第二話 狐の面屋
雪凪と緋ノ坂は、京の中央に位置する、京鎮大社へと向かう。夕刻から宵へと移ろう時間はほんの僅かで、油断をすれば直ちに闇の時間に切り替わる。二人の歩調は早い。
七月の夕刻は肌にじんわりと汗が滲むほどじっとり熱く、息を吸い込むと、肺腑まで夏の湿り気を帯びるように感じるほどだ。
「雪凪」
「何でしょうか、緋ノ坂さん」
御庭番の墨黒の小袖を身にまとった雪凪は、足は止めずに、しかし小首だけ傾げた。
雪凪の小袖は動きやすいように手首できゅっと細く括られている。そして腰に巻いた深緋の帯には短刀が二本差されていた。
袴は裁付袴。可動域を確保するために片側が深く割られており、歩みを進めるたび、黒い脚絆を巻いた細い足がのぞく。右の太ももには黒革の帯が渡され、御庭番に必要な道具が無駄なくきっちりと収められている。
そして、背には、朱色の流葉三つ巴。
それこそが第十四代征夷大将軍・凱安公の影として動く者の証だった。
雪凪の歳は十五程度。同じ年恰好の少女達は、いつもよりもめかし込んで宵祭りに向かおうとしている。くすくすと笑いながら歩く彼女達は、桜に萌葱、菖蒲に山吹と、様々な色を纏っている。黒一色に染まった少女などいない。
京では艶やかな宝玉を嵌め込んだ髪留めが流行っているようで、その煌めきは目に眩しいほどだ。
緋ノ坂は、雪凪と同じ黒墨の自身の袖を握り、それから雪凪の紅の髪留めを眺めながら続けた。
「お前、今日は前に出過ぎるな」
「何故でしょうか」
すぐに雪凪は疑問を返した。
琥珀色の瞳は作り物のように、無機的に光を反射している。
「先ほど言った通りだ。三夜も戦い続けている前衛など危なっかしくて見ていられない」
雪凪と緋ノ坂は対として任務に当たることが多いが、それでも常時ではない。雪凪は京の外れで与えられた別の任務から帰ってきたばかりだった。
雪凪は、純粋に「?」と言うように小首を傾げた。
「命令は絶対です。妖を討てと言われれば、討ちます。それが影なのでしょう?」
何ということは無い。雪凪が知っている生き方はそれだけだ。
「あのなあ……いやいい」
三つ年下である雪凪と、前衛後衛の対となり任務を達成してきた緋ノ坂は、これ以上は説得が出来ないと諦めた。
緋ノ坂自身も、影としての生き方しか知らない。御庭番として生きている者達は殆どが身寄り無く、親無しとして路地裏で盗人の真似事をして死んでいくか、御庭番として生きるかを選択して生きてきたものばかりだ。
しかし、緋ノ坂の場合は任務の他にも守るものがある。
*
京の中心である京鎮大社の参道では、季節ごとの祭りが催される。七月は夏宵祭り。二十八日の間、鬼灯に見立てた提灯を参道に飾り、厄を払う。
そして、参道には屋台が所狭しと並び、町の人々で賑わっている。厄払いとしてだけではなく、商いの場としても非常に重要で、京の街で重んじられている祭りの一つだ。
「今のところ、特に気配は感じないな」
「そうですね」
(祭りの匂いがする)
すん、と雪凪は鼻を鳴らす。笛と太鼓の音が、長い階段を登った先にある大社から漏れ響いていた。はしゃぐ子供の笑い声や、焼けた醤油の匂い、提灯の油の熱さ、それらが混ざって一つの祭りという場所を作り上げていた。
辺りに気を配りながら、赤嶺に指定された狐の面屋を探す。
鬼灯の提灯の赤と、空の藍がはっきりと色づいてきた頃、
「……あれか?」
と、緋ノ坂が、低く呟いた。雪凪もその視線を追う。
参道の中ほど、十軒ほど先の鬼灯提灯の明かりがいくつも重なる場所に、小さな面屋がぽつんとあった。軒先には、狐や烏天狗、般若、ひょっとこ、翁と色とりどりの面が吊るされている。子供たちは足を止め、母親の袖を引きながら、あれが欲しい、これがいいと口々に騒いでいた。
それだけ切り取れば何の変哲もない、普通の祭りの光景だ。
店先に並ぶ中に、白い狐面があった。朱で眦を描いたよくある狐面。
けれど、雪凪の琥珀の目には、その狐の面だけが妙に浮いて見えた。
