第十八話:世界の調律者は、帳尻合わせを諦めない
夜風が心地よく吹き抜ける総督府のバルコニー。
眼下に広がる王都の夜景は、かつてない静けさと温かな光に満ちていた。
神代温泉からは乳白色の湯気が立ち上り、セントラルヒーティングの排熱が街全体をほんのりと温めている。遠くの地平線では、定刻通りに運行するリニア超特急ヴォルガノス号のテールランプが、青白い光の尾を引いて走り去っていく。
すべてが片付いた。
スラムのチンピラも、国家の汚職も、隣国の侵略も、太古の邪龍すらも、すべてが完璧に無力化され、平和で便利な日常の一部となった。
だが、俺の革袋に入っている全財産は、相変わらず千百五十ペニーのままだ。
「なあベルゼ。明日こそ、この千百五十ペニーで隣町の安酒場へ行こうぜ。あそこなら、塩漬けの肉と安エールがちょうど千百ペニーで食えるはずだ」
手すりに寄りかかり、足元で丸くなっている黒猫へ声をかける。
いつものように「ケチくせえこと言ってんじゃねえよ」と減らず口が返ってくるはずだった。
だが、返事はない。
「……ベルゼ?」
不審に思って視線を落とした瞬間、俺の心臓が嫌な跳ね方をした。
バルコニーの石畳に伏せる黒猫の体が、まるで水面に映る月のように微かに揺らぎ、月光がその体を薄く透け通していた。
「おい……ベルゼ、お前、体が透けてるぞ」
『……ああ、気づいちまったか』
ベルゼは面倒そうに片目を開け、透けかけた前足を持ち上げてみせた。
いつもの意地の悪い嘲笑はなりを潜め、どこか諦めたような、静かな光がその金色の双眸に宿っている。
『元々、俺はお前がスラムで吐いた「神獣の使い魔を飼ってる」っていう出任せから生まれた存在だからな。……この世界はお前の嘘を無理やり現実に変えすぎた。因果律の歪みが限界を超えて、辻褄を合わせるために「存在しないはずのもの」から順に消去が始まってるのさ』
「消去……? ふざけるな、お前が消えるわけねえだろ!」
『消えるんだよ、アホ。お前が世界を救っちまったせいで、世界は「平和で安定した状態」に戻ろうとしてる。平和な世界に、嘘から生まれたバグ猫の居場所はねえんだよ』
淡々と告げるベルゼの声が、夜風に溶けて消えそうになる。
胸の奥が冷たく締め付けられる。
金も名誉もいらないから平穏に生きたいと願っていたはずなのに、その日常の隣にこいつがいない未来なんて、一度も考えたことがなかった。
――カチリ。
空気が凍りついた。
風が止まり、遠くを走る列車の光が空中で静止し、舞い落ちる木の葉が一枚、虚空にピタリと縫い止められる。
世界そのものの時間が、完全に停止した。
「――そこまでにしてもらおうか、因果の特異点」
バルコニーの手すりの上に、いつの間にか一人の人影が立っていた。
光そのものを織り上げたような純白の法衣を纏い、顔には目も鼻も口もない、のっぺらぼうの鏡の仮面。背中には、無限に回転する幾何学模様の光輪が浮かんでいる。
性別も年齢も判別不能な、人間離れした無機質な声が響く。
「我が名は世界の調律者・アカシック・レコーダー。因果律の歪みを観測し、歴史の正常化を執行する世界の意志である」
「世界の……意志?」
「シオン・クローデル。貴様が放った数々の『パラドクス・ライ』により、この惑星の歴史は完全に破綻した。無尽蔵の油田、古代帝国の始祖の転生、ピザを焼く不死鳥、定刻運行する邪龍……どれも本来の事象ツリーには存在せぬ狂気の改変である」
仮面の奥から、絶対的な理の重圧が降り注ぐ。
「世界はこれ以上の改変を許容できぬ。放置すれば、三日後には因果の崩壊により大陸全土が次元の狭間へ呑まれ、完全消滅する」
