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第九章 最後の砦

 午前二時十五分。

 出場指令の電子音が、詰所の静寂を断ち切った。

 高村修平は仮眠室のベッドから身を起こした。数秒前まで微睡まどろんでいた痕跡は、その目のどこにもない。無言で防火服に袖を通し、ヘルメットを掴む。


 首都高速道路、下り線。多重衝突事故。乗用車一台が大型トラックとガードレールに挟まれ大破。要救助者一名、車内閉じ込め。燃料漏れの危険あり。


 車両に乗り込み、サイレンとともに夜の街へ出る。修平の意識から、婚活アプリの通知も、結婚相談所の面談も、スナックでの笑い話も、すべてが消えていた。頭の中にあるのは、到着までの数十秒で更新される断片的な情報と、過去の類似事例、隊員の配置だけだった。


 現着。

 赤色灯と青色灯が路面を交互に染め、緊急車両の列が高速道路の車線を塞いでいる。

 ひしゃげた金属が風に軋む音。無線から飛び交う切迫した声。白煙。その向こうに、野次馬の遠巻きなざわめき。


 修平は車両から降り立ち、まず鼻腔を突くガソリンの匂いを確かめた。濃い。次に、大破した乗用車の傾斜角度、道路の勾配、ガードレールの歪み方を見る。

 乗用車は、トラックの車体とガードレールの間でV字型にひしゃげていた。運転席の空間は致命的に潰れ、助手席側にわずかな生存空間が残されているだけだ。ダッシュボードが膝の高さまで落ち込み、フロントガラスは蜘蛛の巣状に割れたまま、かろうじてフレームにぶら下がっている。

 先着の救急隊と所轄の消防隊が、車両から数メートル離れた位置で待機していた。


「状況は」


 修平が短く問う。先着隊の小隊長が硬い声で答えた。


「運転席、一名。意識混濁。呼びかけには反応します」

「燃料は」

「漏れています。右側に流れています」

「車体は」

「トラック側に乗っかっています。切れば、沈む可能性があります」


 修平は大破した乗用車を見た。

 運転席側のBピラーは、潰れた鉄の中でかろうじて形を保っている。だがそれは救いではなく、罠に近い。刃を入れる場所を誤れば、残された生存空間そのものが閉じる。


 手を出せない。


 それが、この現場についての正しい結論だった。

 一歩間違えれば、要救助者もろとも炎に包まれる。あるいは、救おうとしたその手で、相手の命を絶つことになる。


 だからこそ、ハイパーレスキューが呼ばれた。


 修平は大破した車両へ歩み寄った。


「ここからは、我々で引き受けます」


 大きな声ではない。だが現場の空気が、その一言で変わった。先着隊の小隊長が半歩退き、所轄の隊員たちの背筋がわずかに伸びる。


「佐々木、木原きはら。車両の安定化が最優先だ。左右のステップ下にステップブロックとウェッジを噛ませろ。進入は最小限。切断位置はこちらで決める」

「了解!」


 後方では別の隊員二名が投光器を据え、もう一名が燃料の流れを監視している。路面に広がるガソリンの黒い染みが、赤色灯の光を鈍く反射していた。


「全員、足元と燃料の気化きかに気を配れ。助ける前に、倒れるな」


 修平は振り返り、後方へ指示を飛ばした。


「燃料が右側に流れている。気化ガスが滞留する可能性がある。火気を切れ。警戒線をさらに十メートル下げろ。発泡準備はっぽうじゅんび


 指示を終えた修平は、潰れた助手席側の窓枠に顔を近づけた。

 暗闇と金属の塊の奥から、微かなうめき声が聞こえる。呼吸の間隔は長く、浅い。


「……聞こえますか。消防です」


 修平の声は、部下に指示を出した時とはまるで違っていた。地を這うように低く、穏やかだった。


「必ず出します。だから、目を閉じないでください」


 奥で、微かに何かが動いた気配がした。

 修平は窓枠に添えた手に、ほんの少しだけ力を込めた。


「隊長、安定化完了しました」


 佐々木の声。修平は視線を車両の構造へ戻した。

 ステップブロックとウェッジが車体の下に噛んでいる。沈み込みは止まっている。だが、トラックのタイヤに乗り上げた状態は変わらない。安定化は、あくまで暫定だった。


「よし。Bピラーから切る。スプレッダーで運転席側のドアを解放し、空間を作る。木原は油圧カッターを持て。佐々木、お前はスプレッダーだ」

「ステップ、入ります」


 油圧器具が金属に噛みつく音が、夜の高速道路に響いた。鉄が裂ける、暴力的な音。修平は隊員たちの手元から目を離さなかった。切断のたびに生じる微細な車体の沈み込み。金属片が弾ける方向。隊員たちの足の位置。すべてを把握し、統制する。


「隊長、Bピラー、まだ噛んでいます」

「そこだ。それ以上は刃を入れるな。荷重が変わる」


 修平の指示は短い。だが、その一言が隊員の手を止め、角度を変えさせ、次の動きを正確に導いていく。木原がカッターの位置を微調整し、佐々木がスプレッダーの先端をずらす。その間も、車体の下から漏れたガソリンが、路面に黒い筋を伸ばしていた。


