第十九話:世界の法則は、黒字決算の快感に抗えない
時間を止めた虚空に響き渡る、世界そのものの絶叫。
「嘘をつけェェェェェッ!!」
神の絶叫が放たれた瞬間、停止していた夜空に蜘蛛の巣のような亀裂が走った。
因果律の鎖が爆砕する。
アカシック・レコーダーの「そんな下っ端の経理であるはずがない」という強烈無比な全否定を力ずくでへし折るために、宇宙開闢以来の全事象データが猛烈な勢いで書き換えられていく。
「グ……ガ……アアアアッ!?」
調律者の神聖な光の法衣が、激しいノイズとともに弾け飛んだ。
眩い光輪はキュルキュルと縮んで頭上のサンバイザーへ。
光り輝く純白のローブは、仕立ての良すぎる漆黒の二つボタン・ビジネススーツへと瞬時に再構成される。
胸元には鈍く輝く「全宇宙監査機構・筆頭査察官」の社章バッジ。
そして右腕には、神の槍ではなく――黒革張りの巨大な『全宇宙因果総勘定元帳』と、黄金の電卓が握られていた。
カタカタカタカタッ!
調律者の指先が、目にも留まらぬ超高速で電卓を叩き始めた。
その仮面の下から、先刻までの無機質さは完全に消え失せ、月末の締め切りに追われる中間管理職特有の悲壮な唸り声が漏れ出す。
「ば、馬鹿な……! 我が職務は世界の消去などではない……! この宇宙全体の貸借対照表を合わせ、黒字決算を成立させることだったのか……!?」
『おいシオン!』
俺の足元で、透けかけていたベルゼが目を見開く。
『あいつ、急に電卓叩き始めたぞ! 完全に社畜の目になってやがる!』
「いいぞ、乗ってきた!」
俺は総督マントを翻し、スーツ姿の調律者の眼前へ踏み込んだ。
「どうだ監査官! この大陸で起きた事象を、今すぐ帳簿と照合してみろ!」
「照合……照合を開始する!」
調律者は血走った目で元帳をめくり、空中に無数の青白い光の仕訳伝票を展開した。
「神代魔導油田の噴出……『地殻開発・特別利益勘定』へ振替! 重魔導戦車の農地開墾……『食糧安全保障・減価償却資産』として計上! ヘルフェニックスのピザ窯化……『王都熱供給・クリーンエネルギー助成金』を適用! そして邪龍ヴォルガノスのリニア化……『大陸横断公共交通網・百兆ペニー級社会資本形成』として資産計上ォォォッ!!」
バシィィィィン!!
調律者が電卓の確定ボタンを親指で激しく打ち抜いた。
空中に浮かぶ帳簿の最下段に、黄金に輝く計算結果がデカデカと表示される。
『【当期純利益】:九百九十九兆ペニー(前年同期比+8000%・過去最高益更新)』
「く……黒字だ……!」
調律者は両手で頭を抱え、震える声で叫んだ。
「因果の歪みどころではない……! この惑星の全事象改変をすべて正当な開発投資として組み込んだ結果、宇宙全体の経済価値が未曾有の爆発的黒字を叩き出している……! バグどころか、この世界は全宇宙の最優秀優良特区だァァァッ!!」
「だったら!」
俺は元帳の空白の行をバンと指差した。
「俺の相棒――ベルゼの存在は、一体何の勘定科目になるんだよ!」
「ベルゼ……!?」
調律者は慌てて電卓を弾き、ベルゼの透けかけた体を走査した。
「こ、この猫は……すべての奇跡の起点となった最高重要機密概念……! 勘定科目は【宇宙最高栄誉・無形固定資産】! 耐用年数は永久! 存在維持コストは全宇宙特別会計より全額無制限支給! 削除など絶対に許されん、一ドットたりとも消滅させてはならぬ至宝中の至宝であるッ!!」
ガシャン!
天空で黄金の決裁印が振り下ろされた。
その瞬間、ベルゼの体を包んでいた希薄な光が一気に収束し、漆黒の毛並みが完全な質量を取り戻した。
床に四肢を踏みしめ、実体化した肉体でフサフサの尻尾を揺らす黒猫。
『……お、おい』
ベルゼが自分の前足をまじまじと見つめ、爪をカチカチと鳴らした。
『消えねえ……。俺の存在が、宇宙の帳簿に固定されちまった……!』
「よっしゃあ!」
俺は思わず膝をつき、ベルゼの体を抱き上げた。
確かな重み、確かな温もり。
もう透ける気配すら欠片もない。完全なる実体化の定着だ。
――カチリ。
停止していた世界の時間が、滑らかに動き出した。
遠くでリニア超特急の汽笛が鳴り、夜風がバルコニーを吹き抜ける。
ドサリ。
スーツ姿のアカシック・レコーダーが、両膝を石畳につき、俺の足元へ深々と頭を垂れた。
「シオン最高財務総監閣下……! 貴方様のような至高の会計神に、愚かな査察を行おうとした我が無礼、どうか万死に値する減給処分をお下しください!」
「いや、減給とかないから立ってくれ……」
「これより全宇宙監査機構は、貴方様が放たれるあらゆる出任せを【宇宙公認・特別先行投資計画】として即時承認いたします! つきましては、次年度の全銀河系予算編成の最高顧問として、こちらの書類一万枚へご署名を――」
「署名しねえよ! 帰れ!」
「ハハッ! 誠に申し訳ございません! 次回の定例監査にてまたお伺いいたします!」
調律者は深々と一礼すると、ビジネスバッグを抱えて光の転送門の中へと消え去っていった。
「…………」
静寂が戻ったバルコニー。
手の中には、完全に実体化した愛すべきクソ猫。
そして俺の手持ち現金は、千百五十ペニーのまま。
『――ぶっ、ぎゃはははははははははははッ!!』
腕の中で、ベルゼが腹を抱えて大爆笑した。
『最高だ! 最高すぎるぞシオン! 世界の神様をスーツ着た経理のオッサンに改造しやがったァァァッ! お前、宇宙丸ごと黒字化させちまったぞ!!』
「笑うな! こっちは命がけだったんだよ!」
俺はへたり込みながら、夜空を見上げて大きく息を吐き出した。
すべての危機は去った。
あとは、この重すぎる肩書きをすべて放り出し、本当の平穏を手に入れるだけだ。




