神域で、堂々と、店を広げおったのじゃ。
わしは面白うなって、化けて出た。娘の姿での、「ここは神様の家ぞ、商いなど罰当たりな」と脅かしてやった。したら、あの男、何と言うたと思う?
「そりゃ失礼。じゃあ場所代に、これを納めましょう」
――油揚げを、一枚。
雨が上がるまで、男は喋り続けた。どこの村で何が売れる、この飴は水に強い、あの塩は湿気に弱い。商売の話ばかりじゃ。神のわしを前に、賽銭の一文も願い事もなく、油揚げ一枚で対等な取引をした気になっておる。呆れた男じゃった。呆れて、呆れて――次の雨が、待ち遠しゅうなった。
男は通うようになった。雨の日も、晴れの日も。「あんたが座ってると、なんか売れる気がするんだよ」などと抜かして、社の前に小さい店を構えよった。それが、始まりの店じゃ。
わしは女房になった。人に化けて、歳を取るふりまで覚えての。狐の女房は、まめまめしいぞ。帳簿もつけた。漬物も漬けた。守り袋も縫うた。針で指を刺すたび、あの男は笑いおった。「神様でも血が出るのかい」とな。
「おまえさま」と、わしは呼んだ。
古い呼び方じゃと、当時でも笑われた。じゃがわしは千年生きた狐での。惚れた男の呼び方くらい、一番古くて、一番重いのを使いたかったのじゃ。
五十年は、一瞬じゃった。
千年生きたわしの、たった五十年。じゃがな、零。長さではないのじゃ。あの五十年だけ、わしの時間は、誰かと同じ速さで流れた。神の時間は止まった川じゃ。人と暮らすとは、川が流れるということじゃ。流れる川は、必ず、海に着いてしまう。
あの人は、歳を取った。わしは、取らなんだ。
最後の床で、あの人は守り袋を握っておった。わしが縫うた、あの不格好なやつをじゃ。「商売繁盛の守りだろ。あの世でも商売するから、持っていくよ」と笑うて――笑うたまま、流れ終わった。
……そこから先は、あまり、覚えておらん。
覚えておらん、というのは嘘じゃな。思い出さぬようにしておるだけじゃ。わしは、荒れた。悲しみというものはな、零。神格の中では、腐るのじゃ。悲しゅうて悲しゅうて、そのうち悲しみの矛先が要るようになって、雨を呼んだ。晴れの日が憎かった。あの人のおらん世界が、暢気に晴れておることが、許せなんだ。
町を、呪いかけた。あの人が愛した町をじゃ。祟り神というものは、ああやってできるのじゃと、わしは自分で知った。
堕ちきらなんだのは、あの守り袋のせいじゃ。
形見分けでの、店の祠に納められた。わしの縫うた守りが、あの人の五十年分の温もりを含んで、店の隅で、わしを呼び続けた。呪いに沈むたび、あの不格好な針目が、わしを水面まで引き上げた。……錨じゃな。羽田の婆様は、そう言うた。錨が一本あったから、おぬしは流されなんだと。
それから百年、わしは社に籠もった。
籠もって、籠もって――去年、妙な噂を聞いた。あの店に、新しい神が座ったと。期限を商う、変な神じゃと。見に行ったら、どうじゃ。あの人と同じ顔が、あの人と同じ手つきで、油揚げの値段を検分しておった。
……のう、零。
わしがなぜ、今夜この話をしたか、分かるか。
おぬしが先日、消費期限を開いたとき。あの背中に、昔のわしがおった。大事なものを撃たれて、悲しみの矛先を探す背中じゃ。わしはあれを、二度と見とうない。おぬしにも、誰にも。じゃから、これは説教じゃ。千年の先輩からの、一度きりの説教。悲しみは、腐らせるな。腐る前に、誰かに話せ。わしのように、百年遅れるでないぞ。
それと、もう一つ。
……これで最後にすると、決めてきたのじゃ。
◇
――気がつくと、月が、ずいぶん高くなっていた。
「……それって」
俺は、声を出すのに、少し時間がかかった。喉の奥が、乾いていた。
「うちの創業者……写真の、あの人。あんたの『おまえさま』って、俺の」
「先祖じゃよ。おぬしの、ひいひいの、その先の爺様じゃ」
葛の葉は、笑っていた。泣きそうな笑い方というのを、俺はこの夜、初めて見た気がする。