「……どうすればいい」
俺は奥歯を噛み締め、調律者を睨みつけた。
「選択肢は二つだ」
調律者は感情のない声で告げた。
「一つ。貴様がこれまで放った嘘の記憶と改変をすべてリセットし、貴様は最初のスラムで家賃に追われる無職へと戻る。その際、因果の特異点として生まれたその黒猫は、世界のバグとして完全に消滅・消去される」
「……二つ目は?」
「二つ目。何もしないこと。三日後に、貴様も、黒猫も、この大陸の全生命もろとも、因果の破綻によって等しく無に帰す」
完璧な詰み。
世界を救えば相棒が消え、相棒を取れば世界ごと全員死ぬ。
冷徹無比な宇宙の帳尻合わせ。
『おいシオン、迷うまでもねえだろ』
透けかけたベルゼが、俺の足元でため息をつく。
『一つ目を選べ。俺が消えて、お前がスラムのドブネズミに戻るだけだ。元々手持ち千百五十ペニーの貧乏人なんだから、失うものなんて最初から何もねえだろ』
「失うものが何もない、だと?」
俺は懐に手を入れ、薄っぺらな千百五十ペニーの革袋を強く握りしめた。
視界が怒りで赤く染まる。
家賃に追われ、金貸しに怯え、騎士団に追われ、暗殺者に狙われ、帝国と戦争し、邪龍の前に立たされ……。
いつだって俺の隣で、誰よりもゲラゲラと笑いながら俺の背中を蹴飛ばしてきたのは、このクソ猫だった。
「ふざけるな」
俺の口から、低く掠れた声が漏れた。
「……何?」
調律者の鏡の仮面が、わずかに傾ぐ。
「神だか世界の意志だか知らねえがな、帳尻合わせのために俺の相棒を消すだと? そんなチンケな二者択一を突きつけて、満足そうにしてんじゃねえよ」
俺は総督マントを脱ぎ捨て、手すりの上の調律者へ向かって大股で歩み寄った。
恐怖も、保身も、逃亡願望も、すべてが頭の中から吹き飛んでいた。
残っているのは、世界を欺き続けてきた一人の詐欺師としての、剥き出しの矜持だけだ。
「おい、調律者。お前、自分が何者か本気で見誤ってるぜ」
「……我が正体を見誤る? 我は世界そのものの法則であり、全知全能の調律神である」
「全知全能? くくっ……笑わせるな!」
俺は両手を広げ、時間を止めた絶対神を正面から指差し、魂の底から極上のホラを吠えた。
「お前は神なんかじゃない! 太古のシステム管理者が、世界の退屈な帳尻を合わせるためにプログラミングした【ただの下っ端・全自動会計監査アンドロイド】なんだよ!」
時間が停止した空間に、俺の大音声が反響する。
透けかけていたベルゼが目を見開き、調律者の光輪が一瞬激しく揺らめいた。
「いいか! お前の仕事はな、バグを消すことじゃない! 世界中のあらゆる矛盾とハッタリをすべて正規の予算として計上し、全宇宙をハッピーエンドで黒字決算にするための【終身・最高財務監査官】なんだよ!」
完全なる出任せ。
宇宙の法則そのものを、経理の平社員扱いする狂気の冒涜。
「お前が本気で帳簿を締めれば、因果の歪みなんて一秒で『開発特別損失』として全額免除処理できる! 相棒一匹の存在を正規データとして承認することすらできねえ無能なら、今すぐその安っぽい仮面を叩き割って、宇宙のゴミ箱へ退職届を叩きつけなァ!!」
静寂。
時間を止めた虚空の中で、調律者の鏡の仮面にピシリと一本の亀裂が走った。
世界の法則そのものが、プライドを極限まで引き裂かれ、激怒のあまり青白い光を放って沸騰する。
「……貴様」
調律者の仮面が砕け散り、その奥から現れた光の顔面が、宇宙を揺るがす全否定の絶叫を轟かせた。
「嘘をつけェェェェェッ!!」




