第四話 禁中の陰陽師 壱
青白い結界が脇道いっぱいに広がった瞬間、暴れていた妖の腕は、まるで時間ごと凍結し、縫い止められたかのように動きを止めた。
先ほどまで石畳を這い、鬼灯を模った赤の提灯と、夜の始まりの黒に沈んでいた脇道に、青白い光が差し込んだ。祭りの喧騒から切り離されたその場所だけが、急に冬の夜のような凛とした冷たさを帯びていた。
雪凪は、突き出しかけた短刀を止めたまま、札の向こうに立つ男を見た。
(月光みたいな人)
漆黒の髪。藍に近い深い色の装束。袖口には、銀糸で竜胆の文様が縫われている。冷えた目で妖を見据えるその姿は、祭りに紛れた町人でも、影方の者でもない。
「半端に斬るな。穢れが散る」
男はこちらを責めるでもなく、ただ当然の理を告げるように言った。深い声色は、芯から身体に響くようだった。
男はそれから、ふわりと浮かぶようにして石垣から飛び、雪凪のすぐ前に降り立った。
背が高い。小柄な雪凪からすれば見上げるほどの背丈をしている。
(この人、気配が薄い……)
あまりに自然に降り立ったため、反応が遅れた。しかし雪凪から見れば、任務の阻害をする人間は全て敵である。短刀を構えて逆刃で振り下ろす。
しかし、男は銀糸で編まれた袖口の竜胆の紋様を輝かせながら、軽々と避ける。
「そう殺気立つな、娘」
男の深い藍色の目と、雪凪の琥珀の目の視線が絡む。
雪凪が再び短刀を持ち直した時、
「雪凪、止まれ。この男は攻撃するな。厄介だ」
緋ノ坂は、子供を背に庇ったまま男を睨む。
「禁中の陰陽師だ」
「陰陽師様……?」
影方が将軍の直下であるとすれば、陰陽師は帝の直下。帝の御座す禁中に仕え、都の霊脈を読み、祭祀と呪術を担う者たちである。
しかし、禁中のみで暮らすため、市井に出ることなど殆ど無い。雪凪も「陰陽師」という者が存在している、ということを知っているだけだ。
「そういう貴様らは、公儀の影か」
男の視線が、雪凪と緋ノ坂の背にある流葉三つ巴を捉えた。第十四代征夷大将軍・凱安公の影として動く者の証を見ても、男の表情は微塵も変わらない。
「将軍の犬が、神域の麓で何をしているのだ」
その一言で、緋ノ坂の空気がぴりっとしたものに変わった。
「犬じゃねぇ。影方だ」
「同じことであろう。元来、妖を祓うのは陰陽の役目だ。清めた鉄で斬るだけの者が、祓いの場を乱すな」
「お前達陰陽師様が禁中の結界は立派に守るくせに、町の子供が消えても腰を上げねぇからだ」
緋ノ坂の手が長槍を握り直す。だが、雪凪は二人のやり取りには反応しなかった。
「……陰陽師様」
雪凪は短刀を構えたまま言った。
「穢れが散るとはどういうことでしょうか」
「そんなことも知らないのか。それで妖を退治しているとは、大したものだ」
「あれを祓う方法があるのであれば教えてください」
嫌味をたっぷりと染み込ませた言葉には反応をせず、静かな表情のままの雪凪に男は「ほう」わずかに目を細めた。
雪凪としては目の前の男が禁中の陰陽師であろうと、影方を侮辱しようと、今は任務である「妖を倒す」を達成する手段として有効なら使う。それだけだった。
「では、まず下がれ。そこにいると邪魔だ」
「そうしたらあれを倒せますか」
「当然だ」
その言葉を受けて雪凪は一歩だけ退いた。緋ノ坂が苦い顔をする。
「雪凪」
「対象討伐のためです。陰陽師様はあれを祓えると言っています」
陰陽師の男が新たな札を取り出す。白い札は指先を離れると、すでに妖を囲んでいる札の輪へ吸い込まれるように飛び、青白い結界をさらに狭めていった。
妖の身が、ぎし、と軋む。
「……ああ。いやだねえ」
先ほどまでのふざけた調子は、もう薄れていた。妖の声は、喉の浅いところで泡立って消えるように掠れている。
「陰陽師に祓われるのは、いやだねえ」
白い狐面の破片がかたかたと震え、面屋の男の形をしていた体が内側から崩れ始める。白かった腕は黒く染まり、裂けた口からどろりとした煙が溢れた。
「くそ。やっぱり退治しきれてないだろう!」
緋ノ坂が背中に差していた長槍を構えて、溶け始めた口元に向かって突き刺した。
「おい、今は余計なことをするな…!」
次の札を構えていた陰陽師の男は眉をやや顰める。
その僅かな綻びが生じた次の瞬間、妖は自らの腕を噛み千切った。ぶちり、と肉を断つ湿った音がして、黒い液体のような煙が陰陽師の結果を汚す。その煙で青白い光が揺らぎ、陰陽師が放った白札が黒く焦げた。
「自身の身を捨てたか」
妖の形が、さらに崩れた。
面屋の男だった肉も、白い腕も、裂けた口も、すべてが濁った煙となって結界の底へ流れ落ちる。
「随分と小賢しい妖であるな」
目線で妖の残滓を捉えた雪凪は即座に動いた。
黒煙の一筋が、石畳の隙間へ潜ろうとしている。雪凪は短刀を振り下ろした。京鎮大社の清めを受けた刃が煙を裂き、妖の悲鳴が低く細く響く。
「……ああ……嫌だねえ。その目は」
だが、全ては斬れない。
煙の一部は、割れた狐面の欠片へ流れ込んだ。欠片に描かれた朱の眦が、ぬめるように光る。
緋ノ坂の長槍が続けて石畳を抉った。さらに陰陽師の札が飛ぶ。
それでも、一瞬だけ遅かった。
「またねえ、よく見えるお嬢さん」
妖の声が、どこからともなく響いた。
「次は、その美味しそうな目から喰ってあげるよお」
黒い欠片は鬼灯提灯の赤い灯をすり抜け、火の粉と共に散った。
脇道には、砕けた狐面の残骸と、黒い染みだけが残された。
「逃げたか」




