第十話:国家最高顧問の初仕事は、適当な減税と投機である(※大成功しました)
国家最高顧問という肩書きが与えられたからといって、朝飯の質が自動的に跳ね上がるわけではない。
スラムのボロ倉庫の真ん中に、突如として設置された豪奢な紫檀の執務机。
その上に置かれているのは、王宮から届けられた最高級の銀食器と、俺が今朝なけなしの二十ペニーで買ってきた冷え切った黒パンがひとつ。
「……なあベルゼ。俺、いま王国で一番偉い無職だよな?」
『無職じゃねえよ、最高顧問様だ。肩書きだけは国王の真横まで昇りつめたのにな、手持ちの金は千百八十ペニーに減ってやがる。前代未聞のド貧乏宰相の誕生だな』
肩の上の黒猫は、銀の皿に盛られた極上の干し肉を咀嚼しながら、実に愉快そうに尻尾を揺らしていた。
倉庫の周囲は、すでに完全な軍事要塞と化していた。
クラリス率いる白銀の近衛騎士団が周囲三層の防衛線を構築し、上空には魔導院の警備飛行船が常時旋回。
そして倉庫の中では、昨晩寝返った『黒鴉』の暗殺者たちと『夜啼鳥』の精鋭が、物陰から目を光らせている。
アリ一匹這い出る隙間もない。つまり、俺が夜逃げするルートも完全に消滅していた。
そこへ、ガチャリと重々しい足音を響かせて、新たな集団が倉庫へ踏み込んできた。
先頭に立つのは、金の縁取りが施された豪奢な財務官服を纏った、神経質そうな長身の男。手には羊皮紙の束がこれでもかと積み上げられている。
「シオン最高顧問閣下! 財務局総監のハインリヒでございます!」
男は机の前で深々と一礼すると、ドサリと腕の中の書類の山を俺の前に叩きつけた。
「前宰相バルフォアの失脚に伴い、隠蔽されていた王国の財政状況の全容が明らかとなりました。……総赤字額、二十三億四千万ペニー。来月末までに最低でも五億ペニーの現金を調達できねば、王立銀行が破綻し、軍の給与も停止、国家は債務不履行で崩壊いたします!」
「二十三億」
数字がデカすぎて、もはやパン何個分か計算する気すら起きない。
ハインリヒ財務総監は血走った目を眼鏡の奥で光らせ、早口で詰め寄ってきた。
「緊急措置として、全国民への臨時増税三十パーセント、ならびにスラム全域の住民への人頭税新設を提案いたします! 閣下、直ちにこの緊急徴税令書に御署名を!」
「増税?」
俺は思わず眉をひそめた。
スラムの住人に人頭税だと? 一日十ペニーのパンすら買えずにドブ水を啜って生きている連中から、さらに金を毟り取ろうというのか。そんなことをすれば、暴動が起きて俺のアパートごと焼き払われるに決まっている。
何より、真面目に増税の計算書にサインなんかしたら、俺が本物の政治家として毎日この書類仕事をこなさなきゃならなくなる。
(嫌だ。絶対に嫌だ。俺は詐欺師であって官僚じゃない。さっさと適当なこと言って、こいつらのやる気をへし折って追い返してやる……!)
『おいシオン、悪巧みしてる顔になってるぞ』
ベルゼが耳元でヒソヒソと囁く。
『財務官僚なんて連中は数字の化け物だ。「金ならそのうち湧いて出ます」なんて言っても、帳簿の数字で論破されて終わりだぞ』
(分かってる。だからこそ、経済学の常識を根底から踏み躙るような、天文学的デタラメをぶち込んでやるんだよ)
俺は黒パンを一口かじり、わざとらしく冷ややかに笑いながら、差し出された増税令書をペラリと指先で弾き飛ばした。
「……ハインリヒ総監。あんた、頭の出来までバルフォアと同じなのかい?」
「な、何ですと……!?」
ハインリヒの顔がピクリと引き攣る。
俺は背もたれに深く寄りかかり、足を組んで尊大な態度で財務官僚たちを見下ろした。
「不景気だから増税? 民から小銭を巻き上げて穴埋め? くくっ……三流の金貸しでももう少しマシな策を考えるぜ。そんなチンケな帳簿合わせで、国家の赤字が消えると思ってんのか」
「で、では閣下は、この二十三億の負債をどう補填されるおつもりですか! 現実的な財源がなければ、国が滅ぶのですぞ!」
「財源? そんなもの、最初からここにあるだろうが」
俺は芝居がかった手つきで、倉庫の床から突き出ている神代金の結晶柱を指差し、大風呂敷を広げた。
「いいか、今すぐ全国民の税金を【全額免除】にしろ。それどころか、王都の全国民に一人あたり十万ペニーの『神代金振興商品券』をタダで配り散らかすんだ」
「は……? ぜ、全額免除……? 十万ペニーを配る……!?」
ハインリヒが口をあんぐりと開けた。
「そうだ。さらに、王国の全余剰資金を、隣国の砂漠地帯にある『塩の荒野』の買い占めに全額突っ込め。あそこにはな、明日になれば超古代の魔導油田が噴き出し、一日で百億ペニーの配当を生む利権の山になるのさ!」
言った。
税金をゼロにして金を配り、無価値な隣国の砂漠を買い占める。
経済破滅のジェットコースター。幼稚園児でも思いつかない、一秒で国が滅ぶ狂気の経済政策。
ベルゼが脳内で腹を抱えて転がり回る。
『出たァァァッ! ばら撒き減税と無価値な砂漠への全財産一点張り! 経済学者が卒倒して泡吹くレベルのゴミ政策だァ!』
ハインリヒの顔面が、怒りと屈辱で真っ赤に染まり上がった。
額に青筋を何本も浮かべ、持っていた書類の束を床に叩きつける。
「……閣下」
財務の最高責任者による、魂の底からの大絶叫が倉庫を揺るがした。
「嘘をつけェェェェェッ!!」
鼓膜が破れんばかりの完全否定。
「全額免除にして金を配るだとォ!? そんなことをすればハイパーインフレで通貨価値が紙屑になるわ! 隣国の塩の砂漠に油田だと!? あそこは何百年も草一本生えぬ不毛の大地! 一日で百億ペニーの配当など、経済学と地質学を冒涜した狂人の妄言だ! そんな都合のいい大油田が実在するわけがなかろうがァァァッ!!」
生涯を数字と統計に捧げてきたエリート官僚による、一片の迷いもない「絶対の疑念」。
――カチリ。
世界が軋んだ。
因果律の歯車が激しく回転し、ハインリヒの「存在するわけがない」という常識をへし折るために、大陸全土の地殻変動と市場経済の流通構造が、過去数千年の歴史ごと一瞬で書き換えられていく。
「……な、なんだ!?」
ハインリヒが懐の通信魔導具に手を伸ばした、その瞬間だった。
バァァァン!!
