第十三章 怖いと分かったから
小林知美からの交際終了の通知を受け取って、一週間が経っていた。
高村修平は、まだ落ち込んでいた。
現場では完璧な退避路を確保したつもりだった。だが、彼女の心を守ることはできなかった。何を言えばよかったのか。その問いだけが、同じ場所をぐるぐると回り続ける。答えは出ない。
それでも、完全に折れたわけではなかった。
暗闇の中で、微かに、しかし確かに、「まだ諦めたくない」という感情が燻っている。消えかけの火種を、修平は消す気にもなれず、吹き返す気力もないまま、ただ抱えていた。
その小さな火種を胸の底に残したまま、修平は銀座にある「リリーブライダル」のオフィスを訪れた。
「来てくださってありがとうございます」
相川沙織は、いつもと変わらぬ落ち着いた声で修平を迎えた。
修平は深く一礼し、ソファに腰を下ろした。背筋はいつも通り伸びている。ただ、声がいつもより低く、沈んでいることは自分でも分かっていた。
「……ご心配をおかけしました」
「いいえ。落ち込むのは当然のことです」
慰めも同情も、相川の声には混じっていなかった。水の入ったグラスを修平の前に置いてから、静かに本題へ入る。
「小林さんからフィードバックも受けていますので、軽くお話しましょう」
「……はい」
「小林さんからは、高村さんは誠実で立派な方だった、という言葉がありました」
修平は、その言葉を重く受け止めた。誠実で立派。それは褒め言葉のはずだった。だが今は、その二語がそのまま敗因を指しているように聞こえる。
「ですが同時に、『最後のところが見えなかった』ともおっしゃっていました」
「高村さん。小林さんが不安だと言った時、どう答えましたか」
「……彼女に、そこまでの心労を強いる権利はない、と」
「とても高村さんらしい答えだと思います」
「正しく、ありませんでしたか」
修平は、自分の出した結論への疑念を、初めて他者の前に晒した。
「正しいです。たぶん、人としては」
「でも、パートナーとして欲しかった言葉ではなかったのだと思います」
修平は沈黙した。面談室の空調の音が、急にはっきり聞こえた。
「高村さんは、怖がっている小林さんに退避路を示しました」
「……はい。それが、誠意だと」
「でも彼女は、引き止めてほしかったのだと思います」
「……引き止めることは、彼女に危険を強いることではないのですか」
「そこです」
相川は、手元のタブレットから視線を上げ、修平をまっすぐに見た。
「高村さんは、引き止めることと、危険へ戻すことを、同じものとして扱ってしまったんです」
修平は、すぐには言葉を返せなかった。膝の上で組んだ指先に、知らず力が入る。
「私は……また間違えてしまったのですね」
深い吐息のような声だった。
相川はそれを否定しなかった。否定も肯定もせず、少しの間を置いてから、口を開いた。
「ですが、高村さんは変わりました」
「……変わったのでしょうか」
「少なくとも、今の高村さんは、自分が何を言えなかったのかを考えています」
その言葉は、すぐに傷を塞ぐものではなかった。だが、修平はわずかに顔を上げた。
「ですので、今までとは少し違うタイプの方をご紹介したいんです」
相川がタブレットを操作しながら言った。声のトーンは変わらない。ただ、言葉を選ぶ間が、いつもより長かった。
「違うタイプ、ですか」
「はい。条件だけで見れば、簡単なご紹介ではありません。婚歴があり、お子さんもいらっしゃいます」
修平の表情が、一瞬だけ硬直した。手元のグラスを、気づかないうちにテーブルへ戻していた。音は立てなかった。
「でも、プロフィールから伝わる空気が、高村さんに合うのではないかと思いました」
「空気」
「生活の温度、と言った方が近いかもしれません」
相川が、タブレットの画面を修平に向けた。
そこには、『吉川奈緒』という女性のプロフィールが表示されていた。四十代半ばの女性が、穏やかな表情で写っている。化粧は薄く、どこかの公園らしき場所で撮られた写真だった。
趣味の欄には「園芸」「お笑い鑑賞」「晩酌」と書かれている。
園芸やお笑い鑑賞という言葉は、修平の生きる「常に最悪を想定する世界」とは、ずいぶん遠い場所にあるように感じられた。それでも、その遠さと、晩酌という小さな共通点が、硬く乾いた胸の奥に、不思議と引っかかった。
「こちらの、ナオさんという方で四十五歳です」
「幼稚園の先生をされていて、性格がとても明るい方です。お酒が好きなところも高村さんと合いそうだと思います」
修平は、画面の文字を目で追った。職業、年齢、趣味。どれも文字としては読める。だが、その文字列の向こうに、まだ輪郭のない生活がある。修平にはまだ、その生活の手触りが想像できなかった。
「ただ、ナオさんはご主人と死別されています。五年前です」
「……死別」
「そして、高校生の息子さんが一人いらっしゃいます」
「高校生……ですか」
修平の声が、わずかに裏返った。
相川はそれを聞き逃さなかったが、指摘はしなかった。
「簡単なお話ではありません」
「はい」
「だから今まで、すぐにはご紹介しませんでした」
