第二十話:世界一偉大な無職は、千百五十ペニーで乾杯する(※第一部完結)
朝焼けの光が、王都の空を黄金色に染め上げていく。
総督府の最上階、かつてスラムのボロ倉庫だった場所に建てられた豪華絢爛な執務室で、俺は豪奢な総督マントと国家栄誉勲章をすべて脱ぎ捨て、机の上に整然と並べていた。
身に纏うのは、一週間前と同じ、着古した粗末なシャツと擦り切れたズボン。
ポケットの中には、じゃらりと音を立てる真鍮貨――全財産、千百五十ペニー。
「……よし、忘れ物はないな」
『手持ち千ペニーぽっちで忘れ物もクソもあるかよ』
机の端から、ツヤツヤの漆黒の毛並みを持つ黒猫がひらりと俺の肩へ飛び乗ってきた。
ずっしりとした確かな重み。首筋に触れる温かな体温。
もう光が透けることも、世界から消去される気配もない。宇宙公認の「無形固定資産」として完全に定着した、俺の愛すべき相棒だ。
「おいベルゼ、置き手紙は書いたか?」
『ああ、お前の悪筆でバッチリ書いて机の真ん中に置いといたぜ』
執務机の中央、純金の文鎮で押さえられた一枚の羊皮紙。
そこには、俺が今朝なけなしの知恵を絞って書いた、渾身の夜逃げ文句が記されていた。
『探さないでください。名誉も権力もすべて民へ返上し、俺は自由な風になります。シオン』
これだけ書けば十分だろう。
あとはクラリスやエルンストが適当に後始末をつけて、俺の存在などすぐに忘れ去られるはずだ。
「行くぞ、ベルゼ。隣町の安酒場へ一番乗りだ」
『へいへい、奢りだろ? 干し肉ダブルで頼むぜ、最高総督様』
俺たちは誰にも見咎められることなく、夜明け前の総督府の裏口をすり抜け、朝靄に煙る街道へと駆け出していった。
***
数時間後――王都・最高総督府執務室。
ガバッ! と勢いよく扉が開かれ、クラリス、エルンスト、ソニア、そして各省庁の首脳陣が雪崩れ込んできた。
「シオン閣下! 本日の全大陸閣僚会議の資料をお持ち――」
クラリスの言葉が止まった。
部屋の中には誰もいない。
残されていたのは、綺麗に畳まれた総督マントと、机の上にぽつんと置かれた一枚の置き手紙。
「こ、これは……?」
エルンストが震える手で羊皮紙を掲げ、そこに書かれた文字を全員の前で読み上げた。
「……『探さないでください。名誉も権力もすべて民へ返上し、俺は自由な風になります』……」
静寂。
そして次の瞬間、執務室の中にいた全員の目から、滝のような大粒の涙が溢れ出した。
「お、おおお……!」
エルンストがその場に崩れ落ち、床を激しく叩いて号泣した。
「なんという……なんという高潔な御心か……! 大陸の富を独占することも、至高の玉座に座り続けることも望まず、世界に恒久の平和と繁栄をもたらした途端、一文の報酬すら受け取らずに去られるとは……!」
「シオン様……!」
クラリスは胸の前で両手を組み、天を仰いで感極まった声を張り上げた。
「あのお方は……最初から富や権力のためではなく、ただ我ら迷える民を救うために舞い降りた、生ける神格であられたのですね……! 自らは無一文の旅人となり、世界の調和を見守る風となられたのだわ……!」
ソニアも目元をハンカチで押さえ、狂信的な笑みを浮かべて頷いた。
「ええ……。直ちに全大陸の教会と広場にシオン様の黄金像を建立し、あのお方が残された『神代インフラ三連星』を永久不可侵の聖域として法制化いたしましょう!」
パシィィィン!
