見つめ直す恋
――視線を感じた。
それは、これまで何度も向けられてきた“敵意”とは違う。
もっと静かで、もっと重くて、どこか――迷っているような視線だった。
私はペンを止めずに、ノートを取り続ける。
魔法理論の講義は、今日も淡々と進んでいた。
黒板に書かれる式を、一つも逃さないように書き写す。
正確に、精密に過不足なく。
……見られている。
分かっている。
けれど、振り向かない。
振り向く理由がない。
授業が終わる。
ざわめきが広がる中、私はノートを閉じた。
席を立ち、教室を出る。
――廊下に出た瞬間。
「……エミリア」
呼び止められた。
聞き覚えがある低い声。
私は振り返る。
「カイン・レオハルト様――いえ、学院内ではカイン先輩とお呼びすべきでしょうか?」
そこに立っていたのは、騎士団長――カインだった。
以前と変わらない、真っ直ぐな姿勢。
鋭い目、けれど……
……違う。
ほんの僅かに、
揺れている。
「少し、いいか」
「内容によります」
反射的にそう返すと、カインは一瞬だけ言葉に詰まった。
そして、苦く笑う。
「……そう返される立場だよな、俺は」
否定はしなかった。
沈黙が落ちる。
廊下を行き交う生徒たちが、ちらちらとこちらを見ている。
元・断罪側と、元・被告。
注目されないはずがない。
カインが口を開いた。
「……一つ、聞いてもいいか」
「どうぞ」
「なんで、お前は」
間が空いて……
「折れなかった」
私は瞬きをした。
予想外の質問だった。
「……折れる、とは?」
「全部だ」
カインの声は低い。
「疑われて、孤立して、味方もいなくて」
拳を握りしめる。
「それでも、お前は変わらなかった」
視線が、真っ直ぐにこちらを射抜く。
「なんでだ」
――ああ。
私は少しだけ理解した。
この人は、謝りに来たのではない。
“知りに来た”のだ。
私は少しだけ考えてから、答えた。
「変わる理由がなかったからです」
「……は?」
「事実は変わっていませんでした」
淡々と続ける。
「私が何もしていないという事実も、誰かを傷つけていないという事実も」
「だから?」
「それを曲げる理由がありません」
カインは黙る。
私は言葉を選びながら続けた。
「もし私が、あの状況で折れて“悪いことをしました”と言えば」
私は1拍置いた。
「誰かが“正しかったこと”になります」
静かに。
「それは、事実ではありません」
沈黙。
廊下のざわめきが、遠く感じる。
「……それだけか」
カインが、絞り出すように言う。
「それだけです」
「怖くなかったのか」
「怖かったですよ」
即答だった。
カインが、目を見開く。
「怖くても」
私は続ける。
「事実は、変わりませんから」
――静寂。
カインはしばらく何も言わなかった。
ただ、私を見ていた。
まるで、初めて見るものを見るように。
「……そうか」
小さく呟く。
「そういうやつか、お前は」
その声には、もう敵意はなかった。
代わりにあったのは――納得と、そして。
「……俺は」
カインが口を開く。
「お前を孤立させた側だ」
真っ直ぐな言葉。
「直接じゃない。だが、確実に」
拳を握る。
「騎士として、“正しいこと”をしたつもりだった」
今度はカイン先輩が1拍置いた。
「間違っていた」
私は少しだけ目を伏せた。
「……そうですね」
否定はしない。
事実だから。
カインは、苦く笑った。
「だよな」
そして、顔を上げる。
「だから、謝る――と言いたいところだが」
一瞬、言葉を切る。
「それで済む話じゃないのも分かってる」
私は何も言わない。
カインは続ける。
「だから」
一歩、こちらに近づいた。
「もう一つ聞く」
視線がぶつかる。
「お前は、どうすればよかったと思う」
私は少し考えた。
そして、答える。
「簡単です」
「……何だ」
「最初から、事実を見ればよかっただけです」
カインは、息を止めた。
「感情ではなく」
一歩も引かずに言う。
「証拠と、言葉と、行動を」
「……」
「それだけで、結果は違っていたはずです」
沈黙が降りる。
長い沈黙が。
やがて、カインは小さく息を吐いた。
「……耳が痛いな」
「そうでしょうね」
少しだけ、口元が緩む。
カインは、それを見て――
ほんの僅かに、目を細めた。
「……お前」
「はい」
「そうやって、誰にでも同じように話すのか」
「はい」
即答だった。
「相手が誰であっても、事実は変わりませんから」
カインは、しばらく黙っていた。
そして――
「……なるほどな」
ぽつりと呟く。
「そりゃ、好きになるやつが出るわけだ」
「はい?」
「いや、こっちの話だ」
カインは軽く頭を振った。
そして、私を見る。
その目にはもう、迷いはなかった。
「エミリア」
「はい」
「俺はまだ、お前に何かを言える立場じゃない」
一拍置く。
「だが」
まっすぐに。
「お前を、ちゃんと見ることから始める」
私は少しだけ目を瞬いた。
「……そうですか」
「文句は?」
「ありません」
淡々と答える。
「見るだけなら、自由です」
カインは笑った。
今度は、少しだけ軽く。
「厳しいな」
「当然です」
私は踵を返す。
「では、失礼します」
「ああ」
背中に視線を感じる。
さっきとは違う。
もう、“敵”としてではない。
評価でも、断罪でもない。
ただ――
“知ろうとする視線”。