倉庫の扉が勢いよく開かれ、伝令の早馬に乗った騎士が転がり込んできた。
「ほ、報告! 隣国との国境地帯より緊急電報!」
「な、何事だ! 帝国軍の侵攻か!?」
「いえ! 帝国との境界にある『塩の荒野』の中央部が突如として大陥没を起こし、地下から無尽蔵の『神代魔導重油』が噴出! 噴出量は大陸全土の年間消費量の千倍以上! 先ほど我が国が破格の安値で買収手続きを完了していたため、採掘権の百パーセントが我が王国に帰属することが確定いたしました!!」
「な……ななな、何だとォォォッ!?」
ハインリヒの眼鏡がポロリと床へ落ちた。
さらに、通信魔導具から王立銀行総裁の絶叫が響き渡る。
『ハインリヒ総監! 大変です! シオン閣下が発令された商品券の流通と減税の報が広まった瞬間、市場の消費活動が爆発的に活性化! 買い占めた魔導油田の採掘権を担保にした国家債券に、世界中の大商人から天文学的な投資が殺到しております! 本日午前中だけで、国庫に【五十億ペニー】の純利益が確定いたしましたァァァッ!!』
「ご……五十億……!?」
二十三億の赤字が一瞬で消滅し、手元に二十七億ペニーの黒字が残った。
静まり返る倉庫。
ハインリヒは膝から崩れ落ち、震える手で自らの頭を抱え込んだ。
その瞳には、先刻までの怒りは微塵もなく、神の采配を目の当たりにした狂信者の涙が溢れていた。
「ば、馬鹿な……! 減税で国内の消費意欲を極限まで煽り、無価値に見せかけた砂漠の油田利権を底値で独占した上で、世界市場から巨額の投資を呼び込む……!? これこそが……これこそが、有史以来誰もなし得なかった『超次元マクロ経済誘導』……!」
ドサリ。
ハインリヒは床に額を叩きつけ、号泣しながら俺の足元へ這い寄った。
「シオン閣下ァァァッ! 数字の帳尻合わせしかできぬ老害官僚の無礼をお許しください! 貴方様こそ、我が王国の経済を永遠の繁栄へと導く『黄金の経済神』であられます!!」
「いや、俺はただ適当に言っただけで――」
「なんという底知れぬ深慮! 直ちに国庫の二十七億ペニーを基金とし、閣下の名を冠した『シオン記念国家中央銀行』を設立いたします! そして閣下には、大陸全体の通貨流通を統括する【終身最高通貨総裁】を兼任していただきます!!」
「兼任!?」
また肩書きが増えた。
仕事が減るどころか、国家どころか大陸規模の経済のハンドルを握らされる羽目になった。
「…………」
手持ち現金、千百八十ペニー。
消えたもの――国家の財政危機。
増えたもの――五十億ペニーの利益を動かす責任と、終身最高通貨総裁の激務。
『――ぎゃはははははははははははッ!!』
肩の上で、ベルゼが倉庫の机を叩きながら狂乱の爆笑をあげていた。
『最高だ! 最高すぎるぞシオン! 適当に砂漠を指差したら五十億ペニー湧き出てきやがった! なのに相変わらずお前のポケットには小銭が千ペニーぽっち! 世界一リッチで世界一哀れな経済神様だァァァッ!!』
「嘘だろォォォォォォッ!?」
俺の悲痛な絶叫が、未曾有の大好景気に沸き立つ王都の青空へ吸い込まれていった。
――その頃。
王国と国境を接する軍事大国『ガルディニア帝国』の帝都。
豪奢な作戦指令室の暗がりで、バルフォアを裏で操っていた帝国宰相・エルンストが、手元の報告書を握り潰していた。
「……バルフォアが失脚し、塩の荒野の油田を奪われただと? スラムの無名の小僧、シオン・クローデル……。貴様、何者だ」
冷酷な眼光が、王国の地図へと突き刺さる。
「我が帝国の覇道を阻むというのなら、容赦はせん。……帝国軍第三機甲師団へ通達。直ちに国境を越え、王国の『神代金鉱脈』を武力接収せよ」
大陸全土を揺るがす戦火の足音が、静かに、だが確実にシオンの元へと迫っていた。