空間が割れ、漆黒のビジネススーツを着た世界の調律者アカシック・レコーダーが虚空から姿を現した。
手には黄金の電卓と元帳。
「全宇宙監査機構より通達! シオン最高財務総監の『無償の徳行』に伴い、宇宙全体の幸福度指数がカンストいたしました! 本惑星の全通貨の裏付け資産として、シオン閣下の御尊顔を刻印した【新・十万ペニー最高額紙幣】の発行を全宇宙規模で承認いたします!!」
「「「シオン様万歳! 偉大なる救世主万歳!!」」」
総督府は、去っていった無職への狂乱の賛美と祈りで満ち溢れていた。
***
一方その頃。
王都から十キロほど離れた、街道沿いのうらぶれた安宿街。
ガタピシと音を立てる木造酒場のカウンターで、俺は満面の笑みを浮かべて木製のテーブルを叩いていた。
「親父! 安エール二つと、塩漬け豚肉の盛り合わせ! それと小皿に干し肉を山盛りで頼む!」
「あいよ! 毎度あり!」
運ばれてきたのは、ぬるくて泡の粗いエールが二杯と、塩の結晶が浮いた硬い豚肉。
総督府で出されていた最高級の銀食器や高級ワインとは比べ物にならない、スラム育ちの舌に馴染んだ最高のジャンクフード。
俺は懐から革袋を取り出し、カウンターへ誇らしげに真鍮貨を並べた。
「全部で千百五十ペニーだろ? 釣りは要らねえ、取っときな!」
「へへっ、兄ちゃん景気がいいねえ!」
手持ち現金、ジャストゼロ。
一週間に及んだ長くて馬鹿馬鹿しい大冒険の末に、俺の全財産は綺麗さっぱり消滅した。
だが、胸の中にはこれまでにない清々しい風が吹き抜けていた。
「なあベルゼ」
俺はエールのジョッキを掲げ、隣の丸椅子で器用に前足を伸ばす黒猫へ笑いかけた。
「世界を救った大英雄様が、手持ちゼロペニーの無職に逆戻りだ。どうだ、笑えるだろ?」
『ぎゃはは! 最高に無様で、最高にお前らしいぜシオン!』
ベルゼは嬉しそうに喉を鳴らし、小皿の干し肉を前足で器用に口へ放り込んだ。
『金もねえ、家もねえ、地位も名誉も全部置いてきやがった。……だがまあ、この安酒の味だけは、あのクソ真面目な神様どもの天界にも絶対にねえ極上品だな』
「全くだ。……乾杯だ、ベルゼ」
『おう、乾杯だ、稀代の大ペテン師!』
チン、と安っぽい木製のジョッキと小皿が小気味よい音を立てて合わさる。
喉を滑り落ちる安エールの苦味と、口いっぱいに広がるしょっぱい豚肉の脂。
これこそが、俺がずっと欲しかった、誰にも邪魔されない本物の日常だった。
――ガタッ。
酒場の入り口の扉が開き、旅の商人が息を切らして駆け込んできた。
手には、王都から届いたばかりの刷り立ての号外新聞。
「おい親父! 大変だ! 王都から通達が出たぞ!」
「あん? 今度は何だい」
「世界を救って旅に出られたシオン様の功績を称えて、今日から発行される大陸統一の新紙幣……その【十万ペニー札】の肖像画が、シオン様のお姿に決定したそうだ!」
「ぶふぅぅぅッ!!」
俺は呑み込んだばかりのエールをカウンターへ盛大に吹き出した。
「お、おい見ろよこの新聞! シオン様の顔がデカデカと印刷されてるぞ! このお方を見かけたら、大陸中の全店舗で【飲食・宿泊・全商品が永久無料】になる『神の特権』が下されたらしい!」
「な、なんだってェ!? おい、そのシオン様ってのはどんなお顔なんだ!?」
「えーと、黒髪で、粗末なシャツを着ていて、肩に生意気そうな黒猫を乗せた――」
酒場中の視線が、ギギギ……と音を立ててカウンターの隅の俺へと一斉に集まった。
酒場の親父が、口をあんぐりと開けて新聞と俺の顔を交互に見比べる。
「あ……兄ちゃん、その肩の黒猫……まさか……」
「…………」
俺とベルゼは、完全に硬直した。
『……おいシオン』
肩の上の黒猫が、引き攣った笑顔で耳元に囁いてくる。
『どうやらお前、一文無しになった瞬間、世界中のすべての店をタダ食いできる「歩く最高額紙幣」に進化しちまったらしいぞ』
「…………」
俺は空になったジョッキをそっと置き、震える手でベルゼを抱きかかえて立ち上がった。
「親父、ごちそうさま! 豚肉、めちゃくちゃ美味かったぜ!!」
ダッ!!
俺は酒場の裏口のドアを蹴破り、街道の彼方へ向かって全速力で脱兎の如く走り出した。
「シオン様だァァァッ! 神代の救世主様がうちの店に来てくださったぞォォォッ!!」
「待ってくださいシオン様ァァッ! 代金をお返しします! うちの店の全財産を受け取ってくださいィィィッ!!」
背後から押し寄せる、酒場の客と店主の狂乱の大歓声。
青く澄み渡る大空の下、肩の上で腹を抱えて笑い転げる黒猫の笑い声を背に、俺の魂の絶叫がどこまでも響き渡っていった。
「嘘だろォォォォォォォォォォッ!?」
(『パラドクス・ライ』――完)




