『何もしなかった』恋
――視線は、三種類ある。
敵意のある視線、興味だけの視線、そして――迷っている視線。
最近、三つ目が増えた。
私は図書室の奥で、本を閉じる。
昼休みの静けさは嫌いではない。
むしろ、ここだけは“平穏”に近い場所だと思う。
……思っていたのだけれど。
「珍しいね。君がここにいるのは」
聞き慣れた声。
顔を上げると、そこにはルイス・バーミリオンが立っていた。
「図書室は誰でも利用できます」
「もちろん。そういう意味じゃないよ」
ルイスは軽く肩をすくめる。
相変わらず、柔らかい物腰。
――けれど。
以前とは違う。
ほんの僅かに、笑みの奥が揺れている。
「隣、いい?」
「どうぞ」
断る理由はない。
ルイスは私の向かいに座った。
本を開くでもなく、ただ指先で机を軽く叩いている。
……珍しい。
この人はいつも、隙がない。
「何か御用ですか」
「用事がないと話しかけちゃいけない?」
「いけないとは言っていません」
「じゃあいいか」
軽く笑う。
――会話は成立している。
でも、どこか、噛み合っていない。
私はページをめくりながら言った。
「言いたいことがあるなら、どうぞ」
一息ついて。
ルイスの指が止まる。
「……鋭いね」
「そうでもありません」
また一息ついて、そして。
「――あの時さ」
ぽつりと。
「君、俺を見たよね」
私は手を止めた。
記憶は、すぐに引き出せる。
公開聴取前。
責められていた時。
……一度だけ、私は彼を見た。
「見ましたね」
否定はしない。
ルイスは小さく笑った。
「だよね」
軽い口調。
でも。
その奥にあるものは、軽くない。
「何も言わなかった」
「はい」
「助けもしなかった」
「はい」
「否定も、しなかった」
私は静かに頷いた。
「事実です」
ルイスは目を伏せた。
「……やっぱり、君はそう言うよね」
「事実ですから」
一瞬の沈黙。
でも、重い沈黙。
「ねえ、エミリア」
「はい」
「俺さ」
一拍。
「何もしてなかったんだよ」
私は答えない、続けるのを待つ。
「どっちの味方もしなかった」
「判断を保留した」
「空気も壊さなかった」
自嘲気味に笑う。
「……賢い選択、のはずだった」
その言葉に、私は少しだけ視線を上げた。
ルイスは笑っていなかった。
「でも違った」
静かに。
「何もしてないってさ」
一拍置く。
「一番、最低なんだよね」
――その言葉は。
少しだけ、予想していなかった。
私は本を閉じた。
「どうして、そう思ったのですか」
ルイスは少し驚いたように目を瞬いた。
「聞くんだ」
「はい」
「……責めないんだ」
「責める理由がありません」
ルイスは苦笑した。
「やっぱり、そういうとこだよ」
そして、少しだけ遠くを見る。
「全部終わってさ」
「君が正しかったって分かって」
「世界が歪んでたって知って」
指先が、僅かに震える。
「俺、思い出したんだよ」
――フラッシュバック。
言葉にしなくても、分かる。
「昔のこと?」
「うん」
小さく頷く。
「子供の頃さ」
「君、よく俺の話聞いてくれてたよね」
私は少し考える。
……そういう時期も、あった。
「覚えています」
「だよね」
ルイスは笑う。
今度は、少しだけ本当に。
「俺さ、あの時――君にだけは、信じてもらえてるって思ってた」
――静かに、胸に落ちる言葉。
私は何も言わない。
ルイスが続ける。
「で、今回」
「同じこと、されたんだよ」
「俺が」
一瞬、視線が揺れる。
「君に」
私は目を細めた。
「……期待していた、と?」
「うん」
即答だった。
「してた」
迷いのない言葉――だからこそ。
重い。
「でも俺は」
「何もしなかった」
笑う。
「期待されてた側なのにね」
私は少しだけ息を吐いた。
「それで」
「はい」
「どうしたいのですか」
ルイスは一瞬、言葉に詰まる。
珍しい。
この人が迷うのは。
「……どうしたい、か」
繰り返す。
考えるように。
「正直に言うと」
一瞬のため息。
「まだ分からない」
私は頷いた。
「そうですか」
「ただ」
ルイスは私を見る。
真っ直ぐに。
「一つだけ分かってる」
「何でしょう」
「このまま何もしないのは」
間を置いて。
「もう、嫌だ」
静かな決意。
派手さはない。
でも、確かに変わった。
「……そうですか」
私はそれだけ言った。
ルイスは少しだけ笑う。
「相変わらずだね」
「何がですか」
「優しいのか、冷たいのか分からないとこ」
「どちらでもありません」
「じゃあ何?」
今度は私がため息をつく。
「事実を見ているだけです」
ルイスは吹き出した。
「はは……ほんと、ブレないね」
そして。
少しだけ、声を落とす。
「……だからさ」
「はい」
「ちょっとだけ、期待してもいい?」
私は首を傾げた。
「何をですか」
「今度は」
一拍置いて。
「何かした俺を、見てくれるかどうか」
――それは。
告白ではない。
願いでもない。
ただの確認。
私は少し考えた。
そして、答える。
「行動は、見ます」
「……そっか」
「評価は、別です」
続ける。
「過去は変わりませんから」
ルイスは目を閉じた。
そして。
「うん」
小さく頷く。
「それでいい」
