第十章 ダージリンの距離
数日前の深夜、多重衝突事故の現場で嗅いだ気化燃料の鋭い匂いが、まだ爪の間に残っている気がした。
都内のホテルラウンジを満たしているのは、鉄でも油でもない。ダージリンの淡く甘い香りだった。
今日のお相手は、小林知美。四十二歳。一般企業の事務職に就いている女性だ。
約束の時刻の数分前、写真と違わぬ落ち着いた雰囲気の女性が現れた。ネイビーのワンピースに、控えめなパールのネックレス。華美ではないが、きちんと選ばれた装いだった。
「シュウヘイさんでしょうか。初めまして、トモミと申します」
修平は即座に立ち上がり、深く、しかし威圧感を与えないよう細心の注意を払って一礼した。
「初めまして。シュウヘイです。本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございます。どうぞ」
着席し、注文を終えた後、知美は修平のまっすぐな背筋を少し不思議そうに見つめた。
「シュウヘイさん、すごく姿勢がいいですね」
修平の肩が、わずかに強張る。また「業者味」を出してしまっただろうか。
「申し訳ありません。威圧感がありましたか」
「いえ、そんなことはないです。ただ、なんだか面接官みたいだなと思っただけで」
知美は、ふんわりと柔らかい笑みを浮かべた。嘲笑でも怯えでもない。目の前の人間の硬さを、ただ不思議がるような穏やかな目だった。
「……それは、早急な改善対象ですね」
修平が大真面目に答えると、知美は小さく声を立てて笑った。その笑い声を聞いて、修平の張り詰めていた背中の筋が、ほんの少しだけ緩む。
相川の教えに従い、修平は重い話題を避けて、まずはプロフィールにある趣味の話題から入ることにした。
「トモミさんは、休日はカフェ巡りやピアノ、英会話をされているとか。多彩ですね」
「多彩というほどのものではないんです」
知美は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「カフェ巡りといっても、おしゃれなインテリアを見に行くとか、そういうのではなくて。一人で静かに自分を整える時間が好きなだけで。英会話も、いつか海外旅行に行ったときに、少し道を聞けるくらいになれたらいいな、という程度のものです」
以前お見合いをした女性のような、将来は海外移住といった軽やかな飛躍はない。
「なるほど。非常に堅実な目標ですね」
修平が深く頷いて返すと、知美はまた少しだけ目元を細めた。
「シュウヘイさんがおっしゃると、なんだか訓練計画みたいですね」
「あ……失礼しました。つい、職業柄の表現が」
「いえ、謝らないでください。そういうふうに真面目に聞いていただけると、少し安心しました」
その言葉には、上滑りしない生活の温度があった。修平は、これまでのどの見合いの席よりも、自分が自然に呼吸できていることに気づいていた。
和やかな会話がひと区切りついた頃、知美が修平の目にまっすぐ視線を向けた。
「プロフィールを拝見して、少し驚きました。シュウヘイさん、救助のお仕事なんですよね」
修平の胸の奥で、無意識の防衛線が張られる。
危険な仕事だ。いつ命を落とすか分からない。その事実を突きつければ、多くの女性は顔を曇らせる。あるいは「大変ですね」という安全圏からの同情だけを残して、静かに遠ざかっていく。
「はい。消防救助機動部隊、いわゆるハイパーレスキューに所属しています」
「危ないお仕事ですよね。聞いても大丈夫ですか?」
修平は、言葉を選ぶように視線を少しだけ伏せた。
「……大丈夫です。ただ、あまり楽しい話にはならないかもしれません」
「楽しいかどうかより、ちゃんと知りたいです」
知美の声音には、野次馬的な好奇心はなかった。目の前の人間が背負っているものを、理解しようとする静かな誠実さがあった。
修平は、危険がないとは言えないこと、しかしそれを放置しないために日々の訓練があることを、淡々と語った。
「怖いと思う前に、足場、燃料の漏れ、隊員の位置、要救助者の呼吸を一つ一つ確認していくんです。そうしているうちに、怖いという感情は自然と後ろへ下がっていきます」
知美は修平の言葉を最後まで遮らずに聞き、深く息を吐いた。
