第七章 失敗の勤務評定
結婚相談所「リリーブライダル銀座」に登録してから二ヶ月。高村修平の婚活は、滑り出しだけを見れば順調だった。
休日のたびに新調した濃紺のスーツに袖を通し、都内のホテルラウンジやカフェへ足を運ぶ。口火を切ることはできるようになった。だが、そこから先の陣地を確保することができない。
成果は、未だ薄かった。
香織、四十二歳。
その日、修平は固く心に決めていた。評価しない。分析しない。相手の話を、ただ受け取る。相川からの助言を、彼は確かに理解していた。理解していたはずだった。
「……それで、今の会社では経理を担当していまして、最近は簿記の一級も取得しました。趣味は、休日に少し手の込んだ料理を作ることでしょうか」
すごいですね。その一言でよい。修平はそう思い、口を開いた。
「素晴らしい。経理という組織の要となる部署で研鑽を積み、さらに上位資格まで取得されるとは。自己管理能力と向上心の高さが伺えます」
「あ……ありがとうございます」
香織の笑みが、少しだけ固まった。修平は、それを照れと判断した。
「休日の料理も、外食に頼らず栄養管理を徹底している証拠です。カオリさんのその計画性と実行力は、家庭という共同体を運営する上で、極めて高い評価に値します。申し分ありません」
「も、申し分……」
香織は紅茶のカップを両手で包み、視線を少しだけ下げた。褒められている女性というより、面接官から突然「採用通知」を読み上げられた就活生の顔だった。
結果は、翌日の昼に届いた。
『お見合いは、勤務評定ではありません。査定されているようで息苦しかったそうです』
修平はスマートフォンの画面を見つめたまま、己の「褒める」という行為の硬度に、しばらく言葉を失った。
江美、三十七歳。
待ち合わせは新宿のホテルラウンジ。約束の時間になっても彼女は現れず、事前連絡のうえで三十分遅れての到着だった。
「ごめんなさーい! ちょっと電車が遅れちゃって」
江美は悪びれる様子もなく、明るく笑いながら席についた。
三十分の遅れを責めてはいけない。修平は、それを分かっていた。電車の遅延は本人の責任ではない。初対面の相手に不満を見せるべきでもない。頭では、そこまで正しく整理できていた。
だが、消防救助の世界で三十分は、煙の濃度も、建物の状態も、人の生死も変えてしまう時間だった。
「エミさん、無事で何よりです。事故に巻き込まれたのではないかと案じておりましたので」
修平は菩薩のように穏やかな笑みを浮かべた。ただし、目だけが災害対策本部のままだった。
「あ、ありがとうございます……」
江美はメニューを開きながら、ちらりと修平の目を見た。そして、すぐにメニューへ視線を戻した。
「えっと、シュウヘイさんは、甘いものとか食べます?」
「必要に応じて摂取します」
「必要……」
「活動前後の糖分補給は有効です」
「な、なるほど」
会話は途切れなかった。だが、江美の笑顔は、少しずつ避難経路を探す人間のそれに近づいていった。
翌日、修平から断りを入れる前に、向こうからお断りの連絡が届いた。
『笑っていらっしゃいましたが、目が全く笑っていなくて、何か怒らせてしまったのかと怖くなりました』
相川からの報告電話の向こうで、微かな溜息が聞こえたような気がした。
その後、希望、千晶、美佳との三件のお見合いが、偶然にも同じ日に重なった。
修平は「体力には自信がある。現場の連続出場に比べれば造作もない」と判断し、朝、昼、夕方と効率よく三件をこなすスケジュールを組んだ。
その認識は甘かった。
一件目、希望。まだ背筋は伸び、相槌も的確だった。
二件目、千晶。相手の言葉を聞き返す回数が目に見えて減り、笑顔を作る筋肉が微かに痙攣し始めた。
三件目、美佳。修平の顔面は疲労で完全に硬直し、ただ黙々とコーヒーを啜る巨大な彫像と化していた。
それでも、姿勢は崩れなかった。相手の言葉を遮ることも、投げやりな返事をすることもない。ただ、微笑むという高度な機能だけが、完全に停止していた。
