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恋に落ちるのは一瞬だった。草むらに横たわる彼と目が合った瞬間、恋に落ちたんだと気付いた。その頃の僕はまだ子どもで、恋なんてしたことがなかったけれど、すぐに分かった。母さんや婆ちゃんを好きな気持ちとは違う、この気持ちが恋なんだと―――。
優しそうに僕を見て笑いかけられた時、胸がどきどきした。切れ長の漆黒の瞳に見つめられると息が止まりそうになった。その人からはよくけいすけと森を散歩した時に見つけた花のような、柔らかくて甘い香りがした。
彼はものすごく整った顔をしていて、でも怪我をしていて真っ青になって苦しそうだった。軍服を着ていたから、母さんや婆ちゃんを殺した奴らの仲間だと分かったけれど、死んで欲しくなかった。
彼の呼吸が荒いものから段々と弱くなっていく。僕はそれまで自分の力がどこまで通用するのか理解していなかったから、彼の傷を治せるのかどうか、自信がなかった。これまではけいすけが近所の猫に引っかかれてできた傷や、巣から落ちた小鳥を治したことくらいしかなかったから。でも、彼を助けたい一心で力を使った。その後のことは憶えていない。
気が付くと、あの部屋のベッドの上に横たわっていた。酷い頭痛がした。夢を見たのかもしれないと一瞬考えたが、服から彼の甘い香りが漂ってきて、両手を交差させて顔を埋め、彼の香りを抱きしめた。夢じゃないんだ―――。
彼の傷は大丈夫だっただろうか。上手く逃げられたのか。心配だった。頭が割れるように痛かったが、そんなことよりも彼の事ばかりが頭に浮かんだ。
彼にもう一度逢いたい。そう強く願った。
ノックの音が聞こえ、斑鳩が鳰と共に部屋へ入って来る。
「考えはまとまったかな。君の答えを聞かせてもらおう」
「少し私を意識しすぎでは?」
その言葉に、結鶴ははっと顔を上げる。
そこまであからさまに嫌な顔をされては、いくら私でも傷つく、とわざとらしく悲しげな表情を作って、目の前に座る上官は言う。
結鶴は眉間の皺を戻すことはなく、コーヒーを飲み干す。カップを置くと、決心したように口を開いた。
「意識なんてしていません」
「ではなぜ?」
右手をこめかみに置き、楽しそうにこちらを上目づかいに窺う男は、口許を緩めながら問いかける。
「ただ…苦手なんです」
その言葉に、細めていた目が驚きで見開かれる。苦手とはどういうことだろうか。
「苦手?」
雲雀が問いなおすと、結鶴は目を左右に彷徨わせながら小さくこくんと首を縦に振る。
貴方が、と気まずそうに答える結鶴を見て、雲雀はついに堪え切れず吹き出してしまう。それによって少年の機嫌が更に悪化するのは分かっていたが、上司に対する態度とはとても思えない彼の子どもらしい反応に、口許が緩んでしまう。
結鶴は椅子の上で小さい体を益々ちぢこませ、俯いて空になったカップを見つめたまま動かなくなってしまった。
雲雀はひとしきり声を上げて笑った後、彼の様子に気付くと咳払いをして姿勢を正した。
昼間のカフェテリアにふくれっ面の少年と軍服姿の大人。おかしな光景だ。
結鶴が雲雀の元へやってきてから数週間が経ったが、特にhandに関する新たな情報は報告されていない。結鶴には斑鳩がつけた人間が2人、常に結鶴の傍に仕えており、行動を共にしている。雲雀が渡した資料を元に、ヘリオトロープの人間を一人一人あたっているようで、こちらが内密で動かしている監視の報告では、特におかしな点は見られないという。
今日軍部へやって来た結鶴を、雲雀は昼食に誘った。その時の結鶴の驚きようは相当なもので、目を大きく見開いて硬直したまま、暫くその場から動けなくなっていた。何かおかしなことを自分は言っただろうかと首を傾げながらも、雲雀は結鶴を近くのカフェテリアへ連れて行った。ここはランチも美味しいと評判で、秘書官の遠矢も大のお気に入りの店だという。結鶴を連れて行くのにどこかお勧めの店はないかと尋ねると、若い男の子なら絶対ここです!と目を輝かせながら教えられた。彼が本当に軍人かどうかいよいよ怪しくなってきた。
雰囲気も良く、食事の味も秘書官の言うとおりまずまずだと思ったのだが、結鶴は殆ど口を開くことなく、雲雀の問いかけにも端的に答えるだけで、会話を繋げる努力をすることはなかった。ただ食欲は旺盛らしく、大盛りのピラフを驚く程の速さで平らげていた。育ち盛りの子どもの胃袋はどうなっているのか。
食後のコーヒーが運ばれて来ても、相変わらず結鶴は無言のまま、コーヒーに口を付けるだけで話そうとはしなかった。雲雀ももうその頃には話題が尽きてしまい、元々まめな性格でも無い為、むしろ沈黙の時があってもいいだろうという感じでぼんやりとガラス越しに行き交う人々を眺めていた。子どもの相手は他のどの仕事よりも難しい。
ふいにちらと少年の方を見ると、ぱち、と音が聞こえたように思い切り目が合った。結鶴はまずいところを見られてしまったという風な苦い顔をして、両手でカップを握りしめ慌てて顔を伏せる。この店に入って初めて彼と目を合わせたような気がする。
