第二十一話:天界の最高神は、下界の異常な黒字決算を疑っている
王都から遥か数百キロ、人跡未踏の原生林の奥深く。
苔むした岩陰に佇む崩れかけの掘っ建て小屋の前に、俺の至福の城があった。
「……焼けたぞベルゼ。今朝採れたての野生のキノコと、川で獲った雑魚の塩焼きだ」
『塩はどっから持ってきたんだよ』
「総督府を抜け出す時、厨房からこっそりポケットに突っ込んできた一握りの粗塩だ」
焚き火の煙を浴びながら、俺は木の枝に刺した川魚をかじる。
皮はパリッと香ばしく、身はホクホク。
手持ち現金、完全なるゼロペニー。
だが、ここには書類の山も、執務机も、跪く騎士団も、定刻運行を迫る邪龍もいない。
誰にも邪魔されない、正真正銘、完全無欠の無職ライフ。
「なあベルゼ。俺たち、ついに勝ち取ったんだよ。一日中ゴロゴロして、腹が減ったら魚を釣って、眠くなったら藁の上で寝る……これこそが人間の生きるべき真の姿だ」
『へっ、一週間前まで家賃に追われてたドブネズミのくせに、随分と悟りを開いたようなツラしやがって』
肩の上の黒猫は、小魚の頭を器用に前足で押さえながら、満足げに喉をゴロゴロと鳴らした。
完全に実体化したその肉体は、太陽の光を浴びて艶やかな漆黒の輝きを放っている。
宇宙公認の無形固定資産。
歩く十万ペニー札。
肩書きはどれだけインフレしようと、俺たちの本質は「ただの怠惰なペテン師と一匹の野良猫」のままだった。
――ズズズズズズズズ……ッ!!
澄み渡る青空の真ん中が、突如としてガラスのように粉々に砕け散ったのは、二匹目の魚に手を伸ばした瞬間だった。
「……あ?」
『……おいシオン。空にヒビが入ってねえか?』
天頂から降り注いだのは、太陽光の数万倍に匹敵する眩い白銀の聖光。
森の木々が一瞬で黄金色に染まり、空間の裂け目から、天上の荘厳なパイプオルガンと百人の天使の讃美歌が爆音で鳴り響いた。
パパパパパーン!!
光の柱の中から、ゆっくりと降り立ってきたのは、純白の六枚翼を広げた長身の美女だった。
神聖なる白銀の神聖鎧に身を包み、手には断罪の巨大な光剣。
腰まで届く金糸の髪をなびかせ、その琥珀色の神眸は、冷徹な絶対的正義の光を宿している。
天界中央統括評議会・特務筆頭査察神――ルミナリア。
「――発見いたしました、因果の特異点シオン・クローデル」
鈴を転がすような美声。だが、その声音には大陸一つを一撃で消し飛ばしかねない神威の重圧が込められていた。
「我が名はルミナリア。天界最高評議会より全権を委任された、神界特務査察官である」
「……天界の、査察官?」
俺は焼き魚を持ったまま、呆然と口を開けた。
「シオン・クローデル。貴様が担当査察官アカシック・レコーダーを言いくるめ、この惑星の決算報告書を【九百九十九兆ペニーの黒字】に偽装した罪、天界最高評議会において厳重に審議されました」
ルミナリアは光剣を抜き、切っ先を俺の鼻先へと突きつけてきた。
「下界の辺境惑星一つが、前年比八千パーセントの黒字を叩き出すなど、宇宙経済学の法則上絶対にあり得ません! これは悪質な【神界規模の粉飾決算】および【宇宙会計基準法違反】に該当します!」
「粉飾決算」
またしても胃が握り潰されるような専門用語が降ってきた。
あのスーツを着た調律者のオッサン、天界の本社に帰ってから上司に怪しまれたらしい。
『おいシオン!』
ベルゼが毛を逆立てて耳元で叫ぶ。
『あの女、調律者より上の「本物の神族」だぞ! 神界の軍事力トップクラスの戦闘天使だ! 嘘を暴かれたら、この惑星ごと「証拠隠滅」で消し炭にされるぞ!』
(分かってる! なんで無職になって半日で天界のガサ入れを喰らわなきゃならねえんだよ!)
