第一話 京の夕刻
京の夕刻。
それは、人間の時が最も朧げになる刻限。
燃えるほどに鮮烈な茜色は、やがて闇に追われるように冥色へと沈んでいく。昼と夜。人と妖。此岸と彼岸。夕刻とは、それらの境目が、ひどく曖昧になる時間だ。
「雪凪、そちらに行った!二匹だ」
「はい」
黒い靄のようなものを纏いながら、京の裏道を走る獣が二匹。一見するとただの野良犬のようであるが、その歯は犬としては獰猛で、かつその足も犬よりもずっと俊敏だ。
さらに、音もなくその二匹を追う人間が二人。その片方である黒の小袖の少女は、真っ直ぐと目の前の獣を目に捉えながら腰元の短刀を抜いた。
まず一発。もう一人の走る男が銃を放ち、音に怯えた獣の走る動線が乱れる。その隙を見逃さず、少女は飛ぶようにして跳ね、頚椎の辺りに短刀を差し込む。流れるようにもう一本の短刀を抜いてもう一匹の獣の全く同じ位置に突き刺す。
ごり、と骨よりも硬いものを砕く感触が指先に伝わり、ややして妖が煙のようなり空に散っていく。
「よし、核を破壊出来たな。任務は達成だ。……雪凪、大丈夫か」
冷静に獣━━妖が消えていく様を見届けた男は、黒の小袖の少女に声を掛ける。その声色は優しく、どこか慈愛に満ちていた。
「問題ありません」
雪凪と呼ばれた少女は、二本の短刀を腰に収める。しかしそのまま琥珀色の目で、道の奥をその目で遠く眺めた。
「どうした。何かあったか?」
「……。いえ、勘違いだったようです。申し訳ございません」
(今何かがあそこにいたような気がしましたが、気のせいでしょうか)
京の裏道。あと一息で初めの星が西に輝くそんな夕刻の時間。りん、と何かが鳴る音が遠く耳に響いた気がした。
*
京の南西、長屋が立ち並ぶ区画の一角に、優に八十年は建っている古い薬屋がある。表向きは、ただの薬屋だった。曽祖父の代から薬を商っている男が、馴染みの客にだけ丸薬を売る、商売っ気のない店。
しかし、湿気と黴の匂いが染みついたその薬屋の扉を三つ抜け、さらに奥の壁板を外した先には、到底薬屋とは呼べぬものが並んでいた。
小刀、長槍、火薬玉、劇薬。封じ縄に、対妖用の鉄針。戦商人でも顔負けの量と種類の武具が、薄暗い土間に整然と揃えられている。
その奥の広間には、三人が座っている。
正面に、初老の男が一人。それに向かうように、若い男と少女が一人ずつ、背筋を崩さず正座している。二人とも、正面の男に敬意を払うように、畳の上で微動だにしない。
少女――三國川雪凪は、静かに声を発した。
「任務、でしょうか」
「ああ。中央の参道で開かれている夏宵祭り《なつよいまつり》で、数日続けて子供が幾人も消えている。それも、忽然とだ。妖の仕業と見て間違いない。お前たちで討ってこい」
男、赤嶺景綱の命令は端的だった。
歳は、すでに五十を超えている。この京では、老境に入ったと言ってよい齢だ。だが、その身から滲む圧は衰えを感じさせなかった。研ぎ澄まされた殺気が、ぶ厚い鎧のように赤嶺を覆っている。
左の目元には、大きな傷跡が走っていた。白く濁った左眼は、すでに光を映さない。けれど、その顔を向けられた者は皆、己の本質まで射抜かれたような錯覚を覚える。
「承知いたしました」
表情を一切変えないまま、雪凪は深く頭を下げた。
一つに括った長い栗色の髪が、肩口でわずかに揺れる。飾り気のない墨黒の装束の中で、唯一の装飾である紅の結び紐だけが、細く差し込む夕暮れを受けて薄く輝いていた。
「……頭。恐れながら、雪凪はすでに三夜、戦い続けています。今宵の任務は私が」
雪凪の隣で正座していた男、緋ノ坂一馬が、頭を下げたまま口を開いた。
しかし、その言葉が終わるより早く、広間は殺気に沈んだ。
「影が、立場を見誤るな」
赤嶺の声は低かった。
「これは上様からの命だ。俺たち影方は、それを遂行するまで。余計な疑問を持つな。それができないのなら」
白濁した眼が冷たく緋ノ坂を見ている。
「お前は今すぐ死ね」
肌を刺すほどの殺気だった。緋ノ坂は、さらに深く頭を下げた。
「はっ、申し訳ございませんでした。出過ぎた発言でした」
緋ノ坂が頭を下げると、赤嶺はそれ以上叱責しなかった。
赤嶺が求めているのは、命令遂行による妖の討伐。ただそれだけだ。その結果を持ち帰れば、緋ノ坂の失言程度無かったことにするだろう。
「消えた子供は、いずれも日暮れから間もなく姿を消している。最後に目撃されたのは中央の参道。狐面を売る露店の近くだ」
「狐面、ですか」
瞬きで、雪凪の長いまつ毛がふるりと揺れた。
「必ず討て。ここ最近、妖の動きが激しい。すぐにでも次の任務がある。長引かせるな」
「はっ」
「承知いたしました」
雪凪は小刀を腰元に差し直し、再び頭を下げた。そして緋ノ坂と共に、広間を出た。
*
第八代征夷大将軍の代より、将軍には懐刀と呼ばれる組織が仕えている。
それは、御庭番。
諸藩の動向を探り、市井の噂を拾い、時に世論を動かし、時に将軍の命を脅かす者を密かに排除する。表に名は残らない。褒美は無い。死んでも公に弔われることはない。しかし、変動する時代に確かに存在しているもの。彼らは公儀の影であり、将軍の憂いを除くための刃だった。
そして、その御庭番の中で、妖害を扱う者達を、影方と呼ぶ。
宵に紛れ、人を食み、闇に巣食う妖を、人の生身の身体で討つ者たち。求められるのは命令を絶対に遂行する忠誠心と、人並外れた戦闘力。
三國川雪凪もまた、その影の一人だった。命を受け、妖を討ち、名を残さず影に還る。彼女に許されている生き方はそれだけであった。
けれど、その夜。
宵との境で、雪凪はまだ知らない世界と出会うことになる。




