第三話:伝説の暗殺結社は実在する(※今さっき実在した)
手の中にずっしりと収まる革袋の感触は、いつだって男の心を豊かにする。
「ほらよ、ババア! 家賃二千ペニー、きっかり耳を揃えて持ってきたぜ!」
アパートの薄暗い廊下で、俺はこれ見よがしに革袋から銀貨と銅貨を数え上げ、大家のババアの皺だらけの掌に叩きつけてやった。
ババアは目を丸くし、硬貨を一枚ずつ噛んで本物か確かめると、忌々しそうに舌打ちを鳴らした。
「……フン、どこで盗んできたんだか。まあいいさ、今月分は受け取ってやるよ。来月も遅れたら即刻叩き出すからね!」
捨て台詞を残して去っていくババアの背中を見送り、俺は残った千ペニーの革袋を懐に収めた。
家賃を払っても、まだ千ペニー残っている。これだけあれば、焼きたての白パンに肉厚のソーセージ、さらには上等なエール酒までつけられる。
「どうだベルゼ、見たか! これがプロの詐欺師の立ち回りだ!」
『はいはい、お見事お見事。で、そのプロの詐欺師様、外の気配には気づいてるか?』
肩の上で毛づくろいをしていたベルゼが、窓の外を顎でしゃくった。
言われて耳を澄ますと、いつもなら物売りや子供たちの声で騒がしいはずの表通りが、不気味なほど静まり返っていた。鳥の羽音ひとつ聞こえない。
嫌な予感を覚えながら、部屋の窓の隙間からそっと下を覗き込んだ。
「……うわあ」
思わず声が漏れた。
アパートを取り囲むように、黒革のベストを着た筋骨隆々の男たちがズラリと立ち並んでいた。その数、ざっと三十人以上。全員が棍棒や鉈を手に提げ、路地の出口を完全に封鎖している。
そして群れの中心には、ひときわ巨大な男が仁王立ちしていた。
剃り上げた頭に走る無数の古傷。丸太のように太い腕には、鋼鉄の鋲が打ち込まれた分厚い手甲が光っている。
スラムの武闘派組織「黒犬商会」の頭領――『鉄拳のバズ』。
『おいおい、勢揃いじゃねえか。朝の散歩にしては物々しいな』
「笑ってる場合か! あいつら、完全に俺を殺す気配で囲んでやがる!」
『さっきのチンピラどもが泣きついたんだろうな。「シオンってやつが頭の隠し金庫の鍵と横領帳簿を持ってます!」ってな。自分がハメられたと思ったバズは、証拠を握るお前を消しに来たわけだ』
ベルゼの冷静な分析が、グサグサと俺の心臓に突き刺さる。
逃げ道はない。アパートの裏口にもすでに数人の見張りが立っているのが見えた。
ドゴォォォン!!
階下で凄まじい破壊音が響き、アパート全体が激しく揺れた。
一階の頑丈な玄関扉が、蝶番ごと吹き飛ばされた音だ。
「おい、ドブネズミのシオン! そこにいるのは分かってんだよ! 大人しく出てこねえと、このボロ屋ごと叩き潰すぞォ!!」
地響きのような怒声が階段を駆け上がってくる。
階段をドカドカと踏み鳴らす重い足音。部屋の扉の前で止まったかと思うと、木の板が紙屑のように内側へ弾け飛んだ。
木煙の中から現れたのは、凶悪な笑みを浮かべたバズの巨躯だった。
「見つけたぜ、小僧」
バズが部屋に踏み込んでくるだけで、六畳一間の安アパートが狭苦しく軋む。
背後には棍棒を構えた手下たちがぎっしりと詰めかけ、俺の逃げ場を完全に塞いでいた。
「てめえ、よくも俺のシマで小賢しい真似をしてくれたな。井戸の底に妙な鍵と帳簿を仕込んで、俺を強請る気だったか?」
「い、いやあ、バズさん。何かの誤解でして……俺はただ、朝の散歩をしてたら道端で鍵を拾っただけで――」
「黙れッ!!」
バズが鉄甲を嵌めた拳を壁に叩きつける。
轟音とともに壁土が崩れ落ち、レンガに蜘蛛の巣状の亀裂が走った。直撃すれば頭蓋骨ごと粉砕される威力だ。
「俺をハメようとした度胸だけは褒めてやる。だがな、証拠なんざ握られても、てめえを肉塊に変えて井戸に放り込めば全部終わりなんだよ!」
問答無用。話し合いで解決する余地はゼロだった。
バズが拳を振り上げ、獰猛な光を宿した瞳で俺を見下ろす。手下たちも下卑た笑みを浮かべて距離を詰めてくる。
(クソッ、どうする!? 戦闘力ゼロの俺が一発でも殴られたら即死だ!)
