第十五章 怖さの在処
吉川奈緒から仮交際希望の通知が届いた時、高村修平は深く息を吐き出した。
お見合いからの一週間、二人はアプリのシステムを通じて何度か短いメッセージを交わしていた。
『今日は非番でした。空がよく晴れています』
『幼稚園の園児たちと、花壇に新しい種を植えました。芽が出るのが楽しみです』
『夕食に合わせて、缶のチューハイを開けました。フルーツの絵が描いてあるやつ、やっぱり美味しいです』
交わされる言葉は、驚くほど何気ないものばかりだった。勤務状況の詳細な報告も、災害時の安全確認もない。けれど修平には、その短い往復が、これまでのどんな完璧な報告書よりも温かく、確かに自分の日常と結びついているように感じられた。
返信の間隔は、まちまちだった。奈緒からの返事が半日空くこともあれば、修平の方が丸一日遅れることもある。以前の修平なら、その空白のたびに自分の文面を読み返し、不適切な表現がなかったか検証していただろう。
だが今回は、そうならなかった。
返事を待つ時間にも、不思議と呼吸の余地があった。
仮交際一回目のデートは、駅前のカラオケボックスから始まった。
きっかけは、デート前のメッセージだった。
「高村さん、プロフィールにボーカル教室って書いてありましたよね」
「はい。月に二回ほど通っています」
「少しだけ聴いてみたいです。……あ、無理なら全然いいんですけど」
「いえ。訓練成果を確認していただける機会と考えれば」
「訓練成果」
「……言い方を誤りました」
「ふふ。じゃあ訓練成果、楽しみにしていますね」
お互いの趣味を共有する、という名目だった。
カラオケボックスの部屋は八畳ほどで、壁の照明が青や紫に緩く変わる。テーブルにはドリンクバーのグラスが二つ。奈緒はソファに浅く腰かけ、膝の上にメニュー表を置いたまま修平を見上げた。
「何を歌われるんですか?」
修平が選んだのは「鎌倉夜雨」という昭和歌謡の定番曲だった。
前奏が流れると、修平はすっと立ち上がった。両手でマイクをしっかりと保持し、背筋を垂直に伸ばす。両足は肩幅に開き、重心を安定させている。その姿は、これから歌を披露する男というより、部下に訓示を垂れる直前の隊長にしか見えなかった。
そして、歌い出す。
圧倒的な声量。一音一音がはっきりと発音される、完璧な滑舌。情感や哀愁よりも、発声と腹圧が完全に勝っていた。音程は正確に刻まれているが、どこか部隊を動かす号令のような響きがある。カラオケボックスの壁が微かに震えた。
一曲歌い終え、画面に高得点が表示される。修平が静かに着席すると、奈緒はパチパチと拍手をした。
「……発声が、とても綺麗ですね」
笑いを堪えきれない顔だった。
「ありがとうございます。腹圧を意識しています」
「腹圧」
「はい」
「歌の感想で"腹圧"って、初めて聞きました」
奈緒がとうとう声を立てて笑った。肩が揺れ、手の甲で口元を押さえている。
修平は、画面に表示された採点結果よりも、その笑顔の方を見てしまった。
笑われている。明らかに笑われている。だが不思議と、胸のどこにも傷がなかった。
奈緒もマイクを取った。選んだのは、修平の知らないポップスだった。声は大きくないが、メロディの輪郭をきちんとなぞる歌い方で、サビの手前で少しだけ息を溜める癖がある。歌い終えると、奈緒は照れたように笑った。
「私は腹圧、足りないですね」
「十分です。……音程が安定しています」
「ありがとうございます。採点、見ないでくださいね」
修平は画面から目を逸らした。律儀に。
カラオケを出た後、二人は予約していたレストランへ向かった。修平の足取りは不思議なほど軽い。「腹圧を褒められた」ことを真面目に反芻しながら、奈緒と並んで歩く。
レストランは駅から少し離れた路地裏にある、照明を落とした静かな店だった。テーブルの上に小さなキャンドルが一つ。壁にはジャズのポスターが何枚か掛かっている。
向かい合って座り、近況やカラオケの話、店内の照明の落ち着きについてなど、一通りの会話を終えると、ふと二人の間に沈黙が落ちた。
修平の背中が、わずかに強張る。
——まずい。何か話題を提供しなければ。
修平が思考を巡らせようとしたその時、奈緒がグラスの白ワインを少しだけ傾け、焦る様子もなく口を開いた。
「……今日みたいに時間を気にせず、ゆっくりお酒を飲めるのも贅沢ですね」
窓の外の夜景に目をやりながら言う。
「素敵なお店を選んでくださって、ありがとうございます」
「喜んでいただけたら幸いです」
