第十七章 初回接触の許可
奈緒から電話があったのは、真剣交際に入ってひと月ほど経った頃だった。
画面に彼女の名前が表示された瞬間、高村修平は背筋を伸ばし、喉を一度鳴らしてから応答ボタンを押した。
「……高村です」
『あ、修平さん。こんばんは』
奈緒の声は、いつものように明るい。ただ、その明るさの下に、何かを切り出そうとする小さな緊張が混じっていた。
軽く近況を交わした後、奈緒が声の調子をわずかに変えた。
『この前、駿に少しだけ修平さんの話をしたんです』
「はい」
『そしたら、会ってみてもいいって言ってくれて』
「駿君が」
『はい。それで、そろそろ……駿に会ってもらえないかと思って』
修平は、一瞬息を止めた。
高校生の息子。その存在を忘れていたわけではない。むしろ、奈緒と会うたびに、常に背後に感じていた重さだった。しかし実際に会うとなれば、それは「交際相手」から「家族になるかもしれない男」への明確なフェーズ移行を意味する。
「……はい。私も、ご挨拶させていただければと考えていました」
『よかった。じゃあ、今度の週末の夕方、駅前で待ち合わせして、近くで一緒にご飯でもどうですか?』
「承知しました。お店は一緒に相談しましょう。よろしくお願いいたします」
通話を終えた後、修平は手の中のスマートフォンをしばらく見つめていた。
奈緒との初対面の時よりも、あるいは初めて火災現場の指揮を執った時よりも、手強い緊張が腹の底に冷たく沈んでいく。
修平はスマートフォンをテーブルに置き、両手を膝の上に揃えた。
週末の夕暮れ。
修平は約束の十五分前に駅前のロータリーに立ち、行き交う人々の流れを注視していた。十月の風が首筋をかすめるたびに、無意識に襟元を正す。
やがて、人波を縫うようにして奈緒が手を振りながら歩いてくるのが見えた。
「修平さーん」
その隣に、一人の少年がいた。
部活動で鍛えられた体格。日焼けした肌。短く刈り込んだ髪。十七歳という年齢相応の若々しさの中に、どこか周囲の気配を測るような目がある。手はポケットに入っていたが、奈緒が修平に近づくにつれて、右手だけが自然にポケットから出た。
修平は姿勢を正し、二人の前へ進み出た。
「奈緒さん、こんばんは」
「お待たせしてごめんなさい。駿、こちらが高村修平さん。前に話した、救助のお仕事をされている方」
「……聞いてる」
駿は短く答えた。言葉を余分に使わないよう、あらかじめ決めているような返事だった。
「……もう、そういう言い方」
奈緒が困ったように笑い、駿の腕を軽く小突く。
「悪い意味じゃないよ」
駿は母の言葉を短く受け流し、視線を修平に戻した。
修平は、少年の目を真っ直ぐに見た。駿の瞳の奥に、一瞬だけ走った警戒の色を見逃さなかった。
「駿君ですね。はじめまして。高村修平と申します。奈緒さんと、真剣にお付き合いさせていただいています」
ゆっくりと、低く。声を作ったわけではない。修平の地声がそうなのだ。
「はじめまして。吉川駿です」
駿は短く頭を下げた。そこに笑顔はなかったが、決して無礼でもない。頭を下げる角度は、誰かに教わったものではなく、自分で決めた距離のように見えた。
「今日はよろしくお願いします。さあ、行きましょう。近くです」
修平が促すと、奈緒がいつもより少し高い声を出した。
「楽しみね。駿、ここの和風ハンバーグ好きでしょう? 高村さんも、きっと気に入ると思います」
「……別に、普通」
駿はそっけなく答えた。奈緒は「そう?」と笑ったが、その笑顔は普段より少しだけ明るすぎるように修平には見えた。
三人は駅前のロータリーを離れ、一本裏の通りへ歩き始めた。修平が先に立ち、奈緒と駿が並んで続く。駿の歩幅は母に合わせているのか、やや狭かった。
修平が予約していたのは、駅前の喧騒から少し離れた和食の店だった。木の引き戸を開けると、出汁の匂いがかすかに漂う。照明は落ち着いていて、隣の席との間には低い衝立がある。
三人が奥の席に通され、注文を終えると、給仕がメニューを下げていった。テーブルの上には、水の入ったグラスと、綺麗に並べられた箸置きだけが残る。
修平は改めて駿に向き直った。
「今日は駿君に私のことを知ってもらいたいのと、私も駿君のことを知りたいので、いろいろお話をさせてください」
「……はい」
駿は短く返事をして、水を一口飲んだ。グラスを置く音が、やけに静かだった。
「私は消防救助機動部隊、いわゆるハイパーレスキューで隊長をしています。人を助けるため、日々救助の訓練をしています」
駿は姿勢を崩さず、黙って聞いている。反抗的な態度は見せない。だが、心を開いている気配もなかった。聞くべきだから聞いている、という静かな姿勢がそこにある。
