表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/19

第十章 ダージリンの距離

 数日前の深夜、多重衝突事故の現場で嗅いだ気化燃料の鋭い匂いが、まだ爪の間に残っている気がした。


 都内のホテルラウンジを満たしているのは、鉄でも油でもない。ダージリンの淡く甘い香りだった。

 今日のお相手は、小林こばやし知美ともみ。四十二歳。一般企業の事務職に就いている女性だ。


 約束の時刻の数分前、写真と違わぬ落ち着いた雰囲気の女性が現れた。ネイビーのワンピースに、控えめなパールのネックレス。華美ではないが、きちんと選ばれた装いだった。


「シュウヘイさんでしょうか。初めまして、トモミと申します」


 修平は即座に立ち上がり、深く、しかし威圧感を与えないよう細心の注意を払って一礼した。


「初めまして。シュウヘイです。本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございます。どうぞ」


 着席し、注文を終えた後、知美は修平のまっすぐな背筋を少し不思議そうに見つめた。


「シュウヘイさん、すごく姿勢がいいですね」


 修平の肩が、わずかに強張る。また「業者味」を出してしまっただろうか。


「申し訳ありません。威圧感がありましたか」

「いえ、そんなことはないです。ただ、なんだか面接官みたいだなと思っただけで」


 知美は、ふんわりと柔らかい笑みを浮かべた。嘲笑でも怯えでもない。目の前の人間の硬さを、ただ不思議がるような穏やかな目だった。


「……それは、早急な改善対象ですね」


 修平が大真面目に答えると、知美は小さく声を立てて笑った。その笑い声を聞いて、修平の張り詰めていた背中の筋が、ほんの少しだけ緩む。


 相川の教えに従い、修平は重い話題を避けて、まずはプロフィールにある趣味の話題から入ることにした。


「トモミさんは、休日はカフェ巡りやピアノ、英会話をされているとか。多彩ですね」

「多彩というほどのものではないんです」


 知美は少し恥ずかしそうに微笑んだ。


「カフェ巡りといっても、おしゃれなインテリアを見に行くとか、そういうのではなくて。一人で静かに自分を整える時間が好きなだけで。英会話も、いつか海外旅行に行ったときに、少し道を聞けるくらいになれたらいいな、という程度のものです」


 以前お見合いをした女性のような、将来は海外移住といった軽やかな飛躍はない。


「なるほど。非常に堅実な目標ですね」


 修平が深く頷いて返すと、知美はまた少しだけ目元を細めた。


「シュウヘイさんがおっしゃると、なんだか訓練計画みたいですね」

「あ……失礼しました。つい、職業柄の表現が」

「いえ、謝らないでください。そういうふうに真面目に聞いていただけると、少し安心しました」


 その言葉には、上滑りしない生活の温度があった。修平は、これまでのどの見合いの席よりも、自分が自然に呼吸できていることに気づいていた。



 和やかな会話がひと区切りついた頃、知美が修平の目にまっすぐ視線を向けた。


「プロフィールを拝見して、少し驚きました。シュウヘイさん、救助のお仕事なんですよね」


 修平の胸の奥で、無意識の防衛線が張られる。

 危険な仕事だ。いつ命を落とすか分からない。その事実を突きつければ、多くの女性は顔を曇らせる。あるいは「大変ですね」という安全圏からの同情だけを残して、静かに遠ざかっていく。


「はい。消防救助機動部隊、いわゆるハイパーレスキューに所属しています」


「危ないお仕事ですよね。聞いても大丈夫ですか?」


 修平は、言葉を選ぶように視線を少しだけ伏せた。


「……大丈夫です。ただ、あまり楽しい話にはならないかもしれません」


「楽しいかどうかより、ちゃんと知りたいです」


 知美の声音には、野次馬的な好奇心はなかった。目の前の人間が背負っているものを、理解しようとする静かな誠実さがあった。

 修平は、危険がないとは言えないこと、しかしそれを放置しないために日々の訓練があることを、淡々と語った。


「怖いと思う前に、足場、燃料の漏れ、隊員の位置、要救助者の呼吸を一つ一つ確認していくんです。そうしているうちに、怖いという感情は自然と後ろへ下がっていきます」


 知美は修平の言葉を最後まで遮らずに聞き、深く息を吐いた。


「昔、私の働いていたビルで、小さなボヤがありました」


 カップの縁を指先でなぞりながら、知美は言った。


「たいした火事ではなかったんですが、煙の匂いがしただけで、フロアにいる全員がすくみ上がって、動けなくなってしまいました。でも、消防の方が駆けつけてくれた瞬間、その場の空気が一変したんです。『もう大丈夫なんだ』って、心底思えました」


