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第八章 見えない仮交際

 谷口たにぐち夏希なつきに続き、長谷川はせがわ明子あきこという女性とも仮交際に進むことができた。


 間違いなく、前進だった。修平は以前よりも会話の形を保てるようになっている。相手の言葉を待ち、笑顔を返し、余計な専門知識を飲み込むことも覚えた。

 だが、仮交際という一歩先の場所に立った修平の胸には、達成感よりも先に、得体の知れない静かな違和感が滲み始めていた。



 谷口夏希との最初の食事は、東京駅にほど近い、瀟洒しょうしゃなイタリアンレストランで行われた。

 初めて会った時、夏希は修平の不器用な優しさに笑ってくれた。冷房の風を背中で受け止め、結局くしゃみをしたあの情けない姿を、人間味として受け取ってくれた女性である。だからこそ修平も、今日の食事には静かな期待を抱いていた。


 テーブルを挟んで座る夏希は、清潔感のあるブラウスに身を包み、所作の一つ一つが整っていた。ナイフとフォークを運ぶ角度、グラスに口をつける前の微かな瞬き、給仕への「ありがとうございます」という控えめな声音。すべてが、薄暗く洗練された空間に見事に調和している。

 修平は、己の任務を忠実に遂行していた。専門用語を飲み込み、表情筋を適度に緩め、事前に相川からアドバイスされた「無難で柔らかい話題」を提供する。


「先日、この近くに新しい商業施設ができたそうですね。カフェや雑貨店も多いと聞きました。休日に、そういった場所で過ごされることはありますか」


 夏希は、口元のナプキンを優雅に置き、小さく微笑んだ。


「ええ。素敵ですよね。友人が行ってきたと話していました。私も、一度は行ってみたいと思っています」

「なるほど。美味しいコーヒーを飲みながら、ゆっくり時間を過ごすのも、良いリフレッシュになりそうです」

「そうですね。本当に、そう思います」


 彼女は感じ良く同意した。


 しかし、会話はそこで、静かに着地してしまう。「友人と行く約束がある」とか、「どんな店が入っているか調べた」といった、次の枝が伸びてこない。修平は慌てることなく、数秒の余白を置いてから、別の話題を出した。映画の話、最近読んだ本の話、季節の移ろいについて。


「お料理はされますか」

「たまにします。簡単なものですけど」

「どのようなものを」

「そうですね……その時あるもので、軽く」

「なるほど」


 会話は、どこにも引っかからなかった。引っかからないことは、本来なら良いことのはずだ。だが修平には、手すりのない廊下をまっすぐ歩いているような頼りなさがあった。

 夏希は、何を話しても穏やかに受け止めてくれた。


「いいですね」

「素敵ですね」

「そういう時間、大切ですよね」


 どの返事も柔らかく、礼儀正しく、少しも修平を困らせない。けれどその言葉はどれも、きれいに磨かれた小石のように、そこで静かに止まってしまう。


 会話は途切れない。失礼もない。


 それなのに修平は、その微笑みの奥に、朝の台所や、洗濯物を取り込む手つきや、冷蔵庫に残った半端な野菜の置き場を見つけることができなかった。


 食事が終わり、店を出た。

 駅へ向かう途中、修平は無意識に首の後ろを揉んでいた。失礼はなかった。会話も途切れなかった。それでも肩の奥には、訓練後とは違う種類の重さが残っている。

 相手に合わせること。普通の男として座り続けること。それは修平が思っていた以上に、細かな筋肉を使う作業だった。


「今日は、とても楽しかったです。ごちそうさまでした」


 東京駅の改札前で、夏希が綺麗にお辞儀をした。


「こちらこそ。また、ご一緒できれば幸いです」


 修平は定型文を返した。次回の約束がふんわりと結ばれたはずなのに、胸の奥では、ただ深く、静かな息が抜けていくだけだった。

 何も失敗していないはずなのに、背広の内側だけが、じんわりと重かった。




 長谷川明子とのデートは、数日後、代官山のカフェで行われた。

 明子は夏希とは対照的に、会話が途切れることのない女性だった。三十八歳。多趣味で、週末ごとに予定を変え、興味の赴くままに一人で遠出することも珍しくないという。


「家は、本当に寝るだけの場所でいいんです。だから、気分が変わったらすぐに引っ越せるように、家具も最低限しか持たない主義で」


 明子は、色鮮やかなフルーツタルトにフォークを入れながら、軽やかに笑った。


「固定されるのが、どうも苦手みたいで。常に身軽でいたいんですよね。高村さんは、ずっと同じ場所にお住まいなんですか?」

「ええ。勤務地との距離、および建物の耐震基準や地盤の安定性を考慮して選定した住居ですので、特段の理由がない限り移転は考えておりません」


 修平の硬い返答にも、明子は「なるほど、お仕事柄ですね!」と明るく応じた。

 一緒にいる時間は、決して退屈ではなかった。彼女の語る旅の話や新しい趣味の話は、修平にとって未知の世界であり、興味深くもある。


「冷蔵庫も、できれば小さい方がいいんです。食べたい時に外で食べればいいですし」

「冷蔵庫が小さい」

「はい。家に物があると、そこに縛られる気がして」


 修平は、非常用の水、保存食、懐中電灯、予備電池の配置を思い浮かべた。彼の住まいは、何かが起きた時のために整えられている。明子の住まいは、何かが起きる前に身軽に出ていくための場所だ。

