第十一章 青い水槽の向こう
小林知美との仮交際は、修平にとってこれまでにない穏やかな時間だった。
互いの休日を合わせ、数度の食事や短い散策を重ねるうちに、修平は確かな手応えを感じ始めていた。知美は修平の硬さを怖がらず、面白がりすぎず、ただ自然なものとして受け止めてくれる人だった。
この日のデートは、品川の水族館だった。
薄暗い館内に、水槽から漏れる青い光が満ちている。ゆったりと泳ぐ魚たちの影が床に落ち、休日の家族連れやカップルの足元をゆっくりと横切っていく。二人は歩調を合わせ、急ぐでもなく立ち止まるでもなく、水槽の列に沿って進んでいた。
「高村さん、この魚、ずいぶん口が大きいですね」
巨大な水槽の前で、知美がアクリルガラスに顔を近づけた。
「そうですね。この種の魚は、危険時に口腔内に……」
修平は言いかけて、口をつぐんだ。
「……いえ。かわいらしい顔をしていますね」
知美は水槽から修平へ視線を移し、少しだけ目を細めた。
「今、何か専門的なことを説明しようとしました?」
「はい。カウンセラーさんから、専門知識による制圧は禁止されていますので」
「……制圧」
知美が小さく吹き出した。
「言葉の選定を誤りました」
修平が大真面目に訂正すると、知美はさらに声を立てて笑った。
「ふふ、高村さんは本当に真面目ですね。でも、私はそういうところ、嫌いじゃないですよ」
その言葉に、修平の肩からふっと力が抜けた。水槽の青い光が、知美の笑い皺をやわらかく照らしていた。
トンネル水槽を抜けた先で、一組の家族連れとすれ違った。
小さな子どもがペンギンの前ではしゃぎ、両親がそれを微笑ましそうに見守っている。どこにでもある、ありふれた休日の風景だった。
「あんな風に、家族で色々な場所へ行って、思い出を作っていけたらいいですね」
知美が、家族連れの後ろ姿を見送りながら穏やかに言った。
家族。思い出。
修平は水槽の前で足を止めた。青い光の中を、笑いながら歩いていく家族の背中が遠ざかっていく。
今なら、話さずに済ませることもできた。
だが、それは違うと思った。
「……小林さん」
「はい」
「私の仕事は、非番の日であっても、災害や事故が発生すれば即座に招集されます」
修平の声は、館内の冷房の空気より少しだけ低かった。
「旅行先であっても、食事の途中であっても、私だけが現場へ向かわなければならないことがあります。家族の行事よりも、見知らぬ誰かの命を優先しなければならない瞬間が、確実に訪れます」
知美は、黙って修平の顔を見つめていた。
「あなたに、寂しい思いをさせるかもしれない。家族の思い出を作る時間を、私が奪ってしまうかもしれない。その可能性を、事前にお伝えしておかなければならないと思いました」
水槽の青い光が、二人の間に静かな余白を作る。
知美はすぐには答えなかった。少しだけ視線を落とし、それから、ゆっくりと顔を上げた。
「大変なお仕事ですものね。私に何ができるのか、まだ分からないところもあります。でも……支えられるように、努力はしたいです」
修平は、肺の底に溜まっていた重い息を吐いた。
「……ありがとうございます」
歩き出す知美の横顔を、以前よりも少しだけ長く見つめてから、修平はその後に続いた。
水族館を出た後、二人は知美が以前来たことがあるという落ち着いた雰囲気のカフェに入った。窓際の席に通され、テーブルの上に午後の光が四角く落ちている。
「ここのブレンドは、苦すぎなくて飲みやすいですよ。高村さんは普段、濃いコーヒーを飲まれている印象ですけど、たまにはこういうのも合うかなと思って」
知美がメニューを開きながら言った。
自分の好みを推測し、気遣ってくれている。修平はその言葉を嬉しく感じたが、表情にはほとんど出なかった。
「ありがとうございます。では、それを」