『おいシオン、ボーッとすんな!』
耳元でベルゼの鋭い声が響いた。
『相手をビビらせろ! あり得ねえ嘘をついて、全力で否定させろ! それしか生き残る道はねえぞ!』
(否定させる……そうだ、相手が「絶対にそんなわけがない」と激怒して疑った瞬間に、現実は書き換わる!)
俺は恐怖でガチガチと鳴る奥歯を無理やり噛み締め、両手を広げて大仰に笑ってみせた。
「……くっ、くはははは! ぎゃははははは!」
部屋の中に響き渡る、わざとらしすぎる高笑い。
バズが眉をひそめ、振り上げた拳を止めた。
「あァ? 命乞いも忘れて狂ったか、小僧」
「狂った? まさか! あんたがあまりにも哀れで笑っちまっただけさ、バズさん」
俺は冷汗を滝のように流しながらも、極上の不敵な笑みを顔面に貼り付けた。
視線をバズの背後、部屋の影や天井の梁へと泳がせ、あたかも「何者か」と合図を交わしているかのように振る舞う。
「俺が丸腰で、たった一人で部屋にいると思ってたのか? そんな無防備な男が、あんたの弱みを握りにいくわけねえだろうが」
「……何が言いてえ」
「あんたは井戸の鍵に気を取られて、肝心なことを見落としてるのさ。俺の背後にいる存在をな」
俺は芝居がかった手つきで指をパチンと鳴らし、喉が千切れんばかりの声で大風呂敷を広げた。
「俺の正体は、王都の暗部を支配する伝説の暗殺結社――『夜啼鳥』の筆頭代行だ! この建物の周囲、屋根の上、そしてお前らの背後の影の中には、すでに百人の精鋭暗殺者が潜んでる! お前らの首筋にはもう、あいつらの毒刃が突き刺さってるのさ!!」
言った。
スラムのゴロツキなら誰でも知っている、半世紀前に滅びたおとぎ話の暗殺組織。あり得ない設定、突拍子もないハッタリ、小学生でも鼻で笑うようなデタラメの極致。
懐のベルゼが小声で檄を飛ばす。
『よし、煽れ! もっとバカにしたような顔で笑え!』
俺は鼻の穴を膨らませ、バズを指差してせせら笑った。
「どうだバズ! 死にたくなければ今すぐ土下座して命乞いをするんだな!」
部屋の中に、張り詰めた沈黙が落ちた。
バズの顔が、怒りでドス黒く染まっていく。
額に青筋が何本も浮かび上がり、鋼鉄の拳がギリギリと軋んだ。
「……夜啼鳥だァ?」
バズの口から、低く、押し殺したような声が漏れた。
そして次の瞬間、部屋が吹き飛ぶほどの大怒声が炸裂した。
「嘘をつけェェェッ!!」
鼓膜が破れんばかりの絶叫。
バズは唾を撒き散らしながら、顔面を真っ赤にして叫んだ。
「夜啼鳥なんざ五十年前に王室騎士団に皆殺しにされたおとぎ話だろうがァ! そんな伝説の暗殺者が、こんなドブネズミのガキに従うわけがねえ! 百人の暗殺者だと!? この部屋のどこに隠れてるってんだ、デタラメ抜かすのも大概にしろォォォッ!!」
一片の迷いもない。
常識と理性に裏打ちされた、完璧な「完全否定」。
――キィィィィン……。
空気が凍りついた。
部屋の明かりが一瞬で掻き消え、外の陽光すらも遮断されたような絶対の暗黒が空間を支配する。
物理法則が歪み、歴史の辻褄が無理やり書き換えられる重圧が、部屋にいた全員の肌を粟立たせた。
「な、なんだ……!? 急に寒気が――」
手下の一人が震え声を上げた、その瞬間だった。
サッ。
音もなく、バズの背後の影から「漆黒の布」が立ち上がった。
一人ではない。
天井の梁から、床のわずかな物陰から、吹き飛んだ扉の残骸から、鳥の仮面を被り、全身を黒装束で包んだ異様な集団が、水墨画から抜け出たように実体化したのだ。
その手には、月光のように冷たく光る湾曲した短剣。
手下三十人余りの喉元、延髄、心臓の真後ろに、寸分の狂いもなく切っ先がピタリと押し当てられていた。
「ひ……っ!?」
手下の一人が悲鳴を上げようとした瞬間、首筋の皮が一筋切り裂かれ、鮮血が滲んだ。
声を出せば即座に首が飛ぶ。それを本能で理解した手下たちは、武器を取り落としてカタカタと震えることしかできない。
そして、バズの真後ろ――その巨躯の影から、ひときわ深い闇を纏った長身の仮面男が音もなく現れた。
男が構えた漆黒の刃は、バズの極太の首筋に深々と食い込んでいる。
「……動くな。我が主の御前である」
低く、氷のように冷徹な声。
バズの額から、滝のような脂汗が吹き出した。
「な……な、なんだこいつら……!? いつの間に……いや、鳥の仮面……漆黒の短剣……まさか、本当に『夜啼鳥』……!?」
バズの瞳から、凶暴な光が完全に消え去っていた。
残っているのは、理解の範疇を超えた超常の暴力に対する、底知れない絶望と恐怖だけだった。
頭領とおぼしき仮面の男は、バズの首に刃を当てたまま、俺の前に静かに歩み出た。
そして、バサリと衣擦れの音を立てて片膝をつき、深々と頭を垂れた。
「――お待たせいたしました、我が主。『夜啼鳥』百名、命令通り配置につき、不届き者どもを包囲いたしました。……これら羽虫の命、いかが処分いたしましょうか」
「…………」
俺は息を呑んだ。
百人。本当に百人いやがる。建物の外の屋根の上にも、びっしりと黒装束の集団が整列している気配が肌にビリビリと伝わってくる。
(嘘だろ……本当に実在しちゃったよ……!)
