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結鶴は、ヘリオトロープが一望できる丘の頂にいた。草むらに仰向けになり、ゆったりと流れる雲を目で追っていた。そよそよと吹く風が心地良く、時折揺れる草花が頬に触れ、くすぐったかった。
handの力を使い、失った記憶を呼び戻そうという結鶴の申し出を、雲雀は断った。頬に触れた結鶴の手に自らの手を重ねると、そのままゆっくりと下ろし、「ありがとう」と礼を言った。
「…何故ですか。僕の力なら、痛みもなく簡単に記憶を戻す事ができます」
「さっきも話したが、私は今のままで何も不自由していない。それに、戻らない記憶には、何か意味があるのかもしれないと今は思っている。思い出せないのではなく、思い出したくないのかもしれない」
思い出したくない。雲雀のその言葉に、結鶴の心は沈んだ。雲雀は自分と会った日のことを覚えていなかった。もしかしたら、5年経ち成長した自分とあの時の子どもが同一人物だと気付いていないだけなのかとも考えたが、どうやらあの塔に侵入し負傷したことすら記憶にないようだった。雲雀は誰の指示で、何の目的であの塔に侵入したのだろうか。
話をしている間、雲雀は結鶴の左手を握ったままだった。離そうと思えば簡単に振りほどくことができる程度に、軽く触れられているだけだったが、結鶴はそのまま動くことができなかった。
雲雀は軍人の中ではさほど体格がいい方ではなかったが、身長は成人男性の平均をゆうに超えており、15歳で一見すると女と間違われてしまうような結鶴の細く白い手を覆ってしまえる程には、大きく広い手をしていた。長く骨張った指と広い掌に触れられ、結鶴は次の言葉を発することができなかった。戦場でついた傷だろうか。雲雀の手には所々に小さな傷痕がいくつもあった。神経質そうな、長く少しカサついた白い指。
無意識に見つめていると、急にその手が結鶴の左手を強く握り、思い切り手を引かれる。前に倒れこみそうになるのを、雲雀が左手で結鶴の腰を支えることでとどまる。
「――っなにすー…」
非難の声とともに顔を上げると、すぐ目の前に雲雀の顔があり、漆黒の瞳がこちらを見ていた。
「…驚いた。本当に綺麗な藍色をしている」
雲雀は目を細め、結鶴の瞳を覗き込む。
「見事なものだな。まるで宝石だ」
「…からかわないでください」
結鶴は雲雀の手を振り払うと、きつく睨みつける。触れられた箇所が熱い。無意識に、首の後ろに手をやる。どくどくと、体中の血液が音を立てているような気がした。
雲雀は結鶴から手を離すと、「からかっているつもりはない」と言いソファから立ち上がる。
「handの瞳の色は藍色だと聞いていたが、君の瞳は本当に深いindigo blueだ。一度間近で見てみたかった。それに―――オークに古くから言い伝えられてきたhandである君の左手に触れてみたかった」
門まで送ろう、あまり遅くなるとマドンナとやらが乗り込んできそうで怖いと皮肉を言いながら、雲雀は扉へ向かい歩き出す。
結鶴は黙ったまま、雲雀の背中を見つめていた。
マドンナの車の助手席に乗り込むと、結鶴は胸ポケットから黒く古びた手帳を取り出し、それを彼女へ渡した。マドンナは手帳の中身を確認すると、ルージュで濡れた口許を上げ、結鶴を見る。瞬きをするたびに重そうな睫毛が羽のようにバサバサとはためき、結鶴も無意識に瞬きを繰り返した。
「これで任務完了ね。結鶴は本当に仕事が早いし、それに忠実だわ。いい子ね」
幼い子どもに対するように言うと、結鶴の髪に手を伸ばす。結鶴は顔を下げ、それを避けた。その様子に、マドンナは「相変わらず、恥ずかしがり屋さんなのね」と微笑むと、そのまま手を下ろした。
「…後始末はしてくれたの」
「安心して、殺しに関してはAよりも経験豊富よ」
「だったら初めから貴方がやれば良かった。それかB」
窓の外に顔を向け、通行人を眺めながら言う。
マドンナは口許に笑みを浮かべただけで何も答えず、エンジンを掛け、助手席側の窓を開けた。
「じゃあ私は本来の業務に戻るから、結鶴も後は通常通りに任務を遂行して。貴方達も、宜しくね」