私は歩きながら、小さく息を吐いた。
……面倒なことになった。
王太子だけでも十分だったのに。
今度は騎士団長まで。
そのうち、また増えるのだろうか。
……やめてほしい。
平穏が遠い。
本当に遠い。
けれど――ほんの少しだけ――ほんの少しだけ。
世界の見え方が、変わり始めている気がした。
数日後。
――やはり、視線は消えなかった。
むしろ、前よりも、はっきりと分かるようになった。
隠していない。
だからこそ、分かる。
私はペンを走らせながら、ほんのわずかに思考を巡らせる。
……観察されている。
敵意ではない。
評価でもない。
もっと単純で――厄介なもの。
授業が終わる。
ざわめきの中、私はいつも通りノートを閉じた。
その時だった。
「……それ、貸してもらっていいか」
低い声。
視線を上げると、カインがいた。
「ノートだ」
「分かっています」
私は淡々と答える。
「なぜですか」
「見たい」
即答だった。
私は少しだけ考える。
……合理的な理由はない。
だが、拒否する理由もない。
「構いません」
ノートを差し出す。
カインはそれを受け取り、ページをめくった。
数秒の沈黙。
「……なんだこれは」
「講義のまとめです」
「いや、それは分かる」
カインは眉をひそめる。
「正確すぎる」
「そうでしょうか」
「無駄がない。抜けもない」
カインのノートをめくる音だけが誰もいない教室内に異様に響くようだった。
「誰が見ても理解できるように書かれている」
私は首を傾げた。
「その方が便利ですから」
「自分のためじゃないのか」
「自分のためでもありますが」
少しだけ間を置く。
「他人が使えるなら、その方が有益です」
カインは黙った。
ページを閉じる。
そして、ゆっくりとノートを返してきた。
「……そういうところか」
「何がですか」
「いや」
カインは小さく息を吐く。
「やっぱり、お前は分かりにくい」
「よく言われます」
私はノートを受け取り、席を立つ。
教室を出る。
廊下。
歩きながら、ふと気づく。
……ついてきている。
振り返らない。
そのまま歩く。
数歩。
「……何か御用ですか」
立ち止まらずに言う。
後ろで、足音が止まった。
「いや」
少し間があって。
「見ているだけだ」
「そうですか」
それ以上は何も言わない。
歩き続ける。
――数日後。
小さな騒ぎが起きた。
実技訓練中。
一人の生徒が、魔法制御を誤った。
魔力が暴走する中、緊迫感が走る。
教師が制止に入るより、わずかに早く私は動いた。
魔力を展開し、暴走魔道を遮断。
そして収束。
最小限の魔力で、暴走を抑え込む。
数秒。
それで終わる。
クラスメイトがざわめく。
「……今の」
「すご……」
視線が集まる。
私は何も言わず、元の位置に戻った。
評価は、どうでもいい。
ただ、被害が出なければいい。
それだけだ。
――その日の放課後。
「おい」
呼び止められる。
振り返ると、カインだった。
「今の」
「はい」
「なんで、先に動いた」
私は少し考える素振りを見せる。
「危険だったからです」
「教師を待てばよかっただろう」
「間に合わない可能性がありました」
「……」
「最適解を選んだだけです」
カインは黙る。
そして、低く呟いた。
「評価、されなくてもか」
「必要ですか?」
即答だった。
カインが言葉を失う。
私は続ける。
「誰かが無事であることと、私が評価されることは別問題です」
「……」
「優先順位は明確です」
沈黙が落ちて――カインは、しばらく何も言わなかった。
やがて。
「……最悪だな」
ぽつりと呟く。
「何がですか」
「全部だ」
顔を覆うように手を当てる。
「こんなの、好きになるだろ」
私は瞬きをした。
理解できない、というより、理解する必要がない。
「そうですか」
それだけ答える。
カインは、苦く笑った。
「……ああ」
一拍置いて。
「最悪だ」
そして、顔を上げる。
その目は、もう迷っていなかった。
「エミリア」
「はい」
「俺は、もうやめない」
「何をですか」
「見ることだ」
真っ直ぐに言う。
「お前を、ちゃんと」
私は少しだけ考えてから答えた。
「自由です」
「……冷たいな」
「公平です」
訂正する。
「誰に対しても同じです」
カインは、わずかに目を細めた。
「だろうな」
小さく笑う。
「だから、余計にタチが悪い」
私は特に反応しない。
興味がない。
ただ一つ。
確かなことだけは分かっている。
この人はもう、私を敵としては見ない。
そして、それ以上でも、ない。
私は踵を返す。
「では、失礼します」
「ああ」
背中に、視線。
変わらない。
けれど、意味は変わった。
――それでも。
私は振り返らない。
振り返る理由がないから。
そのまま歩きながら、ふと思う。
……面倒なことになった。
だが、それは、もうどうでもいい。
私は、私のやるべきことをやるだけだ。
その結果として。
誰かが勝手に何かを思うのなら、それは、その人の問題だ。
私の問題ではない。
だから……。
――私は、前を向いて進む。
後ろで誰かが立ち止まっていても。
その距離が縮まることは、きっとない。
それでも。
カイン・レオハルトは、知ってしまったのだ。
“悪役”ではなかった少女の、
静かで、揺るがない強さを。
そして、その代償として――手の届かない恋を。