"体力お化け"と称される修平であっても、瓦礫を撤去する肉体の疲労と、初対面の女性と一時間対峙し続ける精神の気疲れは、全くの別物だった。
当然のように、三件とも「お見送り」の連絡が届いた。
帰宅した修平は、玄関で靴を脱いだまま、しばらく動けなかった。体力が尽きたわけではない。訓練後の疲労なら、むしろ心地よさすらある。だが今日の疲れは、表情筋と相槌と沈黙の間合いばかりを酷使した、奇妙に細い疲労だった。
夏希、四十五歳。
その日のラウンジは、空調の効きが異常に強かった。夏希の席には冷風が直接吹き下ろしており、彼女は時折、寒そうに肩をすくめている。
修平は、それに気づいた。気づいたからには、行動しなければならない。救助隊員の条件反射だった。
「ナツキさん。その席は冷気が直接当たります。私と席を替わりましょう」
「えっ、でも……シュウヘイさんが寒くなってしまいますし」
「問題ありません。私は寒さには慣れています」
修平は半ば強引に席を替わった。自分が防波堤となり、冷風をその広い背中で受け止める。
しかし、それでも夏希の二の腕には微かに鳥肌が残っていた。
修平は立ち上がり、躊躇うことなくスーツのジャケットを脱いだ。
「これを。冷えは万病の元です」
「えっ、そんな! シュウヘイさんがシャツ一枚になってしまいます!」
「構いません。この程度の冷気はそよ風のようなものです」
店員に空調の調整を頼む。席を替えてもらう。ブランケットを借りる。少し考えれば選択肢はいくらでもあった。だが修平の思考回路は、まず「自分が盾になる」方へ動く。夏希は感謝しているようでもあり、少し困っているようでもあった。
さらに不運なことに、修平の肉体は、彼が思っているほど寒さに強くはなかった。
「……へっくしょん!」
重厚な会話の途中で、修平は豪快なくしゃみを放った。
「シュウヘイさん、やっぱり寒かったんじゃ……」
「い、いえ。これは、その……鼻腔の粘膜が、一時的な乾燥に反応しただけで……」
鼻をすすりながらの、ひどく間の抜けた言い訳。その崩れた姿は、頼れる隊長というよりも、強がって失敗した少年のようだった。
翌朝。修平は、相川からの連絡を見て自分の目を疑った。
『ナツキ様から、仮交際希望のご連絡が届きました』
仮交際成立。初めての突破口だった。
修平はスマートフォンの画面を何度も見直した。文面は変わらない。変わらないが、信じきれない。
相川からのメッセージが続く。
『おめでとうございます。確実に前進していますね。ナツキ様は、高村さんの気遣いや優しさに、人間味を感じてくださったようです』
人間味。修平はその言葉を反芻した。完璧な男を演じようとして失敗した結果が、評価された。その事実が、彼にはまだうまく消化できなかった。
進んだことは、間違いない。しかし、それが「合う」ということなのかどうか、修平にはまだ分からなかった。
相川からのメッセージの続きにはこうあった。
『仮交際は、お一人に絞る前の期間です。複数の方と並行してお会いしながら、相性を見ていく段階ですね。ですので、引き続きお見合いの希望も出していきましょう。また折を見てご紹介もさせてください』
修平は小さく息を吐き出し、またスーツを整えた。
【高村修平の独白】
仮交際成立。
その通知を見た瞬間、俺は一度、スマートフォンを伏せた。
嬉しい。
それは間違いない。
だが同時に、何をどう喜べばいいのか分からなかった。
現場で要救助者を発見した時なら、次にやるべきことは明確だ。
呼吸確認、固定、搬出、引き継ぎ。
しかし仮交際には、搬出手順がない。
「おめでとうございます」と言われた後、俺はどこへ向かえばいいのか。
相川さんからは、引き続き複数の方と会いながら相性を見る段階だと説明を受けた。
つまり、これはゴールではない。
かといって、単なる通過点とも言い切れない。
選ばれた、ということは分かった。
合っている、ということが、まだ分からない。
その違いが何なのか、俺にはまだ言葉にできない。
グラスの残りを飲み干して、それだけが今夜の結論だった。