「お店を選ぶ時は、どのようにされてますか?」
「それはですね……」
修平は、焦る必要がなかったのだと気づいた。沈黙は、この人の前では空白のままでいられる。
空白は、必ずしも危険信号ではないらしい。
食事が中盤に差し掛かった頃、修平は時間を気にして尋ねた。
「今日は、遅くなっても大丈夫でしょうか。息子さんもいらっしゃると伺っていましたので」
「はい。あ、息子の名前、駿っていうんですけど、もう高校生ですから」
「しっかりされてますね」
「はい、夫がいなくなってからは、家のこともよくやってくれています」
奈緒の声は明るかった。ただ、「いなくなってから」という言葉の手前で、ほんの一瞬だけ箸を持つ指が止まったのを、修平は見逃さなかった。
フォークを置き、奈緒を真っ直ぐに見る。
これまでなら、「ご苦労されているのですね」といった無難な共感で終わらせていただろう。だが修平は、この人には、自分の本音を一つだけ置いておかなければならない気がした。
「……私は、間違えたくありません」
「え?」
「吉川さんと息子さんが、今まで守ってきたものがあるはずです」
修平の声が、少しだけ低くなる。
「そこへ、私が不用意に入ってしまうのが……怖い」
奈緒は目を丸くした。それから少しだけ悪戯っぽく笑う。
「レスキュー隊長なのに、私たちが怖いんですか」
「はい。現場とは、怖さの種類が違います」
奈緒はグラスを置き、修平の目を見た。
「ふふ。じゃあ……怖がりながら、来てください。私たちも、たぶん怖がりながらお迎えするので」
修平は、息を呑んだ。
怖いと言っても、この関係は壊れなかった。テーブルの上のキャンドルが小さく揺れ、奈緒の顔に柔らかい影を落としている。修平はその事実を、言葉ではなく胸の奥で静かに受け取った。
二回目のデートは、一回目よりも少しだけ、暮らしの匂いがした。
待ち合わせたのは、生活雑貨や家具、園芸用品まで揃う郊外の複合施設である。天井の高い店内に、カートの車輪の音が響く。積み上げられた収納ケース、サンプルのクッション、園芸コーナーの湿った土の匂い。二人の会話は、自然と生活の方へ近づいていった。
園芸コーナーで、奈緒が足を止めた。
「あ、私この花、好きなんです」
指差したのは、鮮やかな黄色い花を咲かせた鉢植えだった。
「名前を伺っても?」
「ガーベラです。黄色い花を見ると、部屋が少し明るくなる気がして」
修平は、すかさず内ポケットから手帳を取り出そうとした。
「そんなに真面目に覚えなくても」
奈緒が笑って止める。
「いえ。重要事項です」
「ふふ。じゃあ、覚えておいてください」
奈緒は可笑しそうに言い、ガーベラの鉢植えをカートに乗せた。
家具コーナーへ移動すると、奈緒は収納家具を見たいと言った。棚板のサンプルが壁に並んでいる。修平が手を伸ばしかけた時には、奈緒はすでにそれを両手で持ち上げていた。
「あ、持ちます」
「大丈夫です。こういうの、慣れてますから」
奈緒は笑って言ったが、その笑い方には少しだけ年季があった。誰かが持ってくれるのを待つ前に、自分で持つ。それがこの人の生活に染みついているのだと、修平は感じ取った。
本棚が並ぶエリアに来ると、修平の職業病が顔を出した。
「この本棚は、壁に固定しやすい構造ですね。重心も低く、耐震性に優れています」
真剣な顔で棚の裏側を覗き込む修平の横から、奈緒がひょいと顔を出した。
「家具を見ても、そこなんですね」
「……すみません。生活感より先に、耐震性を見ました」
姿勢を正して謝る修平に、奈緒は棚板を軽く指で触りながら言った。
「でも、大事です。高村さんらしいですよ」
否定はしない。かといって、すべてを無条件に肯定するわけでもない。ただ修平の一部として、そのまま受け流す。その距離の取り方に、修平は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
買い物を終え、二人は店舗の隅にある休憩ベンチに腰を下ろした。紙コップのコーヒーを一つずつ。買い物客がカートを押して行き交うのを、ぼんやり眺める。
奈緒の足元には、ガーベラの鉢植えが入った紙袋と、収納用品の入ったビニール袋が並んでいた。修平の手元には紙コップだけがある。
「こういう安全確認って、お仕事でも毎日されるんですか?」
奈緒が、紙コップを両手で包みながら尋ねた。
「はい。確認そのものも訓練の一部です」
「体を鍛えるだけじゃないんですね」
「むしろ、判断の訓練が多いです。誰をどこへ行かせるか、どこで止めるか。隊長の仕事は、全員を無事に帰すことなので」
