第十四章 事前確認メモ
日比谷のホテルラウンジは、休日の昼下がり特有の、ゆるやかに弛緩した空気に満ちていた。窓の外では街路樹が風に揺れ、ガラス越しの光が白いテーブルクロスの上に薄い影を落としている。
高村修平は、窓際の席で姿勢を正していた。
リリーブライダルのオフィスで吉川奈緒のプロフィールを見せられ、あの震える指で送信ボタンを押してから数日。修平は今日という日に向けて、これまで以上に準備を重ねてきた。濃紺のスーツにブラシをかけ、髪を整え、座席の配置を確認し、そして何よりも「余計なことを言わない」ための心構えを反芻した。
夫との死別。高校生の息子。
その二つの事実が、修平の背筋をいつも以上にまっすぐにしていた。
「……シュウヘイさんでしょうか」
ふと、声がした。
修平が立ち上がって振り返ると、写真で見た通りの女性がそこにいた。
吉川奈緒、四十五歳。濃紺のワンピースに小さなアクセサリを合わせている。派手ではないが、きちんと自分に似合うものを選んでいる人だった。ふっくらとした頬と柔らかな目元に、幼稚園の先生らしい穏やかさがある。
「はい。本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございます。こちらへどうぞ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
奈緒は、修平の大きな体格と隙のない姿勢を前に、少しだけ肩をすくめるようにして会釈した。お見合い慣れしている様子ではない。緊張が、修平にも伝わってきた。
着席し、注文を済ませる。修平は小さく息を吸い込んだ。
過去の失敗から学び、まず自分から短い自己紹介をすると決めていた。
「最初に、私から軽く自己紹介をさせてください」
修平の低く重い声に、奈緒が少しだけ背筋を伸ばす。
「シュウヘイと申します。消防救助機動部隊で隊長をしています。仕事は少し硬いのですが、休日は銭湯に行ったり、昭和の歌を練習したりしています。あと、晩酌も好きです」
相川の教え通り、柔らかい話題を意識して言葉を紡いだ。
「今日は、ナオさんと穏やかにお話しできたらと思っています。もしよろしければ、ナオさんも軽くでかまいませんのでお聞かせ願えますか?」
奈緒の目元が、ほんの少しゆるんだ。
「はい。ナオと申します。幼稚園の先生をしています。子どもとのふれあいが好きで、十六年ほど続けています」
緊張しながらも朗らかな声だった。聞いていて、耳が楽になる。
「趣味は園芸と……私もお酒が好きで晩酌しています。シュウヘイさんのプロフィールにも書かれていたので、お会いしてみたいなと思いました。色々と、お話を聞かせてください。よろしくお願いいたします」
礼儀正しく、悪くない滑り出しだった。
修平は少しだけ肩の力を抜いた。
「ありがとうございます。一つでも共通の好きなものがあると嬉しいものですね」
相槌のタイミングを計りながら、自然に会話を繋ごうとする。以前の自分なら、ここで沈黙が落ちていたかもしれない。
「ナオさんは、どのようなお酒を飲まれますか? 私は麦焼酎です。香ばしいものが特に好きですね」
「私は、甘めのカクテルやサワーです。パッケージにおいしそうなフルーツの絵があると、つい飲みたくなってしまいます」
奈緒は少し恥ずかしそうに笑った。
「焼酎って、少し強そうな印象があります」
「強いものばかりではありません。水割りやお湯割りなど、飲み方によってアルコール度数も……」
そこまで言いかけて、修平はハッとした。これ以上語れば、麦焼酎の製造工程からアルコール血中濃度の計算まで、防災講習会ならぬ焼酎講習会が始まってしまう。
「……ただ、語り始めると長くなりますので、ここで停止します」
真顔の宣言だった。
奈緒が口元に手を当て、小さく吹き出す。
「ふふ、停止なんですね」
その笑い声に、修平の胸の奥で張り詰めていた何かが、ふっと和らいだ。奈緒の肩からも、ほんの少し力が抜けたように見える。隙のない姿勢の奥にある妙に真面目な不器用さが、かえって空気をほどいたのかもしれない。
