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第十六章 人数分

 吉川奈緒と真剣交際へ進む意思を確認してから、最初の休日だった。

 修平は車で待ち合わせ場所へ向かった。郊外の公園まで、修平の車でドライブに出かけることになっている。

 待ち合わせ場所に現れた奈緒は、薄手のカーディガンを羽織り、小さなトートバッグを肩から下げていた。修平は車を降りて助手席のドアを開け、奈緒が乗り込むのを見届けてから運転席に収まった。


 修平の運転は、極めて安全だった。

 片手でハンドルを回すような真似は決してしない。両手はステアリングの十時十分の位置を正確に保持し、不必要な加速も急な減速も行わない。長年の緊急車両の運行で身体に刻まれた、同乗者と周囲の安全を最優先とする職業病のようなものだった。


「高村さんの運転、スムーズですね。全然揺れないので、すごく安心します」


 走り出してしばらくして、奈緒が感心したように言った。


「仕事の癖のようなものです」


 修平は前方を注視したまま答え、それから少しだけ視線を下げてエアコンのパネルを確認した。


「寒くありませんか? 直接風が当たるようであれば、向きを調整しますが」

「はい、丁度いいです。ありがとうございます」


 小さく頷く。信号が赤に変わり、車が停止した。修平はそのタイミングで少しだけ姿勢を正した。


「その……真剣交際に入りましたし、これからは名字ではなく、下の名前で呼ぶのはどうでしょうか」


 どこか業務連絡のような硬さだった。奈緒は嬉しそうに微笑んだ。


「いいですね。私も相談したいと思っていました。そうしましょう」


 少しだけ首を傾げて、言葉を継ぐ。


「あと、敬語も少しずつ崩していきませんか」

「少しずつ、ですね」

「はい。いきなり全部だと、高村さんが遭難しそうなので」

「……はは、わかりますか?」


 修平が苦笑すると、奈緒も「ふふふ」と声を立てて笑った。


「じゃあ、今日は名前だけ」


「では……奈緒さん」

「はい、修平さん」


 互いに名前を口にした瞬間、車内にほんの少しだけ照れくさい余白が生まれた。

 奈緒は窓の外を見るふりをした。修平は前方を見たまま、いつもより丁寧にブレーキを踏んだ。


「今日の目的地は、奈緒さんが行きたいと言っていた『森の里公園』で合っていますか?」

「はい。今ちょうどコスモスが見頃みたいで、ずっと来てみたかったんです」

「了解しました。あと三十分ほどで到着します」



 車窓を流れる景色が、都心のビル群から徐々に緑の多い郊外の風景へ変わっていく。

 奈緒はしばらく窓の外を眺めていたが、やがて視線を車内に戻し、少しだけ声のトーンを落とした。


「息子の、駿についてなんですけど」

「はい」


 修平はハンドルを維持したまま、静かに耳を傾けた。


「駿は今、高校で野球部のピッチャーをやっています。私も驚いているんですが、エースなんですよ」

「エースですか。それは、相当な努力をされていますね」

「父親が亡くなってから、悲しさを紛らわせるみたいに泥だらけになって……。自分にも周りにもすごく厳しい子になっちゃったけど、私を守ろうとしてくれているのが分かるから」

「……はい」

「進学のこともありますし、あの子には自分のことを考えてほしいんです」

「……奈緒さんは、駿君に自分の人生を歩いてほしいんですね」

「はい」


 修平は奈緒の言葉を反芻した。ハンドルを握る指に、少しだけ力がこもる。

 奈緒と駿の間には、自分の知らない時間がある。


 奈緒は窓の外を流れる街路樹に目をやりながら、少し照れたように言った。


「それと……こういう年齢で結婚を考えるなら、親のこととか、自分たちの老後のことも、ちゃんと話しておかないといけませんね」

「若い頃の結婚とは、きっと違いますから」

「はい。避けるべき話ではないと思います」


 修平は前方を見たまま、静かに頷いた。


「私も、自分の両親のこと、これからの住まいのこと、勤務のことを含めて、きちんと共有します」




「現着」


 公園の駐車場に車を滑り込ませた瞬間、修平は無意識に呟いていた。


「えっ」

「失礼、到着です」


 修平が慌てて訂正すると、奈緒は吹き出した。


「もう、修平さんたら」


 少し恥じ入りながら、エンジンを切った。

 車を降りる際、奈緒の足元にわずかな段差があった。

 修平は反射的に手を差し出していた。

 奈緒は一瞬だけ迷うような素振りを見せたが、すぐにその大きく節ばった手に、自分の柔らかな指を重ねた。

 救助のためではない手の重みを、修平はまだ正確に測れなかった。引き上げるわけでも、支えるわけでもない。ただ並んで歩くための手だった。


 園内に入ると、一面のコスモス畑が広がっていた。

 ピンク、白、薄紫。秋風が吹くたびに花弁が一斉に揺れ、畑全体がゆるやかにうねる。小道の両脇にまで花が溢れ、低い日差しが花びらの縁を薄く透かしていた。空は高く、雲は遠い。風が花の間を抜けるたびに、かすかに甘い匂いが立った。


