第六話:最高峰の魔導士は、非科学的な奇跡を認めない
人間、あまりにも外堀を完璧に埋められると、逃亡の意志すら削がれるらしい。
「シオン様、喉が渇いておられませんか? 王都最高の茶葉で淹れた紅茶をご用意いたしました」
「あ、どうも……」
白銀の甲冑をガチャガチャと鳴らしながら、跪いて銀のティーカップを差し出してくる美少女騎士。
少し前まで俺の喉元に冷たい細剣を突きつけていた「氷の断罪姫」クラリスは、いまや完璧な忠誠を誓う専属侍女のようになっていた。
倉庫の外には、彼女が招集した王立騎士団第二部隊の精鋭五十名が完全武装で包囲網を敷いている。
クラリス曰く「尊き救世主様を不審者からお守りするための鉄壁の警備」だが、俺からすれば「一歩でも逃げ出したら即座に確保される包囲網」でしかない。
『おいペテン野郎。紅茶、美味そうじゃねえか。俺の分は?』
「ベルゼ、お前は猫だろ。紅茶なんか飲んだら腹壊すぞ」
『俺は概念の神獣だっつーの。……それにしても、いい身分になったもんだな。家賃滞納のドブネズミが、騎士団長直々に茶を汲んでもらえるたァな』
肩の上の黒猫がニヤニヤと意地悪く笑う。
手持ちの現金は千二百ペニーのまま。なのに周囲の戦力と権力だけが、国家の中枢レベルへと跳ね上がっていく。
この異常な空間に、新たな招かれざる客が乱入してきたのは、紅茶を一口啜った瞬間だった。
「――どけい! 王立魔導院の調査である! 騎士団の分際で、魔導の最高権威たる我らの立ち入りを拒むか!」
倉庫の外から、甲高い怒声と金属鎧のぶつかり合う音が響いた。
扉が乱暴に押し開かれ、豪奢な紫色のローブを纏った一団が踏み込んでくる。
先頭に立つのは、鷲鼻に銀縁の眼鏡をかけ、神経質そうに唇を尖らせた初老の男だった。手には宝石が埋め込まれた豪奢な魔導杖。
「……アルベルト筆頭魔導士殿」
クラリスが即座に立ち上がり、細剣の柄に手を添えて冷ややかに迎え撃つ。
「ここは現在、第二部隊の管轄下にあります。魔導院といえど、事前通告なき立ち入りは認められません」
「黙られよ、小娘が!」
アルベルトと呼ばれた男は、唾を飛ばして杖を床に打ち鳴らした。
「王都の大結界が突如として変質し、魔導院の制御を完全に離脱したのだぞ! 原因を辿れば、この貧民街のドブ溜まりから異常な干渉波が出ているではないか! ……そこにそびえる神代金の柱といい、何事だ!」
アルベルトの血走った視線が、青白く輝く巨大な結晶柱を捉え、次いで粗末な服を着た俺へと突き刺さった。
「貴様がこの騒動の元凶か。……フン、魔力測定器の反応はゼロ。魔力回路の欠片すら感じられんただの無能者ではないか。クラリス監察官、貴様はこのペテン師の安っぽい幻影魔法に騙されているのだ!」
「無礼な! シオン様は命を賭して王都結界の崩壊を防ぎ、再構築してくださった大恩人です!」
「馬鹿を言うな!」
アルベルトは鼻でせせら笑い、眼鏡を指先で押し上げた。
「王都結界は数百年の歴史を持つ至高の魔導建築! 魔導院のエリート数百名が昼夜管理してすら綻び一つ見つからぬ完璧な代物だ! それが崩壊寸前だったなどという出鱈目、学術的にあり得ん! この男は、未知の古代遺物を暴走させて結界の波長を乱しただけの重犯罪者だ!」
理路整然とした、プライドの塊のような糾弾。
魔導院の学者たちも後ろで頷き合い、俺を「無知な危険人物」として蔑むような視線を向けてくる。
「直ちにこの男を拘束し、魔導院の実験室で脳内を解剖・走査する! この神代金柱も魔導院の研究資材として全量接収だ!」
解剖。
聞き捨てならない単語が飛び出してきた。王宮に連行されるどころか、生きたまま頭蓋骨を開けられる危機だ。
『おいシオン、学者様が解剖してくれるってよ。良かったな、頭の中のホラ吹き回路が綺麗さっぱり治るぞ』
(笑ってる場合か! あの頭の固いインテリ爺を黙らせねえと、マジで実験動物にされる!)