「駿君は、今高校生ですよね。部活動で野球をやっているとお母さんから聞きました」
修平が話題を変えると、奈緒がぱっと明るい声を出した。
「部活の話、修平さんにしてあげたら?」
「別に、普通だよ」
「普通じゃないでしょ。最近、帰ってくると泥だらけだし」
「野球部なら普通」
駿は、母の明るいトーンに乗ることをためらっているように聞こえた。乗りたくないのか、乗り方が分からないのか、修平には判別がつかない。
「エースピッチャーとのことで、とても努力されているんですね」
修平が真剣な顔で言うと、駿はわずかに視線を逸らした。
「いえ、それほどでは」
「部活ある日はいつも遅くまでやってるよね」
奈緒が、なんとか場を繋ごうと言葉を足す。
「今はどんな練習をしているのですか?」
「大会に向けて追い込みの時期です。チームの雰囲気も良いです」
「練習は、投げ込みが中心ですか。それとも走り込みも多いのでしょうか」
「どっちもあります」
駿の答えは、的確だがそれ以上でもそれ以下でもない。質問に対して必要な情報だけを返す。余白を自分から埋めようとはしなかった。
「修平さん、ちょっと面接みたいになってます」
奈緒が苦笑しながら割って入った。
「……失礼しました」
「いえ。面接は慣れてないですけど」
「駿、そこで真面目に返さなくていいの」
奈緒が笑い声を立てた。
修平は「場が和んだ」と感じた。だが駿の口元は、わずかに筋肉が動いただけだった。
修平は誠実に質問し、駿は誠実に答える。奈緒は二人を繋ぐために懸命に笑おうとしている。会話は途切れずに続いていた。ただ、テーブルの上のグラスの水面だけが、少しも揺れなかった。
「追い込みとのことですが、怪我には気をつけてください」
修平が職業柄の懸念を口にした。
「慣れてますから、大丈夫です」
「駿」
奈緒がたしなめるように言うと、駿は短く息を吐いた。
「……気をつけます」
その「大丈夫」に、奈緒の顔がごくわずかに曇った。だが修平は、それを駿が素直に聞き入れた反応だと受け取った。
食事が中盤に差し掛かった頃、奈緒が「少しお手洗いへ」と言って席を立った。
奈緒の背中が衝立の向こうに消えた瞬間、テーブルの上の空気が数度だけ下がったように感じられた。
駿は何もしていなかった。スマートフォンを取り出して時間を潰すわけでもなく、メニューを見直すわけでもない。ただ、グラスの水を一口飲んだ。
その動作は自然だった。
ただ、自然すぎた。
修平は、そこにわずかな硬さを見た。落ち着いているというより、落ち着いて見える位置に自分を置いている。そんな印象だけが、細く残る。
沈黙が続く。店内の話し声や食器の音が、急に近くなった気がした。
修平が「野球以外にも好きなことは——」と口を開いた時だった。
「高村さん」
駿が、修平の言葉を遮った。
「はい」
「母さん、最近楽しそうなんです」
駿の瞳が、初めて修平を真っ直ぐに捉えた。衝立の影になった照明が、少年の目の奥を暗くしている。
「……はい」
「それは、いいことだと思います」
「私も、そう思います」
「だから……よろしくお願いします」
駿はそう言って、小さく頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
修平も深く頷いた。
拒絶ではなかった。
だが、歓迎とも違う。駿の「よろしくお願いします」は、自分の意思で差し出した言葉というより、母のために用意してきた言葉のように、修平の胸に落ちた。
しかし、「気のせいか」と処理しかけたところで、奈緒が戻ってきた。
「何の話をしてたんですか?」
奈緒が明るく尋ねる。
「駿君の好きなものについて伺っていました」
「そんなに話してないよ」
「駿、修平さんはちゃんと聞いてくれる人だから、もう少し話してもいいんじゃない?」
「別に隠してるわけじゃない」
「無理に話さなくて大丈夫です。私も、初対面で聞きすぎました」
修平がそう言うと、奈緒は「ほら、優しいでしょ」と駿に笑いかけた。
「うん。ちゃんとしてる人だと思う。……何考えてるか、よく分かんないけど」
「駿」
「悪い意味じゃない」
奈緒は困ったように眉を下げた。
「修平さん、ごめんなさい。言い方が少し……」
「いえ。率直な印象だと思います」
修平は駿を見た。
「初対面ですから、分からなくて当然です」
駿は何も返さなかった。グラスの水に視線を落としたまま、小さく頷いただけだった。
やがて、メインの肉料理が運ばれてきた。湯気の立つ皿がテーブルに置かれ、出汁の香りが広がる。
