第二話:詐欺師の朝は早く、家賃の催促は容赦がない
英雄になった翌朝、俺を待っていたのは熱烈な賛辞ではなく、木製ドアを蹴破らんばかりの激しいノック音だった。
「おい、シオン! 生きてんならとっとと面ぇ出しな! 今日が何の日か忘れたとは言わせないよ!」
立て付けの悪い扉がミシミシと悲鳴を上げる。
薄い毛布から顔を出した俺の視界に飛び込んできたのは、ひび割れた天井と、俺の胸の上で丸くなって高高いびきをかいている黒猫だった。
「……おい、起きろ。天罰の結晶」
『……ふにゃ? なんだよペテン野郎、まだ日が昇ったばかりだぞ……。朝飯はあの脂の乗った魚にしてくれ……』
前足で顔をこすりながら欠伸をするベルゼの頭を指先で弾く。昨日の夕方、俺の出任せからポッと湧いて出たこの居候は、一晩経っても消える気配がなかった。それどころか、すっかり我が物顔で俺の寝床を占領している。
「シオン! 家賃二千ペニーだよ! 今日中に払わなきゃ、荷物ごと裏のドブ川に放り込むからね!」
大家のババアの怒声が廊下に木霊する。
二千ペニー。パンが四十個買える大金だ。そして現在、俺の財布に入っている全財産は、昨日から一ミリも増えていないゼロペニー。
「……なあベルゼ。お前、神獣なんだろ? 口から金貨の一枚でも吐き出せないのか」
『吐けるわけねえだろ。俺はお前がついた「太古の魔神」ってホラから生まれた概念の塊だぞ。物理的な金を生む機能なんて標準装備されてねえよ』
ベルゼは器用に両前足を組んで、フンと鼻を鳴らした。
『そもそも、お前が昨日あの憲兵をハメた時、「見逃してほしけりゃ手持ちの金を全部置いていけ」って言えばよかったんだよ。なんで「横領帳簿が白日の下に晒される」なんて無駄に正義感あふれる嘘をついたんだ? 救いようのない馬鹿なのか?』
「あの状況でそんなセコい嘘ついたら『ただの恐喝』で即座に斬り殺されてただろ! 相手をビビらせるにはデカいハッタリが必要だったんだよ!」
『で、結果として街の平和を守って一文無し。傑作だな、聖者様』
けたたましく笑う黒猫を引っ掴んで懐にねじ込み、俺は裏窓から音もなく路地裏へと滑り降りた。正面からババアと顔を合わせたら最後、身ぐるみを剥がされてタコ部屋送りにされる。
朝の貧民街は、饐えたゴミの臭いと朝靄に包まれていた。
石畳のあちこちには水たまりができ、薄汚れた外套を纏った労働者たちが足早に行き交っている。
「……さて。どうやって二千ペニー作るかだな」
『地道に働いたらどうだ? あそこの港で荷運びでもすりゃ、三日くらいで稼げるんじゃねえの』
「冗談よせ。詐欺師が汗水垂らして働いたら終わりだ。俺のプライドが許さねえ」
『家賃滞納でドブ川に沈められる詐欺師のプライドねえ。犬も食わねえな』
ベルゼの毒舌を聞き流しながら、俺は獲物を探して裏通りを徘徊した。
道端で怪しげな薬やガラクタを売る手口は、昨日の今日では使えない。憲兵隊長を失脚させた「謎の黒猫使い」の噂は、すでにスラムのあちこちに広がりつつある。ヘタに目立つ商売をすれば、余計な信者が寄ってきて商売どころではなくなる。
必要なのは、手っ取り早く、かつ後ろ暗い金を持っている相手。