修平は、相川の真意を測るように目を向けた。
「……それは、私の準備ができていなかったということでしょうか」
「はい。少なくとも、以前の高村さんにはまだ早かったと思います」
相川は、少しの容赦もなく言った。
「以前の高村さんなら、子どもがいるという一点だけで、責任の重さを計算して固まっていたと思います」
「……今も、固まっています」
「はい。でも今の高村さんは、固まった理由を自分で見ようとしています」
修平は、無意識のうちに自分の両手を見た。分厚く、節ばった手。瓦礫を退け、人を引き上げるための手。この手で、他人の人生の重みを、すでに完成されている家族の歴史を、背負いきれるのだろうか。
相川は、修平の視線が自分の手に落ちたのを見て、少し間を空けてから続けた。
「高村さんは、もう十分に正しい人です。だから次は、正しさだけで苦しくならない相手が合うのではないかと思いました」
「それは……どういう人ですか」
「たぶん……あなたの不器用さを、一緒に笑ってくれる人です」
相川のその言葉は、説教でもなく、予言でもなかった。ただ静かに、修平の前に置かれた。
不器用さを、一緒に笑ってくれる人。
いつか、そんなことをスナックのカウンターでも言われた気がした。あの時はただの慰めに聞こえた言葉が、今は少しだけ違う重さを持っている。
ただ、その言葉だけは、面談室を出た後も消えそうになかった。
「……少しだけ時間をいただけますか」
修平は、タブレットから視線を外し、深く息を吐いて言った。
「はい、今この場で決めなくて大丈夫です。決まりましたらご連絡ください」
相川は、タブレットを静かに手元へ戻した。
「私は、ぜひお会いしてほしいと思っています」
修平は軽く頭を下げ、面談室を出た。エレベーターのボタンを押す指先が、まだ少しだけ強張っていた。
行きつけのスーパー銭湯は、いつものように白い湯気で満ちていた。
修平は湯船に肩まで沈み、目を閉じた。天井の換気扇が低く回る音と、どこかで桶を置く音。それ以外は静かだった。
スマートフォンに表示されていた奈緒のプロフィールを思い返す。
死別。
高校生の息子。
その二つの言葉だけで、湯の温度が急に分からなくなった。
修平は湯の中で、自分の両手を開いた。分厚く、節ばった、現場のための手。瓦礫を退け、人を引き上げることはできる。崩れそうな建物を支えることもできる。
だが、すでに失われた誰かの跡に、後から触れる方法など知らない。
修平にとって死は、観念ではなかった。一度越えれば、どれほど腕を伸ばしても引き戻せない境界だった。現場で何度もその境界を見てきた。あちら側に行った人間を、こちら側へ戻せなかったことも、ある。
その境界の向こうから帰ってこなかった人の家族の隣に、自分が立つ。
修平は、湯の中で両手を閉じた。
ましてや、高校生という響きもまた、修平にとって最も未知で、制御不能な領域だった。部下なら叱れる。訓練ならやり直せる。だが、多感な少年に「現在の心境を報告しろ」と命じても、おそらく何も解決しないだろう。
修平は、湯から上がった。
脱衣所の鏡の前に立つ。鏡の中には、まだ失恋の傷が新しい四十六歳の男がいた。身体は鍛え上げられ、姿勢は真っ直ぐだ。だが、湯上がりとは思えないほど硬い顔をしている。
身支度を整え、脱衣所を出た。休憩スペースの隅で、ロッカーから取り出したスマートフォンの画面を点けた。消した。また点けた。
相川の言葉が蘇る。
——以前の高村さんなら、責任の重さを計算して固まっていたと思います。
修平は、小さく息を吐き出した。
子どもがいる。死別している。自分はその家族の歴史を何も知らない。知らないまま、その場所に近づこうとしている。
怖い。
だが、怖いから会わないのか。
知美との交際で、修平は学んだはずだった。正しさだけでは届かないことがある。退避路を示すだけでは、人の心は守れない。それを学んだ上で、今度は怖さを理由に退くのか。
修平は、スマートフォンの画面を指で叩いた。
『ご紹介いただいた、ナオ様。ぜひ、お会いさせてください』
送信ボタンを押す直前、修平は自分の指先を見た。
決して立派な決意ではない。足は竦んでいる。指先が微かに震えている。
修平は、迷いを断ち切るように、送信ボタンを深く押し込んだ。
【高村修平の独白】
高校生。
その響きだけで、俺の脳内にある救助マニュアルのページはすべて白紙になった。
赤子の頃から積み上げた歳月を知らない男が、いきなり父親めいた顔で現れていいものなのか。
その問いに、答えは出ていない。
常に「死の側」と隣り合わせにいる俺が、死別で傷ついた人の隣に立つ資格があるのか。俺が彼女の人生に入り込むことは、かつての傷跡に再び火種を置く行為ではないのか。
知美さんの言葉も、まだ胸の奥に残っている。
俺は、人の人生に入るということを、まだ分かっていないのかもしれない。
それでも。
怖くないから会うのではない。
怖いと分かったから、会うのだと思う。
そう思って、送信ボタンを押した。
ただ、その親指は最後まで情けないほど重かった。
危うく、湯上がりの手からスマートフォンを滑らせるところだった。