駿が箸を伸ばしかけた時、ふとその動きが止まった。
「駿、好き嫌い言わないで食べなさいよ」
「言ってない」
駿は箸を宙に止めたまま、皿の上の肉を見ていた。
「ただ、父さんがよく食べてたやつは、今でも思い出すんだよ」
「……そうね」
奈緒の声が、一瞬だけ沈んだ。
駿は言い過ぎたと思ったのか、すぐに箸を動かし始めた。何事もなかったように肉を口に運ぶ。だが、すでに失われた人間の記憶が、このテーブルの上に確かな質量を持って置かれていた。
修平は何も言えなかった。言うべき言葉を持っていなかった。
「今度、久しぶりに作ろうか」
沈黙を埋めるように、奈緒が明るい声を出した。
「いいよ。母さん、忙しいし」
「忙しくないよ」
「……いいって」
駿はそう言って、皿の端に残っていた野菜を箸で寄せた。声は荒くなかった。ただ、もうその話を終わらせたいという硬さだけがある。
修平は黙って箸を持った。それ以上、彰の話には踏み込まなかった。
食事が終わりに近づいた頃、駿が唐突に修平に尋ねた。
「高村さんは、急に仕事で呼ばれることってあるんですか」
「あります」
「休みの日でも?」
「必要があれば」
「……そうなんですね」
「駿」
奈緒が、少し慌てたように声を挟んだ。
「いや。大変だなと思っただけ」
駿は表情を動かさずに言った。その声には、興味と、もうひとつ別の何かが混じっているように修平には聞こえた。だが、それが何かを特定する前に、駿は視線を皿に戻していた。
「慣れてはいます。ですが、慣れてはいけない部分もあります」
修平が誠実に答えると、駿は小さく頷いた。
「……ちゃんとしてるんですね」
駿はそう言って、グラスの水面に目を落とした。その言葉が褒め言葉なのか、確認なのか、修平には分からなかった。
会計のために席を立つと、奈緒が「せめて自分たちの分は」と財布を出そうとした。
「いえ、ここは私が。また行きましょう」
修平はそれを制し、静かに支払いを済ませた。
店を出ると、夜の空気が三人を包んだ。
「いつもすみません。ありがとうございます」
「ごちそうさまでした」
駿は、修平の目を見ずに小さく頭を下げた。声は丁寧だったが、そこに親しみはなかった。
駅の改札で別れた後、修平は改札口の前にしばらく立っていた。
明確な拒絶は受けなかった。会話は成立していた。駿は礼儀正しく、理解のある少年に見えた。
それだけで、十分なはずだった。
だが、別れ際の駿の声が、いつまでも耳の奥に残っていた。「ごちそうさまでした」。丁寧で、短く、温度のない挨拶。
修平は改札を通り、ホームへ向かう階段を降りた。
翌日。
修平は久しぶりに相川と電話でやり取りをしていた。
『昨日のご面談、いかがでしたか』
「駿君は、驚くほど理解のある少年でした。私の仕事への理解も示してくれた。状況は、良好だと思います」
修平が報告すると、相川の沈黙が数秒続いた。
『高村さん。十七歳の男の子が、母親の交際相手に最初から本音を話すと思いますか』
「……思いません」
『では、昨日得られたのは同意ではなく、初回接触の許可です』
「初回接触の許可」
修平は、その言葉を口の中で繰り返した。
『駿さんは、お母様の前で整えていた可能性があります。それは悪いことではありません。むしろ、お母様を大切にしている証拠です。ただ、それを同意と読み替えてしまうと、次の段階で足元を掬われます』
「……了解しました」
『高村さん。ここからは三人で時間をかけて決めていくことです。焦らないでください』
相川の声は冷静だった。責めてはいない。ただ、甘くもない。
通話を終えた後、修平は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
昨夜の駿の「よろしくお願いします」という声が、もう一度耳の奥に戻ってきた。
拒絶ではなかった。
だが、同意でもなかったのかもしれない。
【高村修平の独白】
吉川駿君。
彼は、俺が想定していた「制御不能な変数」ではなかった。
礼儀正しく、背筋を伸ばし、母親の幸福を第一に考えているように見えた。
明確な拒絶はなかった。
それだけでも、昨日の面会には意味があったはずだ。
……ただ。
奈緒さんが席を外した時、あの子は一度だけ、俺を真っ直ぐに見た。
あの目には、怒りも、怯えも、敵意もなかった。
だからこそ、妙に残っている。
相川さんは言った。
初回接触の許可、と。
同意ではなく、許可。
その言葉の意味を考えるほど、昨日の「よろしくお願いします」が、胸の中で別の形に沈んでいく。
考えすぎだ。
状況、よし。
……よし、のはずだ。