周囲の提灯がぱちぱちと爆ぜて移ろう影を一切落とすこともなく、のっぺりと白いままそこにあった。立体感が無く、人ならざるものがそこに落とした、異物のようだ。
「妖か」
「まだ確証はありません。もう少し近寄ります」
「気をつけろ。お前が捕捉する前に闇に逃げられたら厄介だ」
「はい」
慣れた短い会話を終えて、黒袖の二人は立ち止まらず、人の流れに紛れたまま面屋へ近づいた。
面屋の主は、細い男だった。年の頃は三十ほどに見える。細長で痩せた頬に柔らかな笑みを浮かべ、五歳頃の男児の目線に合わせるように腰を屈めていた。子供の母親らしき女は、すぐ隣の簪屋に所狭しと並ぶ宝石付きの簪に目を奪われている。
「坊や、狐が好きなのかい?」
男は白い狐面を一つ手に取った。そのまま子供に差し出す。
「これはねえ、宵闇でも迷わない狐なんだよ」
男はきゅっと目だけを細めた。しかし、目の奥は笑っていない。笑顔という形だけを上から型で当てはめたような、そんな笑い方だ。そう。まさにお面のように。
子供は、うっとりと狐面を見上げたままだ。
「被れば、坊やもあちら側に行けるよお」
面屋の男は子供へ面を差し出す。子供は吸い寄せられるように手を伸ばした。
雪凪の目がわずかに細まる。捉えた。男の足元に、影がない。
提灯の灯りは確かに男を照らしている。周囲の人々の影は石畳に淡く伸びている。けれど、その男だけが、夕闇の中に影を落としていなかった。
面屋の男が、子供の手を取った。
その瞬間、祭囃子の音が一層大きく響いた。太鼓がどん、と身を震わせるように鳴る。宵の時間となり、神輿が始まったのだろう。
人の視線が、屋台から頭上にある社へと動いた。その一瞬で、男と子供の姿が薄く霞んだ。
「行きます」
「人目には付くな。参道の奥まで追い込む。俺は反対から回り込む」
「承知しました」
雪凪は踏み出した。
人の間を縫うように進む。墨黒の小袖が、提灯の赤い灯を吸い込むように揺れた。片側の深く割れた袴の裾から、黒い脚絆を巻いた足がちらりと覗く。
店先に吊るされていた面が、かたかたと揺れた。狐面。烏天狗。般若。翁。そのすべての面の目が、一斉に雪凪を見た。
(気が付かれましたね)
面屋の男は、狐の面を被せた子供の手を引いたまま流れるように参道の脇へ逸れていく。
(でも、捕捉出来た)
参道から一本入るだけで、断絶された世界のように灯りが届かない。音を出さない走り方で、靄のように消えたり、現れたりする面屋を追いかける。
参道の脇道は、京鎮大社の石垣と、古い茶屋の裏壁に挟まれた、日が落ちればすぐ闇に沈む道だった。一本道。追い込めば逃すことは無い。
しかし、夕と宵の境目は酷く時間や空間を脆くする。つい目の前にいたはずの面屋の男は消えたり、現れたりを繰り返している。
雪凪は瞳を細めて通りを目に収める。すると、消えかけていた男の輪郭が再び顕現した。
「おやあ」
脇道でふいに立ち止まった男が、振り返った。
「お嬢さん、私が視えているねえ」
ねっとりとすぐ耳の後ろで囁くような言葉。
雪凪は短刀を抜き、視線は正面のまま背後に刃を落とした。しかし手応えは無い。
「はーずれ」
嘲笑うような声が再び道の中央から響いた。再び、白い狐面を顔の横に掲げたままの細い男が現れる。
「はは。でも、追い詰められちゃったなあ」
参道の反対からは、銃を構えた緋ノ坂が覗いている。
「いやだなあ。視えている人間がいると、やりづらいなあ」
面屋の男はぐったりとしたままの子供を、弄ぶように持ち上げた。
「その子供を離せ、妖風情が」
面屋の男は、くくく、とおかしそうに笑った。
「いやだね」
ぱきり、と音がした。
男の顔が割れたのか。それとも、面が割れたのか。
白い狐面の下から、濡れた牙が覗く。裂けた口が耳元まで広がり、細い体の背から、腕とも脚ともつかない白いものが何本も生えた。
「せっかく、宵にうまそうな子を見つけたのに」