「うわぁ〜、すごい、こんなにたくさん」


 奈緒は歓声を上げて足を早めた。カーディガンの裾が風にひるがえる。


「壮観だ」


 修平も目を細めた。

 二人は、コスモス畑の間を縫うように続く小道を、ゆっくりと歩き始めた。


「本当に綺麗ですね」

「ええ」


 奈緒はしゃがみ込んで一輪のコスモスに顔を近づけた。花弁に触れるか触れないかの距離で、しばらくそのまま見つめている。やがて立ち上がり、少し遠い目をした。


「こういう景色を、ちゃんと綺麗だと思えるようになるまで、少し時間がかかりました」


 修平は何も言わずに隣を歩いた。


「夫が亡くなってから、しばらく笑えなかったんです」


 奈緒の声は、ただ過ぎ去った時間を静かに振り返るような温度だった。


「テレビをつけても、音だけが遠くて。お笑いも、好きだったはずなのに見られなくなって」


 修平は彼女の横顔を黙って見つめた。花の間を風が抜け、奈緒の髪が揺れた。


「それを見ていた駿が、寄席のチケットを買ってくれたんです。お小遣いを貯めて」

「駿君が」

「本人は『俺が見たかっただけ』って言うんですけどね」


 奈緒は少しだけ口角を上げた。


「でも、その日、久しぶりに声を出して笑いました。ああ、笑ってもいいんだなって」

「良い息子さんですね」

「はい。……良い子です。だからこそ、たくさん我慢させてきたと思います」


 修平は、まだ会ったことのない少年の姿を、泥だらけのユニフォームと一緒に思い浮かべた。


「ごめんなさい。私さっきから重い話ばっかり。今日は修平さんとのデートを楽しむ日なのに」


 奈緒がふと我に返ったように謝った。


「そんなことはありません。大切な話をしてくださっています」

「……そういうふうに、受け止めてくれるんですね」

「受け止められているかは、分かりませんが」

「でも、怒ったり、不機嫌になったりしないんですね」

「鈍感なだけかもしれません」

「ふふ、私は優しいなと思いますよ」


 奈緒は修平の顔を見上げて、安心したように微笑んだ。それからまた歩き出す。

 小道の先で風が強く吹き、コスモスが一斉に傾いだ。奈緒がカーディガンの襟元を押さえ、修平は無意識に風上側へ半歩ずれた。




 帰りの車中、二人は奈緒の家の近くにある大型スーパーに立ち寄った。

 コスモス畑の静けさから一転、店内は野菜の特売を知らせるアナウンスや、買い物カートのキャスター音で満ちている。蛍光灯が白く、冷蔵ケースの低い唸りが足元を這う。

 奈緒が夕食の食材を物色する横で、修平は手持ち無沙汰にカートを押していた。


「レスキュー隊の方って、自炊も得意そうなイメージがありますね」


 豆腐のパックを手に取りながら、奈緒が言った。


「得意と言えるほどではないですが、隊で作ることもあります。生姜焼き、回鍋肉、カレーあたりは」

「カレーなら、どのお肉を買います?」

「鶏むね肉です。安く、量が出せるので」


 修平が即答すると、奈緒は少し意外そうに眉を上げた。


「そこ、すごく現実的ですね」

「家計の防衛線です」

「ふふ、防衛線」


 奈緒は笑いながら、豚肉のパックをカゴに入れた。

 修平は精肉コーナーの冷蔵ケースを眺めながら、ふと尋ねた。


「駿君の分も、何か買っていきますか」


 奈緒の手が、一瞬だけ止まった。


「……今日は、大丈夫です」

「そうですか」

「最近、部活のあとに友達と食べたり、自分で済ませたりすることが増えてしまって」


 奈緒は少しだけ寂しそうに微笑んだ。


「高校生だから、普通なのかもしれませんけど」


 会計に向かう直前、奈緒はふとカゴの中を見下ろした。

 鶏むね肉、豆腐、牛乳、特売の小松菜。その端に、駿が好きだというヨーグルトが一つ入っている。

 奈緒はそれを一度手に取り、賞味期限を確かめた。パックの表面に結露がついていた。


「最近、食べるかどうか分からないんですけどね」


 そう言いながら、奈緒は結局それをカゴへ戻した。


「置いておけば、食べるかもしれないので」

 その声はいつも通り明るかった。

 けれど修平には、カゴの中の一つ分の余白が、ひどく静かなものに見えた。




 奈緒を自宅の前まで送り届け、修平は車を発進させた。

 バックミラーに映る彼女の姿が小さくなっていく。修平は今日の出来事を反芻した。


 良い息子さんですね。


 自分が発したその言葉に、偽りはなかった。

 修平は奈緒の食卓に自分の席がある光景を想像しかけて、途中でやめた。そこにはまだ、会ったことのない少年の時間がある。勝手に踏み込んでいい場所ではない。

 だが、時間をかければ、きっと分かり合える。

 修平はそう考えた。


 信号が青に変わり、アクセルを静かに踏む。フロントガラスの向こうに、夕暮れの空が広がっていた。




 一方、帰宅した奈緒は玄関のドアを開けた。


「ただいま」


 返事は少し遅れて、奥にある駿の部屋から聞こえた。


「おかえり」


 ドアは少しだけ開いていたが、駿は顔を出さなかった。

 奈緒は小さく息を吐き、スーパーの袋をキッチンへ運んだ。買ってきた食材を冷蔵庫へしまいながら、今度の休みに作るつもりだったカレーのことを考える。


 鶏むね肉が冷たかった。




【吉川奈緒の独白】


 修平さんの隣にいると、不思議と呼吸が深くなる。


 初めて会った時は、少し怖い人かと思った。

 体も声も大きくて、言葉も固くて。

 でも今は、その不器用さの奥にある優しさを、少しだけ知っている。


 この人となら、もう一度「家族」という場所を作れるかもしれない。

 そう願う気持ちに、嘘はない。


 でも、駿。

 あなたはどう思っているのだろう。


 私を笑わせてくれたあの子が、最近、私の前で少しだけ笑わなくなった。

 部屋へ戻る背中が、以前より硬く見える。


 私がもう一度幸せになろうとすることが、あの子を置いていくことにならないか。


 ……修平さん。

 私、まだ少しだけ怖いです。


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