階段落ちの奇跡
爽やかな朝の光が、豪奢なレースのカーテン越しに寝室へと差し込んでくる。
本来であれば、小鳥の囀りとともに優雅な目覚めを迎えるはずの公爵夫人の朝。しかし、私の目は血走り、目の下にはうっすらとクマが浮かんでいた。
「……おはようございます、奥様。本日は素晴らしい快晴でございますね」
銀の洗面器とふかふかのタオルを持った専属メイドのマリーが、満面の笑みで部屋に入ってくる。
以前の彼女は、悪役令嬢たる私に怯え、常にビクビクと肩を揺らしていた。しかし今はどうだ。その瞳には、まるで神殿の聖女様を崇めるかのような、痛いほどの敬意と親愛の情が込められている。
「ええ、そうね、マリー。……旦那様は?」
「ルファス様は、早朝から騎士団の鍛錬場に向かわれました。出発の前、『ルシアナ様の寝顔が天使のように愛らしかった。決して起こさぬよう、足音にも気をつけよ』と、私どもに厳命を下していかれましたわ!」
キャーッ! と両頬を押さえて身悶えするマリー。
私は心の中で(天使じゃなくて死神の寝顔よ)と毒づきながら、敢えて冷たい水で顔を洗った。
昨日。私の完璧なる暗殺計画(シャンデリア事件)は、屋根裏に潜んでいた暗殺者を偶然叩き潰すという、常識を無視したミラクルファインプレーによって幕を閉じた。
結果として、夫であるルファス・フォン・オブシディアンの私に対する好感度は、限界を突破して大気圏外へと飛び去ってしまった。
今や屋敷中の使用人から騎士団に至るまで、「ルシアナ様は、自らの命を顧みず旦那様を二度も救った、オブシディアン家の誇り高き聖女」という共通認識が爆誕している。
違う。断じて違う。私はただ、あの顔の良い冷血漢を物理的に抹殺し、莫大な遺産を元手に風光明媚な田舎町でイケメン執事を侍らせる悠々自適な未亡人スローライフを送りたいだけなのだ。
乙女ゲーム『星祈』のヒロインが入学してくるまで、あと半年を切っている。
ヒロインがルファスと出会い、彼が「真実の愛」に目覚めてしまえば、過去の清算として悪妻である私は問答無用で肉片一つ残らない惨殺エンドを迎える。
そう、ルファスの好感度が今どれだけ高かろうが、ゲームの強制力が発動すれば、彼はヒロインに惹かれ、私を殺す。それが『隠しボス』の宿命なのだ。
「……絶対に、私が先回りして殺す。やられる前にやる。それがこの過酷な異世界で生き残るための、唯一のソリューションだ」
私は前世のバリキャリOL時代に培った、不屈のメンタルを呼び起こした。
プロジェクト(暗殺)が二度失敗したくらいで諦めてはいけない。PDCAサイクルを回すのだ。計画(Plan)、実行(Do)、評価(Check)、改善(Action)。
毒殺は不治の病を治してしまった。圧死は無能暗殺者を撃退してしまった。
つまり、高度な手段や大掛かりな仕掛けを用いようとするから、予期せぬ反応や奇跡が起きてしまうのだ。もっとシンプルに、原始的にいくべき。
導き出された三度目の暗殺計画。それは『階段からの突き落とし』である。
オブシディアン公爵邸のエントランスには、二階から続く見事な大理石の吹き抜け階段がある。総段数は五十段。一段一段が高く、しかも磨き上げられた大理石は非常に即死を思わせるほど硬い。
一番上から突き落とせば、いかにルファスが常人離れした身体能力を持っていようとも、首の骨を折るか、頭蓋骨が陥没して即死するはずだ。
万が一生き残っても、植物状態に持ち込めればこっちのもの。悲劇の妻を演じながら、ゆっくりと点滴みたいなやつに毒を混ぜればいい。
「マリー、今日の午後、旦那様が戻られたらお茶をご一緒したいと伝えてちょうだい。私はエントランスの階段上で彼をお出迎えするわ」
「まあ! ルファス様、きっと大喜びなさいますわ!」
マリーが花を散らすような笑顔で部屋を出ていくのを見送り、私はベッドの下からこっそりと『ある物』を取り出した。
それは、騎士団の武具庫からくすねてきた『飛竜の油』である。
本来は甲冑の錆止めや、滑車を滑らかにするために使われる特殊な魔獣の油なのだが、こいつを大理石の床に塗ると、摩擦がほぼゼロになるという恐ろしい性質を持っている。
「ふふふ……これを階段の最上段、彼が足を掛ける位置にたっぷりと塗っておく。そして、彼が足を滑らせた瞬間に、私が背中をドンッとひと押し。完璧な事故の完成よ。私は助けたかった、でもパニックになってしまって……今の私の名声なら言い逃れできる」