ルミナリアの神眸が、冷酷に細められる。
「最高評議会の決定に基づき、直ちにこの惑星の全事象資産――油田、温泉、ピザ窯、鉄道、ならびにそこにいる不正資産の黒猫をすべて強制差し押さえとし、虚偽記載の首謀者たる貴様を天界最高法廷へ連行・永久投獄いたします!」
「差し押さえ……?」
俺の目の前で、ルミナリアの光剣がベルゼを捕獲せんとする光の鎖へと変形し始めた。
せっかく手に入れた相棒との平穏。
せっかく勝ち取った自由な無職生活。
それを、天界のお偉いさんの「数字が合わない」という理由だけで奪われてたまるか。
俺は焼き魚を地面に置き、粗末なシャツの襟元を正して、ゆっくりと立ち上がった。
手持ち現金、ゼロペニー。
だが、相手が神だろうと天使だろうと関係ない。
疑念を抱き、プライドを持つ知性体である限り、俺の詐欺師としての舌先が負ける道理はなかった。
「……おいおい、天界の特務査察官のお嬢ちゃん。随分と頭の硬い官僚根性を下界にまで持ち込んでくれたもんだな」
「何だと?」
ルミナリアの眉がピクリと跳ね上がる。
「粉飾決算? 帳簿の偽装? くくっ……笑わせるな。お前たち天界最高評議会は、神を名乗っておきながら、宇宙の真の『富の創造原理』すら理解できてないのかい?」
「……神聖なる宇宙会計基準を侮辱するか、罪人め」
「侮辱してるのはあんたらの方だ」
俺は一歩前へ踏み出し、天から降り立つ美貌の査察神を正面から指差して、堂々と特大の大風呂敷を広げた。
「いいか! あの九百九十九兆ペニーの黒字はな、粉飾なんかじゃない。天界の全神々が数億年かけても一滴も生み出せなかった、超高次元エネルギー資産――【全宇宙・信仰と幸福の兌換国債】の初回配当金なんだよ!」
森が静まり返る。
信仰と幸福の兌換国債。初回配当金。完全なるデタラメ。一秒前に口から出まかせで紡いだ単語のパッチワーク。
ベルゼが脳内で狂乱の拍手を送ってくる。
『出たァァァッ! 天界を巻き込む神界規模の金融詐欺トーク! 天使相手に怪しい投資信託売りつける気かァ!』
俺は構わず、冷笑を浮かべてルミナリアを挑発するように睨みつけた。
「あんたらの神界はな、下界の民から祈りを一方的に巻き上げるだけの『搾取モデル』だから万年赤字なんだよ! 俺が作った温泉とピザと鉄道は、民の笑顔を純粋な神力に変換し、天界へ自動送金する【永久配当エンジン】なんだ! ……まあ、現場の経済も知らねえ天界のお嬢ちゃんには、この画期的なビジネスモデルの美しさは理解できねえだろうがなァ!」
ルミナリアの白い頬が、屈辱と激怒で真紅に染まった。
六枚の翼がバチバチと神聖なる荷電粒子を撒き散らし、森を吹き飛ばさんばかりの大絶叫が炸裂した。
「嘘をつけェェェェェッ!!」
神界の特務査察官による、魂の底からの「絶対否定」。
「信仰と幸福の兌換国債だとォ!? 温泉やピザを食う民の笑顔が純粋な神力に変換されるなど、天界神学と神聖魔導工学を冒涜した狂人の妄言だ! 民の幸福が永久配当を生み出すなどという都合のいい金融商品が、全宇宙のどこに実在するわけがなかろうがァァァッ!!」
数億年の神聖秩序に生きる最高位天使による、純度百パーセントの「完全なる疑念」。
――ガギィィィィィンッ!!
天界の次元の蓋が、音を立てて粉砕された。