クラリスが抜剣しようとするのを、俺は片手で制した。
ここで騎士団と魔導院が武力衝突すれば、内乱の引き金を引いた首謀者として俺の首が飛ぶ。
やるべきことは、ただ一つ。
権威と知識に絶対の自信を持つこの学者を、最も屈辱的な形で「全力で疑わせる」こと。
俺は紅茶のカップをバズに預け、わざとらしく深いため息をつきながら歩み出た。
「……やれやれ。魔導院の『筆頭』とやらが、この程度の基礎理論すら理解できていないとはな。王国の魔術水準も地に落ちたものだ」
「……何だと?」
アルベルトの顔がピクリと引き攣る。
俺は眉をひそめ、哀れむような視線を眼鏡の奥の瞳へと注いだ。
「あんた、魔導書に書かれた数式を丸暗記しただけで満足してる口だろ? だから分からないのさ。あの結界の変質は、古代帝国の失われた究極理論――『逆位相魔力循環による自然治癒式結界術』の起動現象だってことがな」
「ぎ、逆位相……自然治癒……?」
適当な単語をそれっぽく並べただけの、完全なるデタラメ。
ベルゼが脳内で腹を抱えて転がり回る。
『出たァ! もっともらしい専門用語のパッチワーク! 中二病の子供でももうちょいマシな設定考えるぞ!』
俺は構わず、芝居がかった手つきで神代金の柱を指差し、鼻で笑った。
「結界ってのはな、外部から魔力を注ぎ込むんじゃない。大気中の汚れや人々の吐き出す負の感情を自動で魔力に変換し、永遠に自己修復を続けるのが『本物』の設計思想なんだよ。あんたらのやってる魔力注入なんて、穴の空いたバケツに泥水を注ぎ足してるだけの児戯にすぎない。……学者を名乗るなら、その程度の超高次多元方程式くらい、一瞬で暗算できるよな?」
空気が凍りついた。
超高次多元方程式。そんなものは存在しない。俺自身、算数すら怪しい詐欺師だ。
アルベルトの顔面が、屈辱で真っ赤に沸騰した。
額に青筋が何本も浮かび、魔導杖を持つ手が激しく震える。
「……小僧」
絞り出すような怨嗟の声が、倉庫に響き渡った。
「嘘をつけェェェェェッ!!」
本日一番の、腹の底からの絶叫。
「逆位相魔力循環だとォ!? 負の感情を魔力に変換する結界など、魔導工学の熱力学法則を根本から無視した狂人の妄言だ! 超高次多元方程式などという術式体系、古今東西の魔導書の一行たりとも存在せんわ! そんな荒唐無稽な理論が実在するわけがなかろうがァァァッ!!」
生涯を魔導研究に捧げてきたエリート学者による、魂の底からの「絶対否定」。
――カチリ。
世界の歯車が噛み合うような、硬質な音が空間に響いた。
空気が急激に圧縮され、物理法則と魔導理論の根幹が、アルベルトの「存在するわけがない」という常識をへし折るために、過去数千年の魔導史を丸ごと書き換えていく。
「な……なんだ、この空間の歪みは……!?」
魔導士たちが悲鳴を上げ、測定器が火花を散らして爆発した。
バサバサバサッ!!
アルベルトが腰に提げていた『王国公認・大魔導百科全書』が突如として激しくひとりでにページをめくり始めた。
白紙だったはずの最終章に、黄金のインクが染み出すように新たな魔導理論がびっしりと自動筆記されていく。
表題――『神代失伝魔導:逆位相自然治癒式結界概論(著:シオン・クローデル)』。
「な……ななな、なんじゃこれはァァァッ!?」
アルベルトが狂ったように本にかじりつき、眼鏡を落としかけながらページを貪り読んだ。
その顔から血の気がサーッと引いていく。
「馬鹿な……! 熱力学の矛盾を……虚数魔力軸の展開によって完全に解消している……!? これなら……大気中の負のエネルギーを結界の推進力へ変換できる……! 完璧だ……美しすぎる……! 有史以来の魔導士たちが誰一人到達できなかった『魔導の終着点』が、ここに完成している……!?」
ドサリ。
アルベルトは魔導杖を取り落とし、膝から崩れ落ちた。
その瞳には、先刻までの傲慢さは微塵もなく、神の啓示を浴びた狂信者の涙がボロボロと溢れ出していた。
「お、おお……! 私は……なんという盲目であったか……! 数式を暗記しただけの猿が、生ける魔導の神格に向かって法螺吹きと罵るとは……!」
アルベルトは床に額を激しく打ち付け、血を流しながら俺の靴を抱きしめんばかりに平伏した。
「シオン先生……! どうか、どうかこの愚かな老いぼれを、貴方様の末席の弟子に加えてくださいましィィィッ!! 王立魔導院の全予算と全蔵書、すべて先生の自由研究費として捧げますゆえェェェッ!!」
「弟子!? いや、俺は別に魔術なんて――」
「なんという謙虚さ……! 神の領域に達しながら、自らを魔導士とすら名乗らぬその高潔な精神! 直ちに魔導院最高評議会を招集し、先生を『名誉終身大魔導師』として推戴いたします!!」
後ろに控えていた魔導士数百名が一斉にローブを翻し、床にひれ伏して「シオン先生万歳!」の大合唱を始めた。
「…………」
手持ち現金、千二百ペニー。
増えたもの――騎士団の護衛部隊、国家最高位の魔導士の称号、そして王立魔導院の全予算の管理責任。
『――ぶはっ、あっはっはっはっはっはッ!!』
肩の上で、ベルゼが倉庫の梁に飛び移りながら狂乱の爆笑をあげていた。
『最高だぞシオン! 算数もできねえペテン師が、国家最高の天才学者たちの頂点に立っちまった! どうすんだよ名誉終身大魔導師大先生ェ!!』
「嘘だろォォォォォォッ!?」
スラムのボロ倉庫に、もはや何度目かも分からない俺の悲痛な絶叫が木霊した。