 同じ「暮らし」という言葉を使っていても、その中身がまるで違う。


「将来は、ふらっと海外で暮らすのもいいですよね。東南アジアとか、物価も安くて気候もいいし。思い切って移住しちゃうのも、楽しそうだなって」


 明子は、タルトの最後の一口を飲み込みながら、楽しそうに目を細めた。

 修平は、彼女の言葉を否定しなかった。しかし脳内では無意識のうちに、東南アジアのハザードマップが広げられていた。


 移住先の医療体制はどの程度確保されているのか。言語の壁が有事の際の緊急連絡網に及ぼす影響は。大規模な自然災害が発生した場合、大使館と連携した帰国ルートは即座に確保できるのか。


 彼は、それを言葉にしなかった。

 だが、ほんの一瞬、相槌のタイミングが遅れた。


「……そうですね。新しい環境に身を置くのは、多くの刺激があるでしょう」


 修平が無難な同意を捻り出すと、明子はその一瞬の沈黙に気づくことなく、「ですよね!」と次の明るい話題へ移っていった。




 その夜、修平は自室のソファで、スマートフォンの報告画面を開いた。

 以前であれば、「状況ヨシ」「安全意識の向上」「参考共有完了」といった言葉が躍っていたはずだ。だが今の修平は違う。自分が「業者」ではないことを証明しなければならない。


 少し迷い、ゆっくりと指を動かした。


『本日は、滞りなく会話を終えることができました。避難経路の確認も、防災に関する指導も行っていません。相手の話に耳を傾けることに努めました。』


 修平は、その文面を見つめた。

 失敗はしていない。失点は防いだ。だというのに、どうしてこうも、自分がひどく場違いな存在に思えるのだろう。

 業者をやめ、ただの一人の男として相手に向き合おうとした結果、浮き彫りになったのは、自分という人間の「生活の匂いのなさ」と、「重すぎる現実感」だった。



 数日後、相川沙織からのフィードバックは、いつものように素早く、しかし今回はどこか慎重な響きを帯びていた。


『高村さん、ご報告拝見しました。避難経路の話を封印できたこと、相手の話を待てたこと、素晴らしい進歩です。高村さんの努力は、確実に実を結びつつあります』


 電話越しの相川の声は、修平を責めてはいなかった。


「……ありがとうございます」


 修平は、言葉を探した。


「私は、失敗はしていないつもりです。ですが、このまま交際を進めるべきかと言われると、即断できない自分がいます」


『どうしてだと思いますか』


「……分かりません。ただ、失礼はなかったはずです。会話も、続きました」

『ええ。そこは本当に進歩です』


「ですが、食事が終わった時、また会いたいというより、無事に終わったと思ってしまいました」


『……なるほど』


 相川は、少しだけ黙った。


『では、高村さん。お二人との時間に、生活の景色は見えましたか』


「……いえ」


 修平の声が、一拍遅れた。


「彼女たちは素晴らしい女性です。ですが、何かが決定的に違うような気がして」


『高村さん。もしかすると、高村さんに合う方は、条件が完璧に整っている方というより、もう少し別の角度から探した方がいいのかもしれません』


「別の角度、ですか」


『はい。その真面目さや重さを、負担ではなく安心として受け取る方も、いるのかもしれません』


 相川の言葉は、そこで途切れた。


 別の角度。


 修平は、その曖昧な言葉だけを握りしめ、通話を切った。

 答えはまだ、出ていない。だが、減点回避のゲームを降りた先に、何か別の扉があることだけは、かすかに予感することができた。




【高村修平の独白】


 相川さんの教え通り、俺は「普通の人」としての役割を、どうにか果たしたはずだった。


 非常口の位置は確認しなかった。

 非常用持ち出し袋の中身も、ハザードマップの話も、口にはしなかった。

 相手の言葉が終わるまで待ち、相槌を打ち、笑顔の角度にも気を配った。


 少なくとも、怯えさせるような事故は起こさなかった。

 会話は続いた。

 食事も、滞りなく終わった。


 それなのに、彼女たちの背中を見送った瞬間、俺の肺から漏れたのは、「また会いたい」という高鳴りではなかった。


 無事に終わった。

 その安堵だった。


 炎の熱さなら、肌で分かる。建物の軋む音を聞けば、崩落の兆しも読むことができる。

 だが、この「何か違う」という、霧のように掴みどころのない違和感だけは、どうしても形にならない。

 うまくやれたはずなのだ。なのに、胸の奥だけが静かに遠い。


 ……どうやら俺は、救助技術よりも遥かに難解なものに、挑んでいるらしい。


 相川さんの言った「別の角度」という言葉が、耳の奥に残っている。

 それがどちらを向いているのか、今の俺にはまだ分からない。


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