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しくじった。油断した。
右腹に激痛が走る。動くたびに大量の血液が体から失われていくのを感じる。何度も目が回り、意識が飛びそうになるのを堪える。立ち止まってはいけない。ここで諦めれば全てが終わる。右腹を抑え、少しでも出血を遅らせようとするが、傷口に触れた途端再び激しい痛みを感じ、一瞬その場に蹲る。
「……―――っう……」
息をすることもままならない。寒気がするのに額からは滝のように汗が噴き出す。
必死に呼吸を整えながら、よろよろと歩みを進める。視界が霞んで、もうどこをどう逃げているのか判断できなくなっていた。
敷地内に侵入するまでは容易だった。これまでの調査通り、見張りのようなものは皆無だったからだ。しかし侵入した途端、いきなり大量の兵の襲撃に遭った。恐らく2,30人はいたのではないだろうか。一体どこに潜んでいたというのか。気配を一切感じさせることなく、彼らは皆一様に同じ顔をしており、表情一つ変えることなく標的を仕留めようと躊躇なく発砲してきた。ただの門番のようなものではなく、明らかに相手の命を奪うことを生業としているものの動きだった。侵入者には死しか用意されていないらしい。
一体この塔に何を隠しているんだ、あの糞爺は。
先程までこだましていた兵達の声が止んだ。もしくはもう耳も聞こえなくなったか。身体を引きずり、草むらに身を隠すようにして仰向けに横たわった。小刻みに呼吸をしていないと苦しい。
ここまでか。藤間には私が戻らなかった場合は、何も知らなかった、上司がしていたことと自分は無関係であったと言えと伝えてはいるが、あの馬鹿正直な性格で、どこまで白を切りとおせるか怪しいものだ。あいつには気の強いパートナーがいるが、それが藤間と違って優秀らしい。先日初めて紹介されたが、気位の高い猫のような印象だった。彼が上手く藤間を宥めてくれるといいのだが。
腹の痛みに耐えるように、地面を掻く。爪に冷たい泥が入りこむ。
今度生まれてくるときは、軍人なんて真っ平ごめんだ。気になるとなんでも嗅ぎたくなる狗のようなこの性格も。そのせいで今こんな場所で不覚にも生涯を終える羽目に陥っているのだから。
次があるなら、普通の人生を歩みたい。家族がいて、兄弟が居て。愛する人を作って幸せに暮らしたい。誰も殺さなくていい、誰も陥れなくていい人生を送りたい。
そう考えて、いよいよ死が近づいてきたと鼻で笑う。在りもしない来世を望むなど、現実主義の自分にはあり得ないことだった。それ以上に、自分に幸せな人生など望む資格などないというのに。散々人の命を奪っておきながら、人殺しに待つのは地獄のみだろう。
足元で草を踏む音が微かに聞こえた。見つかったか。静かに、胸にしまっていた銃に手をかける。どうせ死ぬなら、最後に自分をこんな風にしたあいつらの一人でも殺しておかねば気が済まない。震える腕と朦朧とする意識がどこまで言うことを聞いてくれるかの話だが。
最後の力を振り絞り、勢いよく上体を起こして銃を相手がいる方向へ構える。驚いたように見開かれた大きな瞳が、銃口の僅か数センチ先にあった。
―――――――子ども?
目の前には、怯えたようにこちらを窺う少年の姿があった。風にあおられた黒髪が青白い肌に降りかかり、その間から見え隠れするビー玉のように丸い瞳がこちらを見ていた。吸い込まれそうな藍色の瞳はかつて見たことがなく、造り物のように思えた。年は8、9歳といったところか。
なぜ子どもがこんな所に…。少年の美しさに、一瞬自分を迎えに来た天使かと思ったが、生憎彼は上下真っ黒な服を身に纏っており、最後まで何を期待しているんだと笑った。迎えに来るのは悪魔に決まっている。
先程起き上ったせいで、もう動く力は残っていなかった。腕を下ろすとその反動で身体が傾き、草むらに倒れ込む。少年は表情を崩さず、じっと自分を見下ろしている。その目はわき腹の傷口に向けられていた。
「…撃たれたの」
殆ど口を開くこと無く、掠れるような小声で問いかけられた。普通ならば、風の音や木々のざわめきにかき消されてしまう程の声だったが、少年の水の音色のような高い声音を、聞き逃すことはなかった。
「…ああ、ここを守る兵達にやられた………君は、この塔に住んでいるのか」
少年は俯くと、ゆっくり首を横に振り、違う、と答えた。拳を強く握り、怒りを抑えるかのように唇を噛んでいる。
無理矢理連れてこられたのか。ここに幽閉でもされているのだろうか。調査では子どもの存在は報告されていなかったが―それとも、本当に空から舞い降りた天使か、地獄から来た悪魔か。
死にかけている自分を見て怯えているのか、彼からは緊張が伝わってきた。恐がらなくていい、と言うと、逆効果だったらしく、身体を硬直させ、後ずさる。子どもの扱いなど分からず、ましてやこのような瀕死の状態ではまともに会話する気力すら残っておらず、ただ口元を緩める程度の笑みを見せることくらいしかできなかった。しかしその瞬間、少年ははっとした表情をして頬を染めた。これまで幾人もの女を相手にしてきたが、瀕死の状態でもこの容姿は通用したらしい。しかも子ども相手に。
少年は傍に座りこみ、自分の顔を覗き込んできた。透き通るような瞳に吸い込まれそうだと思う。激しく荒れる呼吸を整えながら、必死に言葉を紡ぐ。
「…君の名は?」
「……ゆづる」
良い名前だと言うと、俯いてありがとうと呟いた。照れているのか、頬がうっすらと紅く染まっているように見えた。子どもは大人と違い、素直に気持ちを表す。ついさっきまでは、この世のものではないかのように思っていたが、話してみるとどこにでもいる幼い子どもだった。
段々と意識が薄れていくのを感じる。視界が曇り、少年の顔が混ざり合った絵具のように滲んでいく。
「――生きたいの?」
少年が不安そうな顔で問いかけてきた。
死にたくないかと聞かれればそうだろう。遣り残したことは沢山ある。だが自分の死を望んでいる人間が山ほどいることも承知している。そう思われるような行いしかしてこなかったのだから。しかし死を目前にした今、誰にも必要とされず、誰にも愛されずに死んでいくのは辛いと感じた。先程自分にはそんな資格はないと思ったばかりなのに、本当の自分はこれ程までに弱かったのか。
最後の力を振り絞って、眼前にあるであろう少年の頬を手の甲でそっと撫でる。彼はぴく、と一瞬怯えたような動きを見せたが、その手を振り払うことは無かった。白い肌を血で汚してしまったが、少年は全く気にしていないようだった。
「―――死にたくない」
ぼんやりとした視界に、彼の藍色の瞳がそこにあると感じる。その方向に向けて、最期の言葉を囁くように呟いた。これまで誰にも本心を打ち明けたことなどなかったが、人生の終わりくらい、弱音を吐いても許されるだろう。人を欺き、命を奪い、非道な行いばかりを繰り返しただけの生き方でも、まだ生に対する執着はあったらしい。
突然、掌に温もりを感じた。頬に触れた自分の手を、彼が両手で握り締めているのだと分かる。恐る恐る戸惑いながら、それでも力強く握られる幼く小さいその両手は、血だらけの手を全て包み込むことはできないようだった。薄れゆく意識の中で、少年の行動に応えようとするが、そこで思考は途絶え、意識は闇の底へと落ちて行った。