その声は、どこか――安堵していた。
私は立ち上がる。
「では、失礼します」
「うん。またね」
背を向けて歩き出す。
――視線を感じる。
けれど、それはもう。
敵意でも、迷いでもない。
ほんの少しだけ――。
“何かをしようとする人間の視線”。
私は小さく息を吐いた。
……変わるのだろうか。
あの人は。
分からない。
分からないけれど。
少なくとも。
“何もしない人”では、なくなったらしい。
それだけは、確かな事実だった。
――翌日。
図書室は、やはり静かだった。
静かで、整っていて、余計なものがない。
……だからこそ、変化が分かりやすい。
私は本を開きながら、ほんの少しだけ視線を上げた。
――いる。
昨日と同じ席。
昨日と同じように、本を開いている。
ルイス・バーミリオン。
ただし、違う点が一つ。
“本当に読んでいる”。
昨日は違った。
ページはめくられていたけれど、視線は落ち着いていなかった。
今日は違う。
視線が定まっている。
指先の動きも、無駄がない。
……行動が変わっている。
私はページをめくる。
気にしない。
気にする理由がない。
――数分後。
「……エミリア」
静かな声。
昨日より、迷いが少ない。
私は顔を上げた。
「何か御用ですか」
「うん。少しだけ」
ルイスは本を閉じた。
その動作が、やけに丁寧だった。
「昨日の続き」
「何でしょう」
「“何かする”って言っただろ」
「はい」
「一つ、やってみた」
私は首を傾げる。
「何をですか」
「事実を見ること」
1拍の間。
「ちゃんと、ね」
私は少しだけ目を細めた。
「具体的には?」
ルイスは軽く息を吐く。
「昨日の講義」
「君が、隣の子のノートをさりげなく補ってた」
「本人が気づかないように」
……見ていたらしい。
「あと、後ろの席の子が間違えた時」
「先生に指摘される前に、別の話題に誘導した」
私は本を閉じた。
「よく見ていますね」
「見てるからね」
即答だった。
――昨日の言葉通り。
「で、思った」
「何でしょう」
「君、ずっとこれやってたんだろ」
私は答えない。
否定も、肯定も。
ルイスは小さく笑う。
「だよね」
そして、少しだけ視線を落とす。
「俺さ、一何も見てなかった」
その言葉は、昨日よりも静かで。
でも、重かった。
「……そうですね」
私は淡々と答える。
責めるでもなく、慰めるでもなく。
ただ、事実として。
ルイスは苦笑した。
「ほんと、容赦ない」
「事実ですから」
「うん」
頷く。
逃げない。
それだけで、昨日とは違う。
「でもさ」
「はい」
「これ、やめないの?」
「何をですか」
「そうやって、誰にも気づかれないように動くの」
私は少し考えた。
そして――。
「やめる理由がありません」
ルイスは一瞬、言葉を失う。
「評価されないよ?」
「問題ありません」
「損するよ?」
「しません」
即答。
「どうして」
「必要なことだからです」
また間が空く。
「誰かが困る前に対処する方が、効率的です」
ルイスは、しばらく何も言わなかった。
ただ、私を見ていた。
そして。
「……やっぱりさ」
「はい」
「好きだわ、それ」
私は瞬きをした。
告白ではない。
でも、感情は、隠していない。
「そうですか」
「うん」
軽く笑う。
でも、その笑みはどこか諦めを含んでいた。
「でもさ、選ばれないのも分かってる」
――静かに落ちる言葉。
私は視線を逸らさない。
「そうですね」
否定しない。
それが事実だから。
ルイスは少しだけ肩の力を抜いた。
「やっぱり、そう言うよね」
「はい」
「でも」
私は続ける。
「行動は見ています」
ルイスが、わずかに目を見開く。
「……それ、昨日も言ってたね」
「はい」
「変わらない?」
「変わりません。けれど……」
私は少しだけ言葉を選ぶ。
「“何もしない人”ではなくなりましたね」
――沈黙。
ルイスの表情が、止まる。
「……それ」
「はい」
「褒めてる?」
「事実です」
ルイスは、ゆっくりと息を吐いた。
そして。
「……そっか」
小さく笑う。
今度は、どこか救われたような笑みだった。
「じゃあ、もうちょっと頑張る」
「そうですか」
「うん。君のために」
私は首を横に振る。
「違います」
「え?」
「あなたのために、です」
静かに訂正する。
「そうしないと、また同じことになります」
ルイスは、少しだけ目を細めた。
そして。
「……ほんと、厳しいな」
「当然です」
私は本を開く。
「では、勉強に戻ります」
「うん」
ルイスも本を開く。
――静寂が戻る。
けれど、昨日までの静けさとは違う。
同じ空間に、同じようにいる。
それだけなのに、ほんの少しだけ。
空気が変わっている。
私はページをめくりながら、思う。
――彼は、変わるだろうか。
分からない。
分からないけれど。
少なくとも。
“何もしていなかった人”では、もうない。
それだけは、確かだった。
そして、その変化は――
私のためではなく、彼自身のためのものだ。
だからこそ。
それ以上の意味は、持たない。
持たせない。
私は静かにペンを走らせる。
平穏は、まだ遠い。
けれど、少しだけ。
世界は、正しい方向に動き始めていた。




