第十三話:帝国の美女スパイは、史上最悪の弱点を掴んでしまう(※ただの貧乏です)
美女の香水というものは、キャベツの青臭さをかき消すには十分すぎるほど刺激的だった。
「初めまして、シオン最高顧問閣下。大陸交易商会『紅珊瑚』の代表を務めております、ソニアと申します」
執務室の豪奢な革張りソファに腰掛け、艶やかに足を組み替える美女。
波打つ紫紺の長髪に、豊満な肢体を包む深紅のシルクドレス。琥珀色の瞳には、男を惑わす甘い光と、その奥底に獲物を値踏みする爬虫類のような冷徹さが同居していた。
表向きは、国境の巨大農場で採れたキャベツの独占買い付けを申し出に来た新進気鋭の豪商。
だが、その正体は帝国宰相エルンスト直属の特級潜入工作員――『千の顔を持つ毒蛇』。
『おいシオン、すげえ美人だぞ。お前の好みドンピシャじゃねえか』
俺の膝の上で丸くなったベルゼが、テレパシーでケラケラと笑う。
(黙れ。あいつのドレスの袖口、触れただけで心肺停止する遅効性の即死毒針が三本仕込まれてるぞ)
詐欺師の目は誤魔化せない。
歩き方の重心、指先のわずかなタコ、そして何より笑顔の裏でこちらの喉元を常に計算している呼吸の間合い。
間違いなく、何百人もの要人を暗殺してきた国家級の殺し屋だ。
「ソニアさん、でしたかね。キャベツの商談なら、農政担当のハインリヒかゴルツに回してあるはずだが?」
俺は千百五十ペニーの革袋を机の引き出しにそっと隠し、あえて不機嫌そうに頬杖をついた。
相手は情報戦のプロだ。下手に歓迎すれば怪しまれる。
「ふふ、冷たいお方。私、キャベツの仕入れなどという小さな商売のために参ったのではありませんの」
ソニアは立ち上がり、音もなく俺のデスクへと歩み寄ってきた。
豊満な胸元を惜しげもなく晒しながら、白魚のような指先を俺の肩へ滑らせてくる。
「王国を一夜にして救い、帝国第三機甲師団を跪かせた若き英雄……。私、貴方様のような真の覇者にこそ、我が商会の全財産と……私自身のすべてを捧げたいと思いまして」
吐息が耳元をかすめる。
完璧な色仕掛け。男の警戒を解き、プライドをくすぐり、秘密を吐き出させる古典的かつ最強の手口。
「ですが、シオン様。これほど完璧な殿方にも、たった一つくらいは『誰にも言えない秘密』や『弱点』がおありなのでしょう? ……例えば、その絶大な力の代償や、帝国の侵攻に対する真の防衛計画のような」
探ってきた。
甘い声の中に潜む、鋭利な刃。
ここで「俺に弱点などない」と答えれば、相手は警戒を強めて長期的な監視を続けるだろう。
逆に「実は俺は戦闘力ゼロの貧乏人だ」と正直に言えば、即座に袖口の毒針が俺の首筋に突き刺さる。
ならば、答えは一つしかない。
この優秀すぎるスパイが「絶対に持ち帰りたい」と飛びつき、かつ「そんな馬鹿なことがあってたまるか」と全力で否定したくなる、最悪の偽情報を掴ませてやること。
「……ふっ、弱点、ねえ」
俺はソニアの手首を軽く払い、わざとらしく苦々しい表情を作って視線を落とした。
「あんた、命知らずだな。俺の『正体』と『最大の弱点』に踏み込もうとするとは」
「……あら、教えてはいただけませんの?」
ソニアの琥珀色の瞳が、獲物を狙う蛇のように細められる。
俺は重々しく息を吐き、机の上に両肘をついて、深淵を覗き込むような暗い声で語り始めた。
「いいだろう、冥土の土産に教えてやるよ。……実はな、俺の真の正体は、三百年前に帝国を建国した【初代皇帝ガルディニア一世】の転生体なんだよ」
「……は?」
ソニアの妖艶な笑みが、一瞬でピキリと凍りついた。
膝の上のベルゼが脳内で激しく痙攣し始める。
『ぶっ……! おい! 敵国の建国者の転生体だァ!? 話のスケールが急に銀河系まで跳びすぎだろ!』
俺はベルゼのツッコミを無視し、苦悩に満ちた表情で額を押さえた。
「俺の魂にはな、帝国全土に張り巡らされた魔導炉と軍事防衛システムを遠隔で一斉自爆させる【神代統括認証キー】が刻まれている。……そして俺の唯一の弱点は、満月の夜に極度のストレスを感じると、その自爆コードを『無意識の寝言』で口走ってしまうことなんだ!」
執務室が、絶対零度の静寂に包まれた。
敵国の初代皇帝の転生体。
帝国の全インフラを自爆させる生体キー。
弱点は寝言。