 しかし、現場は常に想定を超える。


 佐々木がスプレッダーを深く差し込み、ドアのヒンジを破壊しようとした瞬間だった。トラックのタイヤから空気が抜ける破裂音が響き、連動して乗用車の車体が左へ傾いだ。

 佐々木の体が揺れた。要救助者の呻きに反応して半歩踏み込んだその左足が、沈み込んだ車体とガードレールの隙間に入り込んでいた。


「佐々木! 足を抜け! 今すぐだ!」


 修平の怒号が飛んだ。

 佐々木が弾かれたように足を引く。直後、鈍い音とともに車体が数センチ沈み込んだ。さっきまで佐々木の足があった場所を、鉄とガードレールが噛み合って塞ぐ。一瞬でも遅れていれば、骨から砕かれていた。

 佐々木の顔から血の気が引いている。


「……申し訳ありません」


「足を残すな」


 修平は怒鳴りつけなかった。ただ、鉛のように重い声で告げた。


「お前も、帰る側の人間だ。忘れるな」


 佐々木は唇を噛み、深く頷いた。


「作業再開。慎重にな」


 切断位置を修正し、ウェッジを追加で噛ませ直す。投光器の白い光の下で、油圧カッターが再び鉄に食い込んでいく。車体が軋むたびに、修平の視線がステップブロックの沈み具合を確認する。


 空間ができた。


 十分後。ひしゃげた鉄の塊の中から、血に染まった要救助者が、隊員たちの手で慎重に搬出された。


頸部固定けいぶこてい、再確認。救急に引き継げ」

「救急、搬出準備できます」


 修平の指示で、要救助者は迅速にストレッチャーへ移された。

 意識は混濁しているが、呼吸はある。脈もある。

 救急隊員が酸素マスクを当てようとした時、要救助者の唇が微かに動いた。


「……むすめ、に……」


 その声は、遠くで鳴るサイレンの音にかき消されそうなほど弱かった。

 修平はストレッチャーの横に片膝をついた。


「大丈夫です。すぐ会えますよ」


 要救助者は、ほんのわずかに目を細めた。血と汗にまみれた顔の中で、その目だけが、どこか遠い場所を見ていた。


「……ありがとう、ございます」


 消え入るような声だった。

 その言葉は、修平の背中に、どんな油圧器具よりも重くのしかかった。



 救急車が赤色灯を回しながら走り去っていく。テールランプの赤が、首都高の曲線に沿って小さくなり、やがて見えなくなった。

 修平は規制線の外れに停めた資材車の影に立ち、ヘルメットを脱いだ。冷たい夜風が、汗で濡れた髪を撫でていく。


 ふと、自分の両手を見下ろした。

 分厚く、筋張った手。黒いオイルと金属の粉、そして誰かの血で汚れている。

 指先が、微かに震えていた。

 恐怖ではない。極限まで張り詰めていた責任から解放された、肉体の反動だった。一人の命と、一人の隊員の足を守り終えた体が、ようやく自分自身に戻ろうとしていた。

 この手は、瓦礫を退け、鉄を切り裂き、人を死の淵から引き戻すことには、少しの迷いもない。


 だが。


 修平は、震える指先をゆっくりと握り込んだ。黒く汚れたその手を、しばらく見つめた。

 鉄を押さえることには慣れている。

 誰かの日常に触れるには、少し硬すぎる手だった。


「隊長、撤収準備、完了しました」


 佐々木の声に、修平は顔を上げた。

 手についた汚れをウエスで無造作に拭き取り、「よし」と短く答えた。


 ヘルメットを被り直す。資材車へ向かう足取りは重かったが、その背中に迷いはなかった。




【高村修平の独白】


「ありがとう」という言葉は、現場では重すぎることがある。


 瓦礫の中から引きずり出した命が、最後に漏らした「娘に」という一言が、まだ耳の奥に残っている。

 あの男性には、帰る場所があった。待っている人がいた。我々ハイパーレスキューは、そうした誰かの日常を死の淵から引き戻すための、最後の砦でなければならない。

 我々の後ろには、もう誰もいないのだから。


 佐々木の足が車体の隙間から抜けた瞬間も、同じだった。

 俺の前にいる者は、皆、帰る側の人間だ。


 ウエスで拭いても、手の平にはオイルの匂いと金属の粉が残っている。

 この手は、鉄を切り裂き、コンクリートを退け、命を引き戻すためには、一瞬の迷いも生じない。だが、婚活の席でコーヒーカップを握るとき、俺はいつも場違いな気がしてならない。


 誰かの帰る場所を守ることに、慣れすぎてしまったのだと思う。

 鉄を押さえることばかり覚えてきたこの手で、誰かの心にそっと触れることなど、できるのだろうか。

 俺は、指先に残る震えをゆっくりと握り込んで消した。


 夜明けは近い。

 資材庫に戻り、スプレッダーの刃を研ぎ直さなければならない。


 次の出場指令は、俺の感傷など待ってはくれない。


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