重力と摩擦ゼロのコンボは、魔法や奇跡が介入する余地すらない絶対的な物理法則。
さあ、ルファス。今日こそあなたの美しき首の骨が、心地よい音を立てて折る日よ。
────
午後四時。
西日が公爵邸の巨大なステンドグラスを抜け、エントランスの大理石の階段を美しく彩っていた。
私は最上段から五段下の位置に立ち、静かにその時を待っていた。
私のすぐ上の段——最上段から四段目には、すでに致死量の『飛竜の油』が透明な膜となって塗りたくられている。見た目にはただ大理石がピカピカに磨かれているようにしか見えない、完璧なトラップだ。
「ルシアナ!」
エントランスの巨大な扉が開き、長身の影が足早に階段を上ってきた。
私の夫、ルファス・フォン・オブシディアン。
漆黒の軍服に身を包んだ彼は、額に微かな汗を浮かべながらも、まるで恋愛小説から抜け出してきたかのような甘い笑顔を私に向けている。
その後ろには、側近である騎士団長レオンと、数名の護衛騎士たちが控えていた。
「あら! 旦那様、おかえりなさいませ。お疲れのところ申し訳ありません、早くお顔が見たくて、見たくて、ここでお待ちしておりましたわ!」
「ああ、俺の愛しい妻よ。君が出迎えてくれるだけで、一日の疲れなど吹き飛んでしまう。わざわざ階段の途中まで降りてきてくれたのか?」
ルファスは長い脚で、一段飛ばしで階段を駆け上がってくる。
(違う。お前を突き落とすためにベストな立ち位置をキープしているだけだ!)という心の声を完璧な淑女の微笑みで隠し、私はルファスに手を差し伸べた。
「さあ、上へ。温かいお紅茶の準備ができておりますわ」
「ありがとう」
ルファスが私の手を取り、私の横を通り過ぎ、さらに上の段へと足を掛けようとした。
標的の段まで、あと三段。二段。一段。
ルファスの右足が、私が仕掛けた『飛竜の油』のゾーンへと踏み込もうとした瞬間。
(今よッ!!)
私は彼の手を握ったまま、思い切り体重を前方に乗せ、「あっ、危ない(棒読み)」とワザとらしくよろめくフリをして、彼の背中を両手でドンッ! と力一杯押し出した。
「おっと!?」
私の強烈なプッシュを受け、ルファスの身体が前方に傾く。
そして、彼の右足が『飛竜の油』が塗られた大理石に触れた瞬間——。
ズリュゥゥゥンッ!!!!
凄まじい勢いで、ルファスの右足が前方へと滑った。
摩擦ゼロの世界。彼の身体は完全にバランスを崩し、宙を舞うように前方へとすっ飛んでいく。
(もらった!! そのまま階段を転げ落ちて、首から下を複雑骨折しなさい!!)
私は心の中で勝利のファンファーレを鳴らした。
ルファスの巨体が空中に投げ出され、頭から大理石の角に激突する——はずだった。
ガガガガガガガッ!!!
ズドォォォォォォォォンッ!!!!
突如、信じられない轟音がエントランスに鳴り響いた。
ルファスが空中に投げ出され、彼が本来踏みしめるはずだった『その先の段(最上段から二段目)』。
あろうことか、その大理石の階段そのものが内部から大爆発を起こし、無数の鋭い鉄のトゲが下から上に向かって串刺しのように飛び出してきたのだ。
「なっ!?」
私は間抜けな声を出して固まった。
一方、私の突き飛ばしと『飛竜の油』による超スリップのおかげで、爆心地を猛スピードで通り越していたルファスは、空中で見事な身のこなしで身体を捻り、爆発と鉄のトゲを完全に回避。
そのまま猫のように滑らかに着地し、無傷のまま二階の廊下へと降り立ったのだ。
(なんて超人なの……)
「旦那様!!」
「ルファス様!!」
階下にいた騎士団長レオンたちが血相を変えて駆け上がってくる。
爆発の煙が晴れた後には、最上段から二段目の階段が跡形もなく吹き飛び、凶悪な鉄のトゲがハリネズミのように飛び出しているという、地獄絵図のような光景が残されていた。
「こ、これは……!! 『遅延発動型の爆砕陣』と『呪いの針山』の二重トラップ!!」
騎士団長レオンが、震える声で叫んだ。
「おそらく、昨夜のうちに我が公爵家と敵対する過激派の何者かが、屋敷の魔法結界の隙を突いて仕掛けたのでしょう……! 標的が踏み込んだ瞬間に発動し、木っ端微塵に吹き飛ばした上で呪いの針で串刺しにする、悪魔のような罠です!!」
……?
