第11話
新宿署の取調室で佐伯は長い時間、拘束されていた。
マンションの地下室で殺人事件の容疑者、二谷友則を確保した。
110番通報後、かなり遅れて非常階段から警察が地下室に入って来た。
そのまま二谷とともに佐伯は新宿署に連れて行かれた。
佐伯は自分は警視庁捜査一課の佐伯修司警部補だと名乗ったが、新宿署の刑事たちは警視庁に問い合わせたところ、そのような名前の警官はいないとのことだった。
どういうわけか自分が着てるウェットスーツから警察手帳も拳銃も手錠も出てこない。
二谷同様、自分が不審者扱いされているのは明らかだ。
「いい加減に警視庁に帰してくれないか」
佐伯がテーブルを叩く。
テーブルの向かい側には若い女性刑事が詰めている。
ネームプレートから「土屋邦子巡査」と読める。
「あなたは佐伯修司ではありません。あなたは加納俊也ですよね」
邦子は運転免許証をテーブルに置く。
「これがあなたのウェットスーツに入ってました」
佐伯はそれを見て、ふと笑い出す。
これがおれの衣服から出てきたのか。これは確かミシロ商事から通報のあった無差別連続殺人犯を捕まえたところ、所持していた運転免許証だ。顔写真を覚えている。
名前は加納俊也。彼は新宿のタワマンに住んでると主張していたが、免許に書かれた住所は新大久保のシェアハウスだった。
「なにがおかしいの」
「これはおれの免許証じゃない。おれが担当した容疑者のものだ。顔を見てみろよ。俺と似てないだろう」
「似てるわ」
邦子はコンパクトの鏡を佐伯に見せる。
佐伯は驚愕する。自分の顔が加納俊也のそれになっているのだ。
取調室の隅の壁に古ぼけた一人用の洗面台を見つける。洗面台の上に鏡があり、壁にはめ込まれている。
「ちょっと失礼」
佐伯は立ち上がり、洗面台の方へ行く。
鏡に自分の顔をうつす。まちがいない。鏡にうつった自分の顔は加納俊也だ。
佐伯はうなだれてテーブルに戻って来る。
「自分の顔がどうかしたの」
「……」
おれは加納俊也になってしまたんだ。佐伯は大声で叫びたいところを必死に抑える。
そればかりではない。テーブルに置かれた運転免許証をよく見ると、加納の住所はショッピングセンターがあるはずの場所でマンション名が書いてある。
加納は本当にタワマンの住人だったのか。
様々な想念と疑惑が佐伯の脳裏をかき回す。
「ところで」
佐伯が声をふりしぼって言う。
「二谷友則はどうなった。あいつ、連続殺人犯だろう」
「もちろん二谷もすでに逮捕したわ。ただし罪状は連続殺人でなく、結婚詐欺ね。
調べたところ二谷は複数件の結婚詐欺容疑があったんだけど、すべて自供したわ」
拘置所の中に入ったのははじめてだ。
ジロウに意識を占拠された私は佐伯の部下である若林刑事に殺人容疑で逮捕され、そのままここに連れてこられた。拘置所内ではすでにジロウの意識はなく、私の意識に戻っていた。
拘置所の中で私は長い時間、考えを巡らせた。
アーカシックレコードの曲は『電脳加油』のこれまでのどの曲よりも、威力のあるものだった。
私の意識は肉体を離れ、佐伯修司という人物に憑依した。それだけではない。
私が今いる世界は私が元いた世界とは違う。パラレルワールドの別の世界線なのだ。
パラレルワールドの存在は量子力学で証明されているといってよい。
宇宙は原子から構成され、原子は素粒子から構成される。
電子などの素粒子は観測されるまで複数の状態が同時に存在する「重ね合わせ」の状態にある。ところが人間が観測した瞬間に「重ね合わせ」状態が分岐し、並行世界が生じる。
たとえば私の隣の独居房には加納俊也という名の殺人犯が収容されている。
彼は佐伯に憑依する前の私の顔とそっくりだが、経済状態は貧困でシェアハウスに住んでいる。しかも私が住んでいたタワマンの住所にはこちらの世界線ではショッピングセンターが建っている。
ここは私が元いた世界線とは明らかに別の世界線のパラレルワールドだ。
こうした情報を私が知っているのも私がアーカシックレコードにアクセスしたからだ。
アーカシックレコードは宇宙のすべての情報を記録したデーターベースであり、ここにアクセスすればすべてのことが理解できるようになる。つまり私は全知全能の神だ。
『電脳加油』のヒーリングミュージックは私がアーカシックレコードにアクセスすることを許したかわりに私の意識をパラレルワールドの別の世界線に飛ばし、しかも佐伯という私の知らない男の肉体に宿らせた。
これは生身の人間がアーカシックレコードにアクセスすることの代償としての副反応と言える。
ところで私の意識が元の世界線の私の肉体に戻る方法が一つだけある。
宇宙は膨大なソフトウェアだ。だからアーカシックレコードのプログラムを一部書き換えてしまえば元に戻れるはずだ。
そのためにはやはり『電脳加油』が必要だろう。
一つ気になるのがルナ人、ジロウの存在だ。ジロウの人格が出てきたらこの肉体は完全にジャックされる。
だがジロウの意識には規則性がある。満月の日にジロウは出現しやすい。だが満月を過ぎ、下弦の月までの数日間はジロウはほぼ出現できない。今がちょうどその期間だ。
アーカシックレコードのプログラムを書き換えたらジロウの意識を完全に消滅させることも可能だろう。
私は食事を持って来た看守に若林巡査をここに呼んでもらえないか訊いてみた。
拘置所に入ってから三日目の朝だ。
するとしばらくして若林がやって来た。
「お願いがあるんだが」
私が言う。
「佐伯さん、一体、どうしちゃったんです」
若林は泣きそうな顔だ。
「ジアヨウ社からもらった紙袋を持ってきてほしいんだ。
もちろん『電脳加油』など、紙袋の中身ももらったときの状態そのままで」
「わかりました」
若林はすぐ紙袋を持って来た。
「佐伯さん、どうしてこれが必要なんですか」
「すくにわかるさ」
若林が去ってから私は作業を開始した。
『電脳加油』をかぶり、電源を入れ、画面が立ち上がるとすぐキーボードの「F5」を叩く。
コマンドプロンプトの画面に移行し、エディタを立ち上げ、ソースコードを改竄する。
二時間以上かかったかもしれない。
私は再び「F5」ボタンを叩く。
強烈な耳鳴りが襲い掛かり、私の意識は朦朧としていく……。
(つづく)