ふと考えると、このような状況は今までにも経験があるような気がした。結鶴のような少年ではなく、女性と二人で居る時にたまにこんな空気になることがあった。
雲雀は顎に手をやると、少し考えてから、先程の言葉を口にしたのだった。
俯く彼の瞼の先にある長い睫毛が白い肌に影を作っている。拗ねているせいで少しだけ尖った小さな唇に目がいく。笑われたことが恥ずかしかったらしく、顔が少し火照ったように赤らんでいた。
「…すまない。君だけじゃない、大抵の人間は私を得意としていない」
そう言うと、少し驚いた様子で、結鶴は顔を上げた。
例えば…と雲雀は頭に浮かんだ人物を口にしていく。まずは秘書官の遠矢。彼は毎朝執務室の前で深呼吸と呼ばれる盛大な溜息をついてから扉をノックする。雲雀の元で働き出してから体重が2キロも減った、お肌に悪いと大騒ぎをしていた。他の部下も休暇中だろうがデートだろうが関係無く呼び出し無理難題を押し付ける気まぐれな上司のせいで年中働き詰めだと嘆いている。特に孔雀と言う図体のでかい男が人一倍文句が多い。下だけではない、役人どもも皆雲雀を毛嫌いしている。若くして大佐の地位に上り詰め、自分達の地位を脅かす性悪とでも噂しているのだろう。会う度に嫌味を言われ、それを交わすのも最近では面倒臭くなってきた。椅子に座っていびきをかいている暇があったら早くその椅子を空けろと言ってやりたい。
愚痴のようにつらつらと述べていると、結鶴がじっとその話に聞き入っているのに気付く。これまでは聞いているのかいないのか分からないような態度だったが、急にどうしたのかと話を止めた。
「どうした。何かおかしなことを言ったか」
結鶴はいえ、すいません…と口籠る。
「なんか…自分がどれだけ相手に良く思われていないかを語れる人って、そういないなと思って…」
結鶴は感心したようにそういうと、くしゃ、と顔を歪めて笑む。笑ったというより、固まった表情が一気に崩れたような年相応の少年の笑顔に、雲雀は思わず息を呑んだ。
――――なんだそれは
彼の無防備な笑みに、一瞬どう反応すればいいのか戸惑う。
さっきまで恥ずかしそうに俯いていた姿はあとかたもなく、結鶴はもう戻らないといけませんよねと席を立った。
カフェを出て、2人でもと来た道を歩く。右隣を歩く結鶴とは身長差があり、黒いシャツの襟元から覗く細く白い首元に目がいった。
「今日は急に誘ってすまなかった。今度は私の秘書官も一緒に行こう。彼なら話も弾む」
そう笑いかけると、結鶴は途端に傷付いたような顔になり、「うまく話せなくて…すみません」と俯いた。そういう意味じゃないんだがと宥めるように彼の左肩に手を置く。その瞬間、結鶴の上半身がびく、と大きく跳ねてそのまま硬直する。その態度に驚き、雲雀は咄嗟にすまないと小さく謝罪すると、彼の肩から手を離した。
結鶴は苦しそうに眉を寄せ、右手で雲雀に触れられた個所に触れる。
何が起こったのか訳が分からなかったが、雲雀は俯く結鶴の顔を覗き込むように背を折り、意識してなるべく優しく聞こえるように言葉を掛けた。
「今日はなかなかお互いうまくいかないな。次はもっと君が緊張しなくていいように努力しよう」
そう言うと体を起こし、ゆっくりと歩き出す。
すると突然、背後から呼び止められる。
「本当は…。本当は苦手なんかじゃないんです」
その言葉に振り返ると、結鶴は顔を上げ、雲雀を見上げる。そして言葉を選ぶように、静かに呟く。
「…あまり貴方と一緒にいると、困るんです…」
そう言うと、瞳を彷徨わせる。
「困る?誰かに何か言われたのか」
苦しそうな結鶴の言葉に、彼が上層部の人間に自分との関係を疑われたのかと察する。彼のこの容姿であれば、例え男であろうとも雲雀を蹴落としたがっている者にとっては格好の材料になるだろう。それが嘘か本当かは関係ない。醜聞に塗れた夏目雲雀の下に結鶴のような人目を引く存在が頻繁に出入りしていると知れば、どういう関係なのか勘ぐる人間は多くいるはずだ。そういえば数日前、そういうことにはとんと疎い図体のでかい部下に、「見境ないのも程々にしてくださいよ」と唐突に言われ、何のことだと不審に思ったことがあったと思い出す。
「そういう意味ではなくて…」
「では何?」
結鶴の顔には、言わなければよかったという明らかな後悔の表情が表れていた。雲雀はそのまま結鶴を見つめ、答えを待つ。きゅっと引き結ばれていた薄い唇がゆっくりと開く。
僕には―――
俯いたままの状態で、結鶴は苦しそうに声を発した。その言葉に、雲雀は僅かに目を見開く。
彼の声は普段から小さく、それが今は更にか弱さを増して風に消えた。
しかし雲雀の耳には、彼の透き通る冷たい声は、はっきりと響いていた。
『僕には、誰かを想うことは許されないから』
「―――――――」
雲雀は言葉を無くしたまま、二度ほど瞬きを繰り返し、無意識に額に手をやる。いつのまにか結鶴の背中は遠く小さくなっていた。