「昔、私の働いていたビルで、小さなボヤがありました」
カップの縁を指先でなぞりながら、知美は言った。
「たいした火事ではなかったんですが、煙の匂いがしただけで、フロアにいる全員がすくみ上がって、動けなくなってしまいました。でも、消防の方が駆けつけてくれた瞬間、その場の空気が一変したんです。『もう大丈夫なんだ』って、心底思えました」
知美は顔を上げ、修平をまっすぐに見た。
「シュウヘイさんは、そうやって、誰かの安心を作る方なんですね」
数日前の深夜。潰れた車列の中で聞いた呻き声と、最期に絞り出された「ありがとう」という言葉の重さが、修平の背中にはまだ色濃く張りついていた。
それを、誰にも言えずにいた。
知美の言葉が、その強張った背中をそっと撫でたように感じた。
修平は、白くなるほど固く握っていたカップの取手から、ふっと力を抜いた。
「……恐縮です」
自分の声が、自分でも驚くほど穏やかに響いた。
「ですが」と、修平は言葉を継いだ。
「我々ができるのは、そこまでです。助け出した後も、その人の人生は続きます。その先まで、我々の手で支え続けることはできません」
それは、修平が常に抱えている、救助という行為の限界に対する静かな無力感だった。
知美は、少しだけ考えるように伏し目がちになった。それから、言った。
「……そうですよね。でも、助けてもらえたから、その人は家に帰れるんですよね」
修平は、瞬きを一つした。
「……そう言っていただけると、少し救われます」
それ以上、孤独や恐怖の核心を語ることはしなかった。知美も、無理に踏み込もうとはしなかった。ただ、言葉の上に、理解の橋が一本架かったように感じた。
話題を切り替えるように、修平は休日の過ごし方について尋ねた。
「ピアノは、どのような曲を弾かれるのですか」
「クラシックを少しだけです。母が昔から好きで、実家に古いピアノがあるんです。帰ったときに、母と並んで弾くこともあります」
「お母様と」
「はい。母の方がずっと上手なんですけどね」
知美は少しはにかんだように笑い、それから付け加えた。
「あ、ピアノは好きなのですが、人前で弾くのは苦手です。発表会なんてとても無理で……すぐ緊張して、手が震えてしまうんです」
修平は小さく頷いた。
「分かります。私も、現場以外ではよく失敗しますので」
知美は少し目を丸くした。
「シュウヘイさんがですか? なんだか、何でも完璧にこなされそうなのに」
「はい、かなり」
修平が真顔で答えると、知美は一拍置いて、それから小さく笑った。
「……少し安心しました」
ふと時計を見ると、予定の一時間が過ぎようとしていた。
「申し訳ありません。私の仕事の話など、堅苦しいことばかりになってしまいましたね」
修平が詫びると、知美は首を横に振った。
「……大変なお仕事なんですね。でも、聞かせていただけてよかったです」
「重くはありませんでしたか」
「急に言われたら驚いたと思いますけど……でも、話してくださってよかったです」
その言葉は、修平の胸の奥に静かに沁みた。
この人となら、進めるかもしれない。
無理に完璧な男を演じなくても、ありのままの不器用さと、背負っている重さを、そのまま置いておくことができるかもしれない。
その日の夕方。
修平のスマートフォンに、相川から連絡が入った。
『トモミ様から、仮交際希望のご連絡が届きました。お見合い、成立です』
修平は、画面を見つめたまま、長く、静かに息を吐いた。
大げさな歓喜はない。だが胸の奥の深いところに、これまでの見合いの直後には決して得られなかった、確かな温かさが灯っている。
爪の間に残っていたはずの油の匂いは、いつの間にか、すっかり消えていた。
【高村修平の独白】
現場でロープを握る時、いちばん怖いのは、結び目そのものではない。
反対側で、それを支えている人間を信じられなくなることだ。
今日、彼女は俺の仕事の話を、途中で怖がることも、飾ることもなく聞いてくれた。
ただ、頷いてくれた。
必要なところで、短く言葉を置いてくれた。
それだけで、胸の奥のどこかが少し緩んだ。
……次の休日が、待ち遠しい。
だが、その感覚の取り扱い方法は、まだ相川さんから教わっていないな。