修平が静かに答えると、奈緒の表情が少しだけ変わった。笑みが消えたわけではない。ただ、目の奥にあるものが、ほんの少しだけ深くなった。
「私は、高村さんの立派なお仕事を、尊敬しています」
「ありがとうございます」
奈緒は、紙コップの縁をじっと見つめた。コーヒーの湯気が、もうほとんど立っていない。
「でも、怖くないとは言えません。いつかまた、大切な人が帰ってこなくなるかもしれないって想像すると……足がすくみます」
修平は、沈黙した。
背筋を伸ばしたまま、動かない。
かつての終わり方が、一瞬だけ脳裏をよぎった。怖さを打ち明けられた時、正しい言葉で返そうとして、正しさだけが残った。あの時の自分を、修平は覚えている。
「……はい」
短く応えた。それだけだった。解決策も、安心させる言葉も、出さなかった。
「そこを、怖くないふりをして受け止めるのは、たぶん違うと思うんです。高村さんに失礼だから」
「……」
「怖いです。でも……その怖さを持ったまま、高村さんのことを、ちゃんと考えたいです」
奈緒は、紙コップを両手で包んだまま、視線を逸らさなかった。買い物客の足音が遠くで響いている。館内放送がタイムセールの案内を流していた。
「前の結婚で、ひとつだけ分かったことがあるんです」
「はい」
「楽しい時だけじゃなくて、弱音を話せるかどうかって、大事なんだなって」
奈緒は、修平を真っ直ぐに見た。
「だから、今日は言いました。怖いです、って」
修平の喉が、一度だけ動いた。
「……ありがとうございます」
声は低く、重かった。
「怖いと言っていただけたことを、私は忘れません。その怖さを、なかったことにはしません」
ベンチに置いた自分の手を、強く握りしめる。指の関節が白くなるほどの力だった。
「私も、逃げずに考えます」
しばらくして、修平は握りしめていた手をゆっくりと開いた。
まだ答えは出ていない。だが、今度は退くためではなく、ここに残るために考えなければならないのだと思った。
奈緒の足元で、紙袋の中のガーベラが、蛍光灯の白い光を受けて静かに揺れていた。
その夜、修平は自室から相川に電話をかけた。
『高村さん。今回は、随分と声が違いますね』
電話に出た相川は、開口一番そう言った。
「そうでしょうか。風邪は引いていませんが」
『ふふ、そういうことじゃありません。……「報告書の声」じゃないんです』
「……報告書の声」
『吉川さんの前では、少しだけ、素の自分を出せているのかもしれませんね』
修平は、否定も肯定もしなかった。
『今日の感想、少しだけ聞いたんですよ』
「……何と」
『「一緒にいて、疲れませんでした」と』
修平の呼吸が、一拍だけ止まる。
『一緒にいて疲れなかった。これは、とても大きな手応えです』
「手応え」
『はい。ただし、手応えと覚悟は別です』
相川の声が、少しだけ厳しさを帯びた。
「はい」
『真剣交際に進むということは、吉川さんだけではなく、息子さんの生活にも近づくということです』
「……承知しています」
『承知と、実感は違います。そこだけは、忘れないでください』
「……はい」
電話の向こうで、相川が少し間を置いた。
『交際回数だけを見れば、少し早いです』
『ですが、回数より大事なのは、何を話せたかです。吉川さんとは、怖さの話ができている。そこは大きいと思います』
修平は「了解しました」と言いかけて、やめた。
「……分かりました」
『ふふ。それでいいと思いますよ』
電話を終えた後、修平はしばらく暗い部屋の中でスマートフォンの画面を見つめていた。
真剣交際希望。
そのボタンを押す指に、大きな迷いはなかった。
楽しかったからだけではない。怖さの話ができたからだ。怖いと言われ、怖いと返し、それでもまだ同じベンチに座っていられた。その事実が、指を動かしていた。
数時間後、奈緒からも同じ意思が届いたと、相川から連絡が入った。
修平は無意識に手帳を取り出し、何かを書き留めようとした。しかし、すぐにペンを置く。
ガーベラ。黄色い花。
書き留めなくても、もう覚えている。そのことに気づいて、修平は手帳を閉じた。
【高村修平の独白】
怖い、と言われた。
逃げたい、ではなく。
終わりにしたい、でもなく。
怖いまま、考えたい、と。
俺は、退路を示さなかった。
それが正しいのかは、まだ分からない。
ただ、彼女はそこに残っていた。
……とりあえず、次の非番には花屋へ行こう。
黄色いガーベラを、見分けられる男にならなければならない。