そう都合のいいカモがいるわけが――あった。
裏通りの八百屋の軒先で、二人の男が店主の胸ぐらを掴んでいた。
袖をまくった腕には下品な犬の刺青。黒革のベストに、腰には短柄の棍棒。スラム街に巣食う高利貸し兼みかじめ料徴収組織、「黒犬商会」のチンピラどもだ。
「おい親父、今月のショバ代が足りねえじゃねえか。五十ペニー足りねえぞ」
「そ、そんな無茶な! 先週も払ったばかりじゃないですか、これ以上は売り上げが……!」
「あァ? 売り上げがねえなら指の一本でも置いてくか? 俺たちのケツ持ちがなきゃ、この店が一晩で燃えて灰になっても知らねえぞ」
店主を小突き、野菜の木箱を蹴り飛ばすチンピラたち。
周囲の住人は関わり合いを恐れて目を逸らし、足早に通り過ぎていく。
「……おいシオン。見ろよ、おあつらえ向きの悪党だぞ」
懐の中からベルゼがヒソヒソと囁きかけてくる。
「ああ。あのチンピラども、懐に巻き上げた小銭をたんまり溜め込んでやがるな」
『どうする? また「お前たちの背後に神の雷が落ちる」とか言って吹き飛ばすか?』
「バカ言え。そんな大雑把な嘘ついたら、金ごと消し飛んじまうだろ。今回は綿密に、狙い撃ちでいく」
俺は昨日の出来事から、能力の性質を完璧に分析していた。
条件は二つ。
一つ、俺が完全な嘘をつくこと。
二つ、相手がそれを「絶対にあり得ない」と心から疑い、全否定すること。
つまり、相手に「信じ込ませる」のではなく、「全力で否定させる」ように誘導すればいい。
詐欺師の基本は真実らしく嘘を語ることだが、今回はその真逆――「あまりにも突拍子もなくて胡散臭いホラ」を、いかにも怪しげな態度でぶつけるのだ。
「よし、見てろベルゼ。プロのハッタリを見せてやる」
俺は襟元を正し、わざとらしくニヤニヤとした笑みを浮かべながら、チンピラたちの前へと歩み出た。
「おいおい、そこの威勢のいい兄ちゃんたち。朝から精が出るねえ」
チンピラ二人がピクリと肩を揺らし、獲物を品定めするように俺を睨みつけてきた。
「あァ? なんだてめえは。すっこんでろ、ガキ」
「まあそうカリカリすんなって。そんな貧乏人の露店から数十ペニー巻き上げて何になる? もっとデカい金の話に興味はないかい」
「……あ?」
背の低い方のチンピラが眉をひそめ、棍棒を掌に打ち付けながら近づいてくる。
「デカい金だァ? てめえ、俺たちをからかってんのか」
「からかうなんてとんでもない。実はさっき、そこの裏路地にある枯れ井戸の底で、とんでもないものを見かけちまってね」
俺は声を潜め、これ見よがしに周囲をキョロキョロと見回す小悪党の仕草を作った。
「あんたらの親玉……『鉄拳のバズ』さんだっけか? あの人が商会を裏切って私腹を肥やすために隠したっていう、『数百万ペニーが眠る特大隠し金庫の鍵』と『脱税裏帳簿』が、なぜかあの井戸の底にポロリと落ちてたんだよ」
懐のベルゼがテレパシーで激しく突っ込んでくる。
『おい! 設定が露骨すぎるだろ! 誰がそんな都合のいい嘘信じるんだよ!』
(いいんだよベルゼ! 信じられたら不発なんだから、これくらい露骨でいいんだ!)