小学生の作った黒歴史ノートですら、もう少し辻褄を合わせるレベルの超ド級のデタラメ。
「どうだ、ソニアさん。俺の寝首を掻くか? 俺が死ねば、安全装置が作動して帝都の魔導炉が連鎖爆発を起こし、帝国は今夜のうちに地図から消滅するがな」
俺は冷笑を浮かべ、ソニアの顔を正面から見据えた。
ソニアの白い額に、ピキピキと青筋が浮かび上がる。
スパイとして過酷な訓練を積み、帝国の機密をすべて把握している彼女だからこそ、このハッタリは己の知性と愛国心を極限まで愚弄された侮辱に他ならなかった。
「……ふ、ふざけるのも……」
ソニアの唇が震え、妖艶な美女の仮面が完全に剥がれ落ちた。
「嘘をつけェェェェェッ!!」
執務室の窓ガラスをビリビリと震わせる、怒気配りなき全否定。
「初代皇帝陛下の転生だとォ!? 我が帝国の始祖が、このようなスラム育ちの薄汚い詐欺師に転生しているわけがなかろうがァ! 帝国全土を自爆させる生体キーだと!? 寝言で自爆コードを呟くだと!? 我が国の魔導炉防衛プロトコルを愚弄するのも大概にしろ! そんな荒唐無稽な生体認証など、天地が百回ひっくり返っても存在するはずがなかろうがァァァッ!!」
帝国最高の情報工作員による、魂の底からの「絶対の疑念」。
――ビキィィィィンッ!!
空気が割れた。
部屋中の魔力濃度が一瞬で臨界点を超え、ソニアのドレスの胸元に隠されていた「帝国最高機密暗号通信水晶」が、眩いばかりの真紅の光を放って勝手に宙へと浮き上がった。
「な……何事ですの!?」
ソニアが血相を変えて水晶を掴もうとする。
だが、水晶からは帝都の参謀本部にしか繋がらないはずの、最高位の緊急アラート音が鳴り響いた。
『――ピポパポポポン! 生体波長、魂の魔導指紋をスキャン完了。……認証成功。ガルディニア帝国初代皇帝、建国王ガルディニア・エリアル・フォン・ガルディニア陛下と確認いたしました』
「……は?」
ソニアの思考が完全に停止した。
さらに、宙に展開されたホログラムスクリーンに、帝都の全軍事施設、全魔導発電所、全要塞の立体構造図がズラリと映し出された。
画面の中央には、黄金の文字でデカデカとこう表示されている。
『【最高統括権限掌握】:シオン・クローデル陛下。全魔導炉の一括遠隔自爆コード待機中。音声入力によりいつでも帝国全土を灰燼に帰すことが可能です』
「ば……馬鹿な……!?」
ソニアの顔から、完全に血の気が引いた。
ドレスの裾を震わせ、膝から崩れ落ちて床に両手をつく。
「ほ、本当に……初代皇帝陛下……!? 我が帝国の全システムは、最初からこのお方の掌の上で作られていたというの……!? 寝言一つで……我が祖国が……消滅する……!?」
ソニアの瞳に宿ったのは、恐怖などという生ぬるい感情ではなかった。
自らが仕える国家そのものを創り出した「生ける絶対神」に対する、抗いようのない絶望と平伏。
「お、お許しを……! お許しくださいまし、偉大なる建国の始祖よ……!」
ソニアは床に額を血が滲むほど擦り付け、涙を流しながら袖口の毒針をすべて抜き取って差し出した。
「我が命、我が魂、すべて陛下にお返しいたします! 帝国宰相エルンストの謀略、軍の全配置、諜報網の全暗号符、すべてを貴方様に捧げます! どうか……どうか祖国を滅ぼすことだけはご容赦をォォォッ!!」
「え、あ、いや、自爆させる気はないから頭を上げて――」
「なんという慈悲深き御心……! このソニア、今日より貴方様の【専属二重スパイ】として帝国の影を掌握し、エルンストの首を必ずや手土産にお持ちいたします!!」
ソニアは感涙にむせびながら立ち上がり、狂信的な忠誠の眼差しを一瞥残すと、窓から風のように帝都へと飛び去っていった。
「…………」
執務室に残されたのは、山積みのキャベツと、宙に浮かぶ帝国全土の自爆権限画面。
そして、手持ち現金千百五十ペニー。
『――ぶっ、ぎゃはははははははははははッ!!』
膝の上で、ベルゼが床を転げ回りながら涙を流して大爆笑していた。
『最高だ! 最高すぎるぞシオン! 敵のスパイをたらし込むどころか、敵国の建国者になっちまったァァァッ!! お前、手持ち千ペニーのくせに帝国全土の生殺与奪の権を握ってやがるぞォォォッ!!』
「嘘だろォォォォォォッ!?」
王都の夕空に向かって、俺の悲痛な絶叫が六度、虚しく木霊した。