「顔も、手つきも、値切り方も、そっくりじゃ。……じゃがな、零。わしは今夜、はっきりと分かった。おぬしは、あの人ではない」
「……そりゃ、まあ、俺は俺なんで」
「うむ。おぬしは零じゃ。あの人は待たせる男で、おぬしは店を開けて待つ男じゃ。あの人はわしに守りを縫わせたが、おぬしはわしのために飛行機に乗る。……別人じゃ。呆れるほど、別人じゃ。それが分かるまでに、一年もかかった。千年生きて、この体たらくじゃ」
彼女は立ち上がって、俺の正面に立った。月を背負って、影が俺に落ちた。
「じゃからな、零。わしは今夜で、あの人と別れる。五十年と、百年と、それからの引きこもりと、全部まとめて、今夜で店じまいじゃ。……最後の棚卸しに、おぬしの顔を借りた。すまんの」
「借りたって、何を――」
「動くでない」
両手が、俺の頬に添えられた。冷たい手だった。月が、彼女の髪で隠れた。
唇に、一瞬、柔らかいものが触れて。
「いいか。これは忘れるのじゃ。――おまえさま」
その言葉が、俺の中の今夜を、端から白く塗り替えていくのが分かった。抗えなかった。化かしだと分かったときには、もう、何を忘れるのかすら、忘れ始めていた。最後に残ったのは、月の白さと、頬の手の冷たさと、誰のものか分からない、水の匂いだけだった。
◇
――見てしまった。
石段の下で、椿木葵は、立ち尽くしていた。
届いたばかりの兼業許可の通知を、一番に見せたい人がいて、店を訪ねたら、翔くんが「零さんなら穴守稲荷です。また矢文が来て」と言うから、嫌な予感がして、来ただけだった。矢文は、前に一度、厄介ごとの前触れだったから。それだけ、だった。
月明かりの縁側で、大人の姿の狐神が、零さんの頬に手を添えるのが見えた。
唇が、重なるのが見えた。
「いいか。これは忘れるのじゃ。おまえさま」
夜の境内は、声がよく通る。通ってしまう。
葵は、音を立てずに石段を降りた。一段、一段、手続きみたいに正確に。頭の中で、誰かが報告書を書いていた。本日、目撃した事案について。当該狐神と当該神格は。関係性は。「忘れるのじゃ」とは何を。「おまえさま」とは、誰を。
……記載できない。どの様式にも、この夜は記載できない。
見てはいけないものを見た夜は、月がやけに明るい。
◇
家に帰り着いたのが何時だったか、よく覚えていない。
穴守稲荷に行ったのは覚えてる。油揚げを納品した。それから、くーちゃんと何か話した。何の話だったか……値引き交渉、だったような気がする。歳暮の油揚げ、卸値五パーセント引きで手を打った気がする。いい取引だった、気がする。
なのに、なんでだろうな。
風呂の鏡を見たら、頬に、乾いた涙の跡があった。俺の、じゃないと思う。俺は泣いてない。泣く話なんて、してないはずだ。……してない、よな?
「ご主人、おかえり! 今日の報告やるよ! ……あれ、ご主人、予定表に『くーちゃんと商談』って書いてたけど、どうだった?」
「ん……ああ。うまくいったよ。たぶん」
「たぶんて何!? 金額! ボク金額聞いてるの!」
【本日の売上:六万一千五百円(前日比マイナス五パーセント・店主中抜け)】
【本日の客数:四十名】
【本日の商談:油揚げ卸値、五パーセント引きで妥結(※店主の記憶が曖昧。要再確認)】
【備考:贈答用油揚げ一箱、納品済み。先方は……喜んでいた、と思う】
【承認:株式会社みそぎ屋 代表取締役 御削零】
新装開店準備セール、四十四日目。本日も、無事閉店せず。
……なんだろうな。今日は月が、やけに明るい。それだけは、はっきり覚えてるんだよな。
「葛の葉」お読みいただきありがとうございました。第一部でいちばん静かで、いちばん重い回でした。「おまえさま」という言葉がどこで出てきたか、覚えている方は第7話を読み返していただけると、たぶん、少し痛いです。
次回はうって変わって、夏祭りと浴衣と花火の回です。この落差でお送りするのが、この作品です。
読んでくださって、ありがとうございました。☆で見守っていただけると嬉しいです。