「もし、ルファス様がいつも通りの歩幅で、あの段を踏んでいらっしゃったら……いかに旦那様とはいえ、無傷では済まなかったはず。最悪、命を落としていた可能性も……ッ!」
レオンの言葉に、周囲の騎士たちがゴクリと息を呑んだ。
そして、全員の視線が、階段の途中で呆然と立ち尽くしている私へと一斉に向けられた。
「ま、まさか……奥様は……」
レオンが、信じられないものを見るような目で私を見上げた。
「奥様は、この階段に極めて高度な偽装が施された暗殺トラップが仕掛けられていることに、ただ一人気がついておられたのですね!?」
「えっ!? いや、あの」
「だからこそ! わざわざこの階段の途中でルファス様を出迎え、トラップの手前でよろめいたフリをして、旦那様の背中を力強く突き飛ばした! ルファス様をトラップの射程圏外へと一瞬で弾き飛ばし、お命をお救いするために!!」
違ぁぁぁぁぁぁぁぁう!!!!!
私は心の中で血反吐を吐きながら絶叫した。
どういう脳みそしていたら、そういう解釈に辿りつくわけ? 普通に誰かに伝えるでしょ。
私が彼を突き飛ばしたのは、純粋に階段落ちさせて殺すため! 暗殺トラップなんか一ミリも気がついてなかったし、なんなら私自身が暗殺者よ!!
ていうか、公爵邸の警備ガバガバすぎない!? なんで昨日の今日で、自宅の階段に致死量のトラップが仕掛けられてるのよ!? 日本の過労死OLには理解できないファンタジー世界の治安の悪さ!!
「ルシアナ……」
背後から、低く、しかし熱情を孕んだ声が響いた。
振り返ると、爆発を回避したルファスが、ゆっくりと階段を降りてきて、私の前に立った。
彼の氷のように冷たかったはずの青い瞳は、今や私に対する狂おしいほどの愛と執着で、ドロドロに溶け出している。
「君は……またしても、命を救ってくれたのだな」
「だ、旦那様、これは偶然で……それに私、自分がよろめいて旦那様を突き飛ばしてしまったという粗相を……」
「粗相だと? ハハハ、ふざけるな」
ルファスは力強く私の腕を引き寄せ、皆の目の前で、私の身体をフワリと持ち上げた。
いわゆる、お姫様抱っこである。
「きゃっ!?」
「俺は、あの瞬間、君が俺の背中を押す手に込めた『何があっても俺を生かす』という、強烈な祈りのような力を感じた。君は自らの身が爆発に巻き込まれるかもしれないリスクを負ってまで、俺を突き飛ばしてくれた……! これほどの深く、自己犠牲に満ちた愛を、俺は他に知らない!!」
違う、それは「絶対殺す」っていう強烈な殺意の力。祈りじゃない、呪いよ。
「レオン! 直ちに屋敷中の結界を再構築し、怪しい動きをしていた者を洗い出せ! 俺の愛する妻の住処に、鼠一匹入れるな!」
「ははっ!! 奥様の深いご愛情とご英断に、騎士団一同、心より敬意を表します!!」
「ルシアナ様、万歳!!」
騎士たちが剣を掲げて歓声を上げる中、ルファスは私をお姫様抱っこしたまま、甘く囁いた。
「さあ、ルシアナ。君も怖い思いをしただろう。部屋でゆっくり休もう。君が落ち着くまで、俺がずっとそばにいて、君を温めてやろう」
「…………下ろしてください。吐きそうです」
「ああ、可哀想に。爆発の衝撃で気分が悪いのだな。すぐに専属医を呼ぼう。俺の胸に顔を埋めていいぞ」
私が純粋なストレスで吐き気を催しているのを、彼は「恐怖による体調不良」と脳内変換し、さらに力強く私を抱きしめた。
私の三度目の暗殺計画は、またしても「夫を暗殺者のトラップから救った命の恩人」という、最悪な形での特大好感度アップイベントへとすり替わってしまったのである。
それから数日。
公爵邸内における私の扱いは、もはや神格化の域に達していた。
歩けばメイドが平伏し、咳をすれば専属医が飛んでくる。ルファスに至っては、執務を放り出しては私の部屋を訪れ、「君の瞳は星空よりも美しい」「君のためならこの国を滅ぼしてもいい」などと、ヤンデレ一歩手前の甘い毒を吐き続ける始末である。
これはマズい。非常にマズい。
このままでは、半年後にヒロインが登場した際、ルファスは「俺にはルシアナという至高の妻がいる」とヒロインをスルーするかもしれない。
……あれ? それならそれで破滅ルートを回避できるのでは?
いや、ダメだ。乙女ゲームの強制力を舐めてはいけない。もしヒロインが他の男(王太子など)と結ばれた場合、嫉妬に狂ったヒロインの信者たちが、巡り巡って「悪役令嬢ルシアナ」に濡れ衣を着せて処刑台に送るルートも存在するのだ。
やはり、私が生き残る絶対安全圏は「ルファスの未亡人」になることしかない。完全に辺境へフェードアウトするしかない。いない人になるのだ。