「お仕事柄、飲み会は多いのでしょうか?」
「そうですね……月に一、二回あるかどうかといったところでしょうか。そのほか、行きつけのスナックがありまして、これも同じくらいの頻度です」
修平は正直に答えた。
「量は飲みませんし、仕事にも影響があるといけませんので、節度は守って飲んでいます」
「私も量は飲まないので、ご縁がありましたら、お酒の席もご一緒できたらいいですね」
無理に話を合わせているような響きはなかった。自然な好感触が、言葉の端にそっと混じっている。
紅茶が運ばれてきた。白い湯気が、二人の間をゆるやかに漂う。
「園芸がお好きなのですね。どのような植物を育てているのでしょうか?」
「はい、ベランダの小さな鉢植えで、ミニトマトとか、お花を少し育てているくらいです。毎朝お水をあげて、少しずつ大きくなるのを見るのが好きなんです」
「ナオさんは、日々の成長に喜びを感じられる方なのですね。お仕事の、子どもたちの成長にも通ずる所がありそうだ」
「いえいえ、そんな大した事はしていないんですよ。でも確かに、園児たちと一緒で、日々の変化は楽しいかもしれません」
「長く親しまれているのですか?」
「そうですね。私がまだ実家にいた頃からやっていたと思います。育てた花を家の中に飾ると、雰囲気が明るくなっていいんですよ」
花を飾る。
修平の脳裏に、自身の無機質な部屋が浮かんだ。ベッドと机とプロテインの容器。窓辺に色のあるものは何もない。
「とても良い趣味をお持ちです。私の部屋には、緑がありません」
「全然ですか?」
「はい。観葉植物を置いたことはありますが、勤務明けに確認した時には、かなり危険な状態でした」
「植物にも救助が必要だったんですね」
「……救助できませんでした」
修平がうなだれるように言うと、奈緒はまた声を立てて笑った。からかう笑いではなく、場を柔らかくする笑いだった。修平自身、不思議と嫌な気はしない。
修平は少し汗ばんだ額を拭おうと、バッグからハンカチを取り出そうとした。
その時、バッグの隙間から一枚の紙切れが滑り落ち、奈緒の足元へひらりと舞い落ちた。
奈緒がそれを拾い上げる。
修平が気づいた時には、奈緒は紙面に目を落としていた。
「あっ、それは……」
修平の顔から、一瞬で血の気が引いた。
そこには、修平の無骨な字で、こう書かれていた。
◆ナオさんとの面談時 注意事項◆
・ご主人について自分から触れない
・息子さんの領域に踏み込まない
・同情ではなく敬意を
・ただ話を聞く(アドバイス禁止)
「ごめんなさい、勝手に見てしまったのですが、これ……」
奈緒は紙を持ったまま、少し驚いたように修平を見た。
「し、失礼しました。それは……事前確認メモです」
修平は、まるで重大な規則違反を犯した隊員のように直立不動の姿勢になった。
「事前確認メモ」
「はい。ナオさんのお話を、私の不用意な言葉で傷つけないためのものです」
「……アドバイス禁止」
「最重要項目です」
奈緒の肩が、小さく震えた。
「ふふ」
「……笑うところでしたか」
「すみません。でも、こんなに真面目に"踏み込まない準備"をしてきた人、初めてだったので」
「……お恥ずかしいです」
修平はハンカチで額の汗を拭った。自分の不格好な誠実さが露見してしまったことが、火災現場で退路を絶たれるよりも恐ろしかった。
奈緒は一通り笑った後、その紙を丁寧に折り直した。
その指先の動きを、修平は見ていた。軽々しく扱われたくない他人の大切なものを、そっと元の場所へ戻すような、静かな慎重さがあった。
「でも、嫌な感じはしません」
奈緒は、折り畳んだ紙を修平の前に差し出した。
「嫌な感じでは、ないのですか」
「はい。私のことを、軽く考えていないんだなって、分かったので」
修平は受け取った紙を、バッグの奥にしまい直した。指先が、少しだけ震えていた。
「でも、シュウヘイさん、今そんなに緊張されていますか? とてもお話が上手だったので、そんなふうには見えませんでしたが」