俺が呆然としていると、首元に刃を突きつけられたバズが、ガタガタと全身を震わせながら床に両手を突いた。
鋼鉄の手甲が外され、額を床に擦り付ける完全な土下座。
「ひ、ひぃぃぃっ! お、お許しください、御頭……いや、シオン様ッ!!」
バズの目から大粒の涙と鼻水が溢れ出していた。
「俺が愚かでした! 貴方様のような大物が、貧民街で正体を隠して天下を狙っておられたとは露知らず……! 黒犬商会は今日この瞬間より、すべて貴方様の配下となります! 命だけは、命だけはお助けをぉぉぉっ!!」
頭領が土下座したのを見て、手下三十人も一斉に武器を放り出し、床に額を擦り付けた。
「お助けくださいぃぃぃっ!!」
「今日からシオン様の下僕ですぅぅぅっ!!」
部屋中に響き渡る命乞いの大合唱。
昨日までスラムを恐怖で支配していた最凶の武闘派組織が、俺の出任せ一つで完全に降伏してしまった。
「え、あ、いや……命を取る気はないから、とりあえず頭を上げて――」
「寛大なるお言葉、恐悦至極に存じます!!」
バズが感涙にむせびながら立ち上がり、懐から分厚い書類の束を差し出してきた。
「こちらが黒犬商会の全権利書と、活動資金の帳簿でございます! 今日から商会のすべてはシオン様のもの! 我ら三十名の命、どうぞ煮るなり焼くなりお使いください!」
「あ、そう……? 全財産ねえ……」
俺は少しだけ現金な期待を抱きながら、差し出された帳簿を開いた。
スラムを牛耳る組織だ。金庫にはさぞかし唸るような金貨が眠っているに違いない。これで俺も大金持ち――
帳簿の最終頁にデカデカと赤字で記された数字を見た瞬間、俺の思考が完全に凍結した。
『当商会総負債額:三千二百万ペニー(貴族街・特級高利貸しへの借款)』
「…………」
俺は震える手でページをめくり直した。
資産の欄。
『手持ち現金:二百ペニー(※今朝のショバ代未回収のため)』
『保有資産:ボロ倉庫二棟(担保設定済み)』
『所属構成員:三十名(※全員大食漢・一日三食の支給義務あり)』
「……おい」
俺は掠れた声でバズを見上げた。
「これ……借金が三千万以上あって、手元には二百ペニーしかないって書いてあるんだが?」
「へい! 先代の残した負債と、貴族街への上納金が重なりまして、実は首が回らない状態でして! 毎日の飯代を稼ぐためにチンケなショバ代を集めていた次第でございます!」
バズは晴れやかな笑顔で胸を張った。
「ですが、伝説の『夜啼鳥』を従えるシオン様が新たなオーナーとなられた今、我らの未来は明るい! 明日からの構成員三十名の飯代と、来週に迫る貴族への利息支払い五百万ペニーの工面、何卒よろしくお願いいたします!!」
「よろしくお願いいたしますッ!!」
手下たちが一斉に敬礼する。
手元に残されたのは、三千二百万ペニーの借用書と、腹を空かせた三十人のゴロツキ。
そして――。
「我が主。我ら『夜啼鳥』百名もまた、主の覇道を支えるため常に影より付き従います。……なお、我らの活動維持費および特級暗殺具の整備費として、月額五千万ペニーほど必要となりますが、いつ頃支給いただけますでしょうか」
仮面の頭領が、極めて礼儀正しく請求書を差し出してきた。
「…………」
俺の肩の上で、黒猫が信じられない勢いで痙攣していた。
『――ぶっ、ぎゃはははははははははははッ!!』
ベルゼが腹を抱えて床を転がり回り、涙を流して大爆笑している。
『家賃二千ペニー払って浮かれてたら、合計八千万ペニー以上の借金と百三十人の扶養義務背負っちまったぞォォォッ!! 傑作だ! 空前絶後の大赤字だ! どうすんだよ裏社会の若きカリスマ首領様ァ!!』
「嘘だろォォォォォォッ!?」
俺の悲痛な絶叫が、朝のスラム街の空へと吸い込まれていった。




