Ep06 軍神テュールとバタートーストの可能性 ①
「これは…焼きたてパンの匂い…」
塔の50階へ降りる階段の前で
軍神のテュールは、鼻腔をくすぐる魅惑的な情報と
私は任務で来たのだ、という勤勉さの板挟みに合っていた
ふと、視線をずらすと
視界の端では、雲海に突き刺さる東京のビル群
それらが夕刻の光を反射して血の色に染まる
そう、血の色
テュールは目を閉じ、これまでの過酷な戦いを思い出す
そして、気を引き締めなおすと階段を降りる
目指すは「カフェ・ウィルド」
「…ここか」
目の前には、殺風景なフロアには不釣り合いな
洗練されたカフェの入り口
「こんな事が任務…なのか?」
テュールは、昨夜のオーディンの依頼を思い出す
『――あの店のマスターが何者なのか、お前の目で見て感想を聞かせてくれ
あと、あそこのメニューは実に美味いぞ』
独眼の最高神は、どこか楽しげだったのも気にかかる
正直なところ、テュールにとって、この任務は不必要に思えた
現在、神々はラグナロクの戦いにおいて
人間の「眷属」たちに押され気味だ
法と秩序を司る軍神として、やるべきことは山積み
「任務だ、仕方なく入るのだ」
自分にそう言い聞かせ、テュールはドアノブに手をかける
だが、香ばしい匂いまでは、最後まで否定できなかった
カランコロンカランコロン
テュールは、穏やかな鐘の音に眉をひそめるが
他の神々に聞いた通りの落ち着いた空間に安心感を覚えた
「いらっしゃいませ、あ、テュールさんですね
はじめまして、おくつろぎ下さい…」
(こいつか…)
テュールは眉一つ動かさず
冷静に、かつ淡々とカウンターの椅子に腰を下ろす
だが、内心では驚愕していた
対峙したマスターからは底知れない威圧感
それとは相反する深い安心感
さらに不可解なのは、戦士であるはずの自分が
この初対面の男に対して「好感」という感情を抱いてしまったことだ
「…私の名を知っているのか」
「ええ、オーディン様から伺っております」
マスターは失礼ながら、と前置きし、テュールの右腕に視線を落とした
そこには鈍い光を放つ魔法の義手
「フェンリルとの一件、聞きました、その自己犠牲と勇気を讃えさせてください」
かつて、テュールは凶暴な魔狼フェンリルを捕縛するため
自らの右腕をその口に差し出し、神々を守った
それは、その為の代償
「…あれから、自在に動く魔法の小手を身に着けた、問題ない」
テュールは堅物な態度を崩さず、淡々と返した
称賛など不要だ
自分はただ、合理的な判断をしたに過ぎない
「さて…」
彼は手元のメニューに目を落とす
並んでいるのは、人間の文化が色濃く反映された未知の料理が多い
だが、テュールという神は、不確実な冒険を好まない
「コーヒーとバタートーストを…」
最もシンプルな注文を選んだ
「ちょうどいいですね! 実は今、パンを焼いたところなのですよ」
マスターの目線の先には
一斤の食パンがクーリングラックに置かれ
ほのかな熱気と蒸気を纏っている
「冷ますのはこれくらいで丁度でしょう…」
そう言うとマスターは一枚ずつ厚めにスライスし
クラシックなトースターで焼きはじめる
やがて、小麦が焼ける甘く香ばしい香りが店内に充満し
テュールの空腹を容赦なく刺激した
テュールは無表情を貫きながらも
心の中では「私は幸運だ…」と静かにほくそ笑んでいた
カランコロンカランコロン