「はい、とても」
即答だった。
「それは意外です。救助のお仕事をされている方なのに」
「現場には手順があります。ですが、人の大切なものに触れる時の手順は、まだ分かりません」
自分でも驚くほど素直に、弱さを口にしていた。
「……」
「ですので、今日は余計なことを言わないように気をつけます」
奈緒は少しだけ目を瞬かせた。それから、柔らかく微笑んだ。
「じゃあ、余計なことを言いそうになったら、私が止めますね」
「助かります」
「お見合いで"助かります"って、初めて言われました」
二人の間に、今日一番の自然な笑いがこぼれた。
笑いが収まった後、奈緒が少しだけ声のトーンを落とした。
「……主人のこと、気を遣わせてしまいましたよね」
「いえ。こちらこそ、勝手に身構えてしまい、失礼しました」
「プロフィールにも書いた通り、五年前に亡くなっています。今でも寂しくなる時はありますけど、今日はその話を重くしたいわけではないんです」
「はい」
「ただ、そうやって気をつけようとしてくださった事は、嬉しかったです」
奈緒はそれ以上、深い話には踏み込まなかった。修平もあえて尋ねようとはしない。メモの四行目が、修平の中で静かに効いていた。
「……確かプロフィールにお笑い鑑賞と書かれていたと思うのですが、お笑いは、昔からお好きなんですか?」
修平が話題を変えると、奈緒は小さく頷いた。
「はい。でも、しばらく見られない時期もありました」
「……そうでしたか」
「今はまた、笑えるようになって。だから、好きなんです」
修平は、その言葉の手前にある時間のことを、想像だけした。想像だけにとどめた。
「笑えるようになった、というのは……大事なことなのですね」
「はい。たぶん、私にはとても」
奈緒の声は明るかった。ただ、その奥に、わずかな重みが残っていた。修平はそれをただ受け止め、言葉にはしなかった。
「……シュウヘイさんのお仕事はレスキューと仰っていましたよね。怪我とか……その、とても危険なお仕事なのでしょうか?」
今度は奈緒が尋ねる番だった。
「危険がないとは言えません。ただ、危険を小さくするための訓練を、毎日しています」
「危険をなくすのではなく、小さくするんですね」
「はい」
「だから、メモも作るんですね」
「……はい。対象は違いますが、準備は必要です」
奈緒は、修平の言葉に何か納得したように、静かに頷いた。修平の仕事を称賛するでもなく、怖がるでもなく、ただ一つの事実として受け取る頷き方だった。
お見合いの時間は、あっという間に過ぎた。
「今日は、とても楽しかったです。ありがとうございました」
駅の改札前で、奈緒が丁寧にお辞儀をした。
「こちらこそ。貴重なお時間をいただき、感謝いたします」
修平も深く一礼し、奈緒の背中を見送った。濃紺のワンピースが改札の向こうに消えるまで、修平はその場を動かなかった。
ホームへ続く階段を下りながら、修平はふと、自分のある変化に気づいた。
これまでのお見合いの後は常に、気疲れと過度の緊張で、首や肩が鉄板のように凝り固まっていた。深く重い溜息を吐きながら首を揉みほぐすのが、彼の「お見合い終わりの儀式」になっていた。
しかし今日、無意識に首に当てる手が、ない。
疲れていない。
地下ホームに降り立つ。電車の接近を知らせるアナウンスが響き、風がトンネルの奥から吹き上がってくる。電車がその風を巻き上げてホームに滑り込む。修平はその風を顔に受けながら、自分の口角が少し上がっていることに気づいた。
帰りの電車に乗り込み、ドア付近に立つ。
いつもなら、虚無の目で窓の外の暗闇を眺めるだけだった。
だが今日は、あのメモを落とすという自分の致命的なドジを思い出して、修平は一人で小さく「ふっ」と吹き出してしまった。
【高村修平の独白】
今回は、いつもと違う気がする。
……もう一度、会ってみたい。
彼女も同じ気持ちであれば嬉しい。
その答えが届くまで、どうにも落ち着かない。