チンピラたちは一瞬、ポカンと口を開けた。
そして次の瞬間、背の高い方のチンピラが吹き出した。
「ぶッ……! ぎゃはははは! おい聞いたかよコイツのホラ!」
「バズの頭が商会を裏切るだァ!? しかも数百万ペニーの隠し金庫の鍵を井戸に落としただと!? ぎゃははは、傑作だ!」
よし、笑った。
ここからだ。俺はさらに胡散臭い表情を作り、両手を広げて煽り立てる。
「信じないのかい? 本当だぜ? 今すぐ井戸を覗けば、金ピカの鍵と分厚い帳簿が転がってるはずだ。俺は親切で教えてやってるのに、疑うなんて損な性格だなあ」
「ハッ! 嘘をつけってんだよ間抜けがァ!」
背の低いチンピラが顔を真っ赤にして怒鳴り、唾を吐き捨てた。
「バズの頭がそんなヘマするわけねえだろうが! 数百万の金庫の鍵だと? そんなもんがスラムのドブ井戸に落ちてるわけねえだろ! てめえのついた嘘八百、一から十まで全部デタラメだァ!!」
キタ。
強烈な、一片の迷いもない「完全な疑念」。
――ズズズ……。
背後の路地奥から、空気が歪むような重苦しい気圧の変化が走った。
空間が軋み、現実が、歴史が、物理が、チンピラの放った「そんなわけあるか」という否定の言葉をねじ伏せるために無理やり再構築されていく。
「……おい、なんだ今の音」
「路地の奥から聞こえたぞ……?」
チンピラたちが訝しげな顔をして、八百屋の横の細い路地へと足を踏み入れる。俺もベルゼを懐に入れたまま、素知らぬ顔で後をついていった。
路地の突き当たりには、何十年も前に干からびた石造りの枯れ井戸がある。
恐る恐る中を覗き込んだ背の高いチンピラが、唐突に息を呑んだ。
「……おい、嘘だろ」
「あ? 何が見えんだよ」
「あ、あんのかよ……本当に……!」
「……は?」
チンピラ二人が井戸にしがみつき、目を丸くして底を見つめている。
俺も横から覗き込んだ。
暗い井戸の底。
泥とクモの巣にまみれた石畳の上に、眩いばかりの光を放つ重厚な真鍮製の鍵と、分厚い革張りの帳簿が、まるで「最初からそこにあった」かのように鎮座していた。
帳簿の背表紙には、見事な箔押しでこう刻まれている。
『黒犬商会頭領バズ・秘密資金および組織横領記録』。
「ひ、ひぃぃぃっ!?」
背の低いチンピラが腰を抜かして後退りした。
「ほ、本当にある……! バズの頭、本当に俺たちを裏切って隠し金庫を作ってやがったのか!?」
「しかも鍵と帳簿をこんなとこに落とすなんて……! いや待て、なんでコイツはそれを知ってたんだ!?」
二人の血走った視線が、一斉に俺へと突き刺さる。
その瞳に宿っているのは、嘲笑ではなく、底知れない化け物を見るような極度の恐怖だった。
「お、お前……! ただのガキじゃねえな!? 最初からバズの頭の動きを全部掴んでて、俺たちを試したのか……!?」
「ひぃっ、命だけは助けてくれ! 俺たちは何も知らねえんだ! 頭が裏で何やってたかなんて本当に知らなかったんだよぉ!」
「え、いや、あの」
俺が弁解しようと手を伸ばした瞬間、チンピラ二人は懐から革袋を引っ張り出し、俺の足元へ投げ捨てた。
「今朝集めたショバ代、全部置いていくから! 見逃してくれぇぇぇ!」
脱兎の如くスラムの大通りへと逃げ去っていく二人。
静まり返った路地裏に、チャリンと鈍い音を立てて転がる革袋と、井戸の底で黄金色に輝く鍵だけが残された。
「…………」
俺は呆然と足元の革袋を拾い上げ、中身を改めた。
銀貨と銅貨が合わせて、ざっと三千ペニー。
「……取れた」
『取れたな』
懐からひょっこり顔を出したベルゼが、呆れ果てた目で俺を見上げた。
『家賃二千ペニー、余裕で達成じゃねえか。よかったなペテン野郎、これでドブ川に沈められずに済むぞ』
「……ああ。家賃は払える。パンも食える。完璧だ」
『なのに、なんでそんな死にそうな顔してんだ?』
俺は震える指先で、井戸の底の帳簿を指差した。
「……あいつら、逃げ帰ってボスに報告するよな?」
『するだろうな。「お前の隠し金庫の鍵と裏帳簿が井戸で見つかったぞ、シオンってやつが全部バラしやがった」ってな』
「バズって男は、自分の身に覚えのない横領の証拠と鍵を、俺が握ってると思うよな?」
『思うだろうな。「あの小僧、俺をハメて組織を乗っ取る気か」ってな』
ごくり、と喉が鳴った。
手元には三千ペニー。
そして引き換えに手に入れたのは、スラム最大最凶の武闘派組織「黒犬商会」からの、完全な敵対フラグだった。
『ぎゃはははは! 家賃三千ペニーのために裏社会のトップを怒らせたぞ! どうすんだよ聖者様、今夜あたり屈強なゴロツキが五十人くらいアパートに殴り込んでくるぞ!』
腹を抱えて転がり回る黒猫の笑い声を背に、俺は手に入れたばかりの金を握りしめ、冷や汗をダラダラと流しながら天を仰いだ。