コーヒーが運ばれてくると、会話は自然と、これからの住まいの話へ移っていった。
「結婚後の住まいについてですが、小林さんのご希望は何かありますか」
「そうですね……できれば、実家からあまり遠すぎない場所だと嬉しいです」
「ご実家、ですか」
「はい。母が一人なので、近ければ顔も出しやすいですし……高村さんがお仕事で急に出られる時も、誰か近くにいると思うと安心できるので」
知美はそこで、少し照れたように笑った。
「それに、母もたぶん、近い方が安心すると思います。こういう大きな話は、いつも母に相談してきたので」
修平は、その言葉をそのまま受け取った。
「高村さんはいかがですか」
「私は、署に駆けつけやすい場所であればありがたいです。ただ、ここはよく相談して決めましょう」
「はい。ありがとうございます」
知美がほっとしたように笑う。修平も静かに頷いた。
コーヒーの湯気が、二人の間で細く揺れていた。
カフェを出る頃には、夕日が街をオレンジ色に染め始めていた。
駅へ向かう道すがら、修平は意を決して足を止めた。
「小林さん」
「はい?」
知美が振り返る。修平は姿勢を正し、彼女の目をまっすぐに見た。
「今日まで何度かお会いして、私は、あなたとなら今後の暮らしの話をしてみたいと思いました」
声が少しだけ硬くなる。それでも、修平は逃げずに言葉を続けた。
「まだ至らない点も多いと思います。勤務も不規則で、ご心配をおかけすることもあるでしょう。ですが、結婚を前提に、私と真剣交際へ進んでいただけないでしょうか」
知美の動きが、一瞬だけ止まった。
夕風が、彼女の髪をわずかに揺らす。
やがて、知美の顔に、今日一番の柔らかい笑みが広がった。
「……はい。私も、高村さんとなら、ちゃんと考えていける気がしていました。よろしくお願いします」
修平は、「ありがとうございます」と深く頭を下げた。胸の奥で、何かが確かに結実したような、温かい重みがあった。
「とても嬉しいです。母にも、ちゃんと報告しますね。きっと驚くと思います」
「お母様にも」
「はい。母にも、きちんと報告しておきたいので」
知美は、ごく自然にそう言った。
修平は少しだけ間を置き、それから静かに頷いた。
「ええ。よろしくお伝えください」
その日の夜、修平は自室に戻り、相川へチャットで報告を入れた。
『真剣交際の申し込みを行いました。先方より、承諾の回答をいただいております』
数分後、返信が届いた。
『真剣交際、お相手の相談所からも前向きなご連絡をいただいております。おめでとうございます!』
修平は、その一文を何度も読み返した。
『真剣交際に進まれた場合、他の仮交際は終了し、お相手を一人に絞って結婚に向けて話を進める段階になります』
『ここからは、条件だけではなく、生活やご家族のことも具体的に確認していきましょう』
スマートフォンの冷たい画面越しに、「真剣交際」という四文字が、確かな輪郭を持って修平の胸に根を張り始めていた。
彼は画面を伏せ、誰もいない部屋で、深く長い息を吐いた。
【高村修平の独白】
真剣交際。
その四文字は、思っていたよりも重く、思っていたよりも温かかった。
彼女は、俺の仕事の現実を聞いても、席を立たなかった。
不安を消したわけではない。
ただ、その場に残ってくれた。
それだけで、胸の奥にあった装備の留め具が一つ外れたような気がした。
彼女は、よく母親の話をする。
家族を大切にする人なのだろう。
ならば、いずれ俺も、そのお母様に挨拶をすることになるのかもしれない。
手土産は何が適切だろうか。
菓子折りか。果物か。
いや、初回から重すぎるものは警戒される可能性がある。
賞味期限、持ち運びやすさ、切り分けの手間。
考慮すべき項目が多い。
……待て。まだ真剣交際に入ったばかりだ。
だが、今日くらいは少しだけ、浮かれても許されるのではないかと思っている。




