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第十二章 正しさの届かない場所

 小林知美との真剣交際は、順調な軌道を描いているように見えた。

 互いの休日を合わせ、新居の候補になりそうな沿線を歩き、家具店やインテリアショップを巡る。週末のショールームは若い夫婦や同棲前のカップルで混み合っていて、修平は自分がその中に立っていることを、まだ少し不思議に感じていた。

 キッチンコーナーで、知美が食器棚の上段を見上げた。


「この高さだと、私では少し届きにくいかもしれません」


 修平の脳内で、瞬時に「重心が高い家具の転倒リスク」と「壁面固定の必要性」についての説明が組み上がりかけた。

 だが、彼はそれを喉元で飲み込んだ。


「……そうですね。頻繁に使うものは、下に配置した方がよいと思います」


 知美は少しだけ目を丸くし、それからくすりと笑った。


「今、すごく修平さんらしいことを言いそうになって、やめましたよね?」

「……改善プログラムが、正常に機能した証拠です」


 知美は小さく笑った。声を立てるというより、息が漏れるような、力の抜けた笑い方だった。修平にはそれが、ひどく自然なものに見えた。

 修平も、ほんの少しだけ口元を緩めた。現場では滅多に見せない、力の抜けた笑いだった。

 暮らしの話をしている。食器棚の高さを相談している。その事実を、修平は静かに受け止めていた。




 その確信が断ち切られたのは、次のデートの約束当日、修平が待ち合わせ場所へ向かう直前のことだった。

 制服のポケットで、業務用端末が鋭く鳴動した。管轄外からの応援要請。山間部における法面のりめん崩落事故ほうらくじこ

 修平の顔から休日の色が消えた。呼吸が一段深くなり、視線の焦点が切り替わる。現場指揮官の顔だった。

 彼は即座に知美へメッセージを送った。


『申し訳ありません。事故の応援要請が入りました。今日の約束はキャンセルさせてください。後日、必ず埋め合わせをします』


 感情のブレを一切排除した、簡潔で業務的な連絡だった。現場へ向かう直前、修平はすべての私情を畳む。それは彼なりの誠実さであり、隊長としての絶対のルールだった。

 しかし知美から見れば、それは開いていた扉が音を立てて閉ざされたような響きを持っていたのかもしれない。




 その夜、知美は実家の居間で、母親と並んでテレビのニュースを見ていた。

 画面には、雨を吸って赤茶色に濁った斜面が映っていた。崩れた法面から押し出された土砂が道路を塞ぎ、作業灯の白い光が泥の表面を照らしている。雨合羽を着た隊員たちが、崩落した斜面の際で何かを確認しながら動いていた。現場中継のリポーターの声が、雨音に混じって途切れがちに聞こえる。


『……現場では二次被害の危険が続く中、現在も懸命の救助活動が行われています。なお、この作業中、消防隊員一名が負傷し、病院へ搬送されました』


 アナウンサーの無機質な声と、短い字幕。

 そこに修平の姿は映っていない。名前も出ない。だからこそ、誰が無事で誰が無事でないのか、知美には分からなかった。

 母親は何も言わなかった。ただ、膝の上で組んだ手に、白く力が入っていた。

 知美はテレビの画面を見つめたまま、自分の指先がひどく冷たくなっていくのを感じていた。




 数日後。

 修平と知美は、駅前の静かなカフェで向かい合っていた。

 午後の陽が窓から差し込み、テーブルの木目を白く照らしている。店内には低い音量でピアノ曲が流れていたが、二人の間にある沈黙のほうがずっと重かった。

 知美の様子は、明らかに暗かった。視線は伏せがちで、運ばれてきた紅茶にも口をつけようとしない。カップの取っ手に指を添えたまま、湯気だけが細く立ち上っている。

 修平は、先日のドタキャンが原因だと思い、深く頭を下げた。


「先日は、本当に申し訳ありませんでした。せっかく予定を空けていただいていたのに」


 知美は、ゆっくりと首を横に振った。


「……違うんです。キャンセルのことではなくて」

「では」

「この前のニュースを、母と一緒に見ていたんです。法面が崩れたという……」


 知美の声は、細く震えていた。


「消防の方が怪我をされたと聞いて、母がひどく怯えてしまって。修平さんではないと分かってからも、ずっと泣いて……」


 修平は、黙って彼女の言葉を聞いていた。

 現場での負傷。それは常に隣り合わせの現実であり、修平自身も何度も部下を病院へ送り届けている。だが、それが彼女たちの日常にどれほどの波紋を広げるか、修平はまだ正確には計りかねていた。テレビの前で母娘が見ていたものの重さを、修平は現場の側からしか知らない。