 知美は顔を上げ、修平をまっすぐに見た。


「シュウヘイさんは、そうやって、誰かの安心を作る方なんですね」


 数日前の深夜。潰れた車列の中で聞いた呻き声と、最期に絞り出された「ありがとう」という言葉の重さが、修平の背中にはまだ色濃く張りついていた。

 それを、誰にも言えずにいた。

 知美の言葉が、その強張った背中をそっと撫でたように感じた。

 修平は、白くなるほど固く握っていたカップの取手から、ふっと力を抜いた。


「……恐縮です」


 自分の声が、自分でも驚くほど穏やかに響いた。


「ですが」と、修平は言葉を継いだ。


「我々ができるのは、そこまでです。助け出した後も、その人の人生は続きます。その先まで、我々の手で支え続けることはできません」


 それは、修平が常に抱えている、救助という行為の限界に対する静かな無力感だった。

 知美は、少しだけ考えるように伏し目がちになった。それから、言った。


「……そうですよね。でも、助けてもらえたから、その人は家に帰れるんですよね」


 修平は、瞬きを一つした。


「……そう言っていただけると、少し救われます」


 それ以上、孤独や恐怖の核心を語ることはしなかった。知美も、無理に踏み込もうとはしなかった。ただ、言葉の上に、理解の橋が一本架かったように感じた。



 話題を切り替えるように、修平は休日の過ごし方について尋ねた。


「ピアノは、どのような曲を弾かれるのですか」

「クラシックを少しだけです。母が昔から好きで、実家に古いピアノがあるんです。帰ったときに、母と並んで弾くこともあります」

「お母様と」

「はい。母の方がずっと上手なんですけどね」


 知美は少しはにかんだように笑い、それから付け加えた。


「あ、ピアノは好きなのですが、人前で弾くのは苦手です。発表会なんてとても無理で……すぐ緊張して、手が震えてしまうんです」


 修平は小さく頷いた。


「分かります。私も、現場以外ではよく失敗しますので」


 知美は少し目を丸くした。


「シュウヘイさんがですか? なんだか、何でも完璧にこなされそうなのに」

「はい、かなり」


 修平が真顔で答えると、知美は一拍置いて、それから小さく笑った。


「……少し安心しました」



 ふと時計を見ると、予定の一時間が過ぎようとしていた。


「申し訳ありません。私の仕事の話など、堅苦しいことばかりになってしまいましたね」


 修平が詫びると、知美は首を横に振った。


「……大変なお仕事なんですね。でも、聞かせていただけてよかったです」


「重くはありませんでしたか」


「急に言われたら驚いたと思いますけど……でも、話してくださってよかったです」


 その言葉は、修平の胸の奥に静かに沁みた。

 この人となら、進めるかもしれない。

 無理に完璧な男を演じなくても、ありのままの不器用さと、背負っている重さを、そのまま置いておくことができるかもしれない。



 その日の夕方。

 修平のスマートフォンに、相川から連絡が入った。


『トモミ様から、仮交際希望のご連絡が届きました。お見合い、成立です』


 修平は、画面を見つめたまま、長く、静かに息を吐いた。

 大げさな歓喜はない。だが胸の奥の深いところに、これまでの見合いの直後には決して得られなかった、確かな温かさが灯っている。


 爪の間に残っていたはずの油の匂いは、いつの間にか、すっかり消えていた。




【高村修平の独白】


 現場でロープを握る時、いちばん怖いのは、結び目そのものではない。

 反対側で、それを支えている人間を信じられなくなることだ。


 今日、彼女は俺の仕事の話を、途中で怖がることも、飾ることもなく聞いてくれた。

 ただ、頷いてくれた。

 必要なところで、短く言葉を置いてくれた。


 それだけで、胸の奥のどこかが少し緩んだ。


 ……次の休日が、待ち遠しい。


 だが、その感覚の取り扱い方法は、まだ相川さんから教わっていないな。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