第十四話:帝国宰相は、自国の歴史と始祖に敗北する
ガルディニア帝国の帝都――参謀本部・最深部作戦室。
深夜の重厚な執務室で、帝国宰相エルンストは冷え切った薬草茶に口をつけ、眉間を指先で揉みほぐしていた。
「……ソニアからの定期連絡が三時間遅れている」
室内に控える参謀長が、緊張に喉を鳴らしながら応じる。
「はっ。『千の顔を持つ毒蛇』ほどの者が連絡を絶つなど前例がございません。……まさか、敵の最高顧問シオンに捕縛・処刑されたのでは」
「あり得ん。あの女は帝国の暗部が誇る最高傑作だ。いかにシオンとやらが神域の謀略家であろうと、証拠も残さず潜入したソニアの正体を見破れるはずが――」
バァン!!
重厚なオーク材の扉が、勢いよく蹴破られた。
飛び込んできたのは、深紅のドレスを乱し、肩で激しく息をする美女――ソニアだった。
「ソニア! 無事だったか!」
エルンストが立ち上がる。
「よくぞ戻った。シオン・クローデルの弱点は掴めたか? 奴を暗殺する手筈は整ったのか!?」
「エルンスト宰相……」
ソニアの琥珀色の瞳は、いつもの冷徹な光を失っていた。
その顔は死人のように青ざめ、額には脂汗が滲み、全身がガタガタと震えている。
彼女はふらつく足取りでエルンストの机へと歩み寄り、胸元から一本の『最高機密暗号通信水晶』をドサリと机上に叩きつけた。
「……弱点など、最初から存在いたしませんでした」
「何だと?」
「我が国は……いいえ、貴方は取り返しのつかない大罪を犯してしまったのです、エルンスト閣下」
ソニアは涙を流しながら、狂気じみた震え声で告げた。
「シオン様は……我が帝国を三百年前に建国された、偉大なる【初代皇帝ガルディニア一世陛下】の転生体であらせられました……!」
「…………」
作戦室内の空気が、完全に凍結した。
エルンストは眼鏡を指で押し上げ、部下の顔をまじまじと見つめた。
「……ソニア。貴様、敵の精神汚染魔法を浴びたのか? 何をうわ言を――」
「うわ言ではありませんッ!!」
ソニアが絶叫し、机上の水晶を激しく叩いた。
水晶から真紅のホログラムが展開され、帝国全土の軍事・魔導インフラの全系統図が宙に浮かび上がる。
その最上段に、帝国の最高機密暗号で刻まれていた文字。
『【最高統括権限掌握】:シオン・クローデル陛下』
『【生体波長認証】:建国王ガルディニア・エリアル・フォン・ガルディニア(合致率:一〇〇%)』
『【待機命令】:全魔導炉・一括遠隔自爆プロトコル待機中』
「な……ななな、何だこれはァァァッ!?」
参謀長が悲鳴を上げ、エルンストの顔面から一瞬で血の気が引いた。
帝国工廠の最高責任者と宰相しか知らないはずの、帝国の根幹システム。それが、王国のスラムにいる青年の名で完全にロックされている。
「ほ、本当に……始祖陛下……!? 馬鹿な、我が国の全魔導炉は、シオンの寝言一つで灰燼に帰す状態にあるというのか……!?」
「そうです!」
ソニアは床に膝をつき、号泣した。
「始祖陛下は、自らが創り上げた帝国が覇道に狂い、他国を侵略する様を嘆いておられたのです! 第三機甲師団を農民に変えられたのも、我が国の食糧難を救うための始祖陛下の深遠なる親心! それなのに我らは……建国の父に向かって刃を向け、暗殺者を差し向けるという万死に値する大逆を犯したのです!!」
「ば……馬鹿な……そんなことが……」
エルンストは机に両手をつき、激しく息を乱した。
百戦錬磨の冷徹な宰相の頭脳が、過負荷で焼き切れる寸前まで軋む。
シオン・クローデル。
スラムの小悪党から突如現れ、王都結界を直し、邪龍を抑え込み、自国のクーデターを未然に防ぎ、油田を底値で奪い、機甲師団を農民に変え、そして今、帝国の始祖として自国の息根を完全に掌握している男。
「……全てが、繋がった」
エルンストの口から、掠れた呟きが漏れた。
「常人には理解不能な神域の奇跡の数々……。一国の宰相ごときが敵う相手ではなかったのだ。最初から……世界そのものを設計した神話の王が、戯れに歴史を導いておられたのだ……!」
エルンストの瞳から、侵略の野望は完全に消え去っていた。
残ったのは、自らの浅慮に対する絶望と、始祖への恐れ多さ。
「全軍に通達……! 国境周辺の全部隊を即時後退させよ! ……そして、私自ら全権大使として王都へ赴く!」
「閣下自らが!?」
「当然だ! 始祖陛下の御前にて土下座し、我が首を差し出してでも帝国の滅亡を免れていただく他ないではないかァァァッ!!」
帝都の作戦室に、宰相の悲痛な号泣が響き渡った。
――その頃。
帝都で「建国の絶対神」として平伏されていたシオン・クローデルは。
「――おいベルゼ。今日の晩飯、またキャベツの塩茹でか?」
王都のスラムの執務室で、俺は千百五十ペニーの革袋を机の上に並べ、絶望的な溜め息をついていた。
『文句言うなよ。ゴルツが送ってきた大根の葉っぱを刻んで入れたから、昨日より彩り豊かだぞ』
肩の上の黒猫が、小皿に盛られた高級干し肉を齧りながら暢気に答える。
「彩りとかどうでもいいんだよ! 肉を食わせろ肉を! なんで数十億の国家資産動かしてる男が、毎日スラムの野良ウサギみたいな食生活送らなきゃならねえんだ!」
『ぎゃはは! 千ペニーじゃ肉屋の上等なステーキは買えねえなあ!』
腹立たしい黒猫の頭を軽く小突いた、その時だった。
ドタドタドタッ!!
執務室の階段を、何人もの騎士がけたたましい足音を立てて駆け上がってきた。
扉が勢いよく開かれ、クラリスが息を切らして敬礼する。
「シオン閣下! た、大変でございます!」
「今度は何だ。キャベツの第二陣か? もう部屋に入らないから門の外に積めって言っただろ」
「違います! ガルディニア帝国の国家元首専用・超大型特使船が、王都の迎賓港に着岸いたしました!」
「……は?」
「乗船しているのは、帝国宰相エルンスト閣下、ならびに帝国の全軍首脳陣です! 全員が武器を捨て、白装束に身を包み、縄で自らの体を縛り上げて港の石畳に土下座しております! 『始祖シオン陛下に無条件降伏の誓詞を捧げ、国家併合をお願いしたい』と号泣しながら叫んでおりまして……!」
「…………」
俺の思考が、完全に停止した。
白装束。縄で縛った全軍首脳。国家併合。
「……なあベルゼ」
『なんだ相棒』
「あの美女スパイ、俺がついた『初代皇帝の転生体』ってホラ……帝都に持ち帰って全力で信じ込ませやがったな?」
『みたいだな。で、帝国宰相が国ごとプレゼントしに来たわけだ』
「シオン閣下!」
クラリスが感涙で瞳を潤ませ、胸に手を当てた。
「戦わずして大陸最強の軍事帝国を完全降伏させ、我が王国へ無血併合されるとは……! 有史以来の大偉業です! 国王陛下も『シオン殿に両国の全統治権を委ねる』と仰せで、直ちに【大陸統合帝国・終身最高総督】の就任式典の準備に入られました!」
「最高総督……?」
「はい! なお、帝国の旧財政赤字六十億ペニーと、帝国領三千万人分の食糧配給計画の全責任は、すべて最高総督であられる閣下の決済事項となります!!」
「…………」
手持ち現金、千百五十ペニー。
消えたもの――帝国からの軍事的脅威。
増えたもの――大陸全土の最高統治権、六十億ペニーの負債管理、そして三千万人の胃袋の扶養義務。
『――ぶっ、ぎゃはははははははははははッ!!』
肩の上で、ベルゼが執務机から転がり落ちて床を激しく叩きながら狂乱の爆笑をあげた。
『最高だ! 最高すぎるぞシオン! 晩飯の肉代すらねえ無職が、大陸全土を支配する最高総督になっちまったァァァッ!! どうすんだよ世界一貧乏な絶対君主様ァァァッ!!』
「嘘だろォォォォォォッ!?」
スラムのボロ執務室に、俺の魂の絶叫が七度響き渡った。