「最初は、母を説得しようと思ったんです。修平さんは立派な仕事をしているのだからって」


 知美は、カップの縁を指先でなぞりながら、途切れ途切れに言葉を紡いだ。


「でも、母が泣きながら言ったんです。『あんたまで不幸になったら、私はどうしたらいいの』って。……私、何も言えなくなりました」


「お母様の不安は、当然のことです」


 修平の声は静かだった。否定も弁解もしない。ただ、その一言が、知美の表情をほんのわずかに曇らせた。


「……修平さんのことを考える前に、母を安心させなきゃって、思ってしまったんです。……ごめんなさい」


 知美は目元を押さえた。指先が小さく震えている。


「でも、母だけじゃないんです。……私も、怖くなりました」


 彼女は、必死に自分の心の内を絞り出していた。


「修平さんのことは尊敬しています。お仕事が立派なことも、痛いほど分かっています。でも……母の泣く顔を見たら、私まで怖くなってしまって。もし、修平さんが帰ってこなくなったら、私、一人では生きていけないって……」


 知美は涙をこらえながら、修平を真っ直ぐに見つめた。


「……こんなことを言う私でも、修平さんは……一緒にいたいと思ってくれますか」


 それが、彼女の最後の問いだった。

 修平は、すぐには答えられなかった。


 一緒にいたい。


 その言葉は、確かに喉元まで来ていた。

 だが、知美の震えた肩を見た瞬間、修平の中で別の判断が立ち上がった。退路を塞いではならない。その考えだけが、反射のように先に動いた。


「……小林さん」


「はい」


「もし今、あなたが少しでも苦しいと思っているなら、無理に進む必要はありません」


 知美の表情が、わずかに止まった。


「それは……」


「俺の仕事は、常に最悪の事態と隣り合わせです。あなたにも、お母様にも、その不安を消すことはできないと思います」


「……止めては、くれないんですね」


 修平は、息を呑んだ。

 その問いに込められたものを、彼はすぐには測れなかった。


「あなたに、そこまでの心労を強いる権利は、俺にはありません」


 知美の表情から、悲しみの色が引いた。代わりに浮かんだのは、少しの諦めと、深い失望だった。彼女は泣きそうな顔で、無理に笑みを作った。


「……そうですよね」


 知美は小さく息を吐いた。


「修平さんは、いつも正しいんです」


「知美さん」


「でも、私はたぶん、正しさだけでは進めませんでした」


 知美は、バッグの持ち手を強く握りしめた。革の持ち手が、指の下でわずかに軋む。


「母のせいにしているのも、分かっています。私が弱いんです。私が怖いと言ったら、修平さんはすぐに、逃げ道を用意してくれました」


 彼女の声は震えていた。けれど、言葉の輪郭だけは確かだった。


「でも私は、たぶん……一度くらい、無理にでも引き止めてほしかったんです」


 知美は立ち上がった。


「ごめんなさい。今日は、帰ります」


 修平は、言い返す言葉を持たなかった。

 立ち去る彼女の背中に向かって、ただ深く頭を下げた。カフェの扉が閉まる音が、静かな店内に小さく響く。

 それでも修平は、しばらく顔を上げることができなかった。




 その日の夜。

 相談所のシステムを通じて、修平のスマートフォンに通知が届いた。


『小林知美様より、交際終了のご連絡がありました』


 修平は、薄暗いリビングのソファに座ったまま、その画面を見つめていた。部屋の照明はつけていない。スマートフォンの白い光だけが、彼の顔を下から照らしている。

 大きな背中が、ほんのわずかに丸くなる。

 悔しい、と思った。だが、何に対して悔しいのか、すぐには分からなかった。

 修平は、奥歯を一度だけ噛みしめた。


 数分後、相川から電話がかかってきた。


「……高村です」

『交際終了のご連絡、確認しました』


 相川の声は、いつも通りの冷静な響きだった。ただ、どこか普段より低い温度を帯びている。


「……申し訳ありません。私は、何かを間違えたのだと思います」


 修平の声は、ひどく掠れていた。


『謝る必要はありません』

「ですが、私は」

『高村さん。今は、答えを出さなくて大丈夫です』


 相川は、修平の言葉を静かに遮った。


「……分析は、しないのですか」

『はい。今は耐える時ではなく、落ち込む時です』


「落ち込む、時……」


『そうです。ここまで進んで傷つかない人はいません。ちゃんと落ち込んでください。話は、そのあとでしましょう。オフィスで、お待ちしています』


 相川は、無理な励ましも、厳しい分析も行わなかった。ただ、修平の敗北を受け止める余白だけを残して、静かに通話を切った。

 電話が切れた後も、修平はしばらくの間、スマートフォンを耳に当てたまま動けなかった。

 部屋の中には、冷蔵庫の低い駆動音だけが響いている。


 修平はゆっくりとスマートフォンをテーブルに置き、両手で顔を覆った。深い息が、指の隙間から漏れる。


 暗い部屋の中で、修平の沈黙だけが、いつまでも漂い続けていた。




【高村修平の独白】


 退く者を、俺は責められない。

 危険を前にして足が止まるのは、生き延びるための正しい反応だ。


 だから俺は、退路を塞がなかった。

 それが誠実だと思った。


 けれど、彼女はひどく遠い顔をした。

 引き止めることと、危険へ戻すことの違いが、俺には分からなかった。


 ……俺は、まだ次へ進めるのだろうか。


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