車の外で待機していた結鶴の付き人にひらひらと手を振り、結鶴の頬にキスをする。結鶴が車を降りると、「また会いましょうね」とウィンクをして走り去って行った。結鶴はルージュで真っ赤に染まった頬を手の甲で拭うと、そのまま丘へ向かって歩き出した。
2人の付き人は、数十メートル離れた所で待機させている。
どこへ行っても一人になれる場所などなく、全てにおいて斑鳩の許可が必要だった。
雲雀に触れられた左手を空にかざす。空と雲の美しい色合いのコントラストは、呪われた掌が混ざることによって呆気なく崩された。
自分をhandだと知った上で、左手に触れてきたのは彼が初めてだった。
結鶴の力を知ると、誰もが左手で触れられることを恐れ、身を強張らせた。
雲雀は結鶴の瞳の色を褒めていたが、結鶴の方こそ、雲雀の深い漆黒の瞳に魅せられていた。
細く切れ長の目にすっと通った鼻筋。頬から顎にかけての無駄のないシャープなライン。薄い唇からこぼれ出す低い声音。全てが結鶴の心を震わせ、冷静さを失わせていた。
雲雀の失った記憶を戻し、どうするつもりだったのか。自分があの時会った子どもで、ずっと雲雀を想っていたと告白でもするつもりだったのか。雲雀に会う為に、今日まで必死に生きてきたと。
上体を起こし、膝を抱え顔を埋める。
神の左手を持つhandであるはずなのに、何故欲しいものは何一つ手に入らないのだろう。
「お兄ちゃん、どうしたの」
背後から、子どもの声が聞こえて顔を上げた。
振り返ると、数メートル先で、心配そうな顔をしてこちらを見ている少年と目が合った。年は7、8才といったところか。赤茶色の癖のある髪を風になびかせ、手には沢山のシロツメクサを抱えていて、髪や服にも花びらが散っていた。遠くの方で少年の母親らしき女性と、少年よりも少し幼い男の子が遊んでいるのが見える。家族で遊びに来ているのだろう。
付き人のほうを見ると、こちらの様子を窺っていたので、心配ないという風に手を上げて合図する。
結鶴は胡坐をかいて座り直すと、少年の腕の中いっぱいのシロツメクサに目をやる。少年はこちらへ近づこうとはせず、険しい顔をしてじっと結鶴を凝視している。
「お兄ちゃん、元気ないの?お腹痛い?」
少年の不安そうな様子に、結鶴は笑顔を見せて首を振った。
「大丈夫。ちょっと考え事をしてただけだ」
そう言うと少年はほっとした表情を見せ、花びらを風に散らしながら結鶴の元へ歩みを進めた。お互いの顔がはっきりと見える距離まで来た時、少年の持つ瞳の色に結鶴は一瞬目を見張ったが、すぐに何事もなかったかのように表情を戻し、少年を自分の隣に座らせた。少年は結鶴の真似をして胡坐を組むと、腕の中のシロツメクサを傍らに置いた。その中から数本を手に取り、茎をくるくると巻きつけて束にしてゆく。
「たくさん摘んでるね」
「うん。母さんに花冠編んでもらうんだ。それで父さんのお墓に届けに行く」
「…お父様は亡くなったの」
結鶴の言葉に、少年は「分かんない。でもお墓があるから、多分死んじゃったんだと思う」と呟くと、束にした花を結鶴の耳に挿した。茎の部分を奥まで挿しこむと、結鶴の髪と花の向きをちょんちょんと軽く整える。女性にするようなその行為に結鶴が驚いた顔をしていると、少年は「お兄ちゃん、髪の毛が真っ黒だから、白いお花がすごく似合うね」と笑った。
「最初見た時、すごく綺麗で女の人かと思ったんだ。雰囲気が普通の人と違う気がして、ちょっと怖くて。でも良かった、お兄ちゃんも僕と同じなんだね」
少年は結鶴の髪に触れていた左手を下ろすと、藍色の瞳を輝かせ、結鶴を見つめた。
「僕の名前は水鶏。お兄ちゃんの名前は?」
髪に付けられたシロツメクサが風に揺れ、微かに優しい香りを感じた。
軽い眩暈のようなものを感じ、結鶴は額に手を置く。
水鶏という少年に、5年前の自分の姿を重なる。
あの日全てを奪われたように、今度は自分がこの少年の幸せな日々を奪ってしまうかもしれない。
「僕の名前は結鶴。会えて嬉しいよ。水鶏」
結鶴は優しく微笑むと、左手で水鶏の赤茶色の髪を撫でるように触れた。そのまま神経を集中させ、一度深く深呼吸すると、了解を求めるように少年を見つめる。水鶏も結鶴の行動を理解したのか、結鶴に身を任せるかのように目を閉じた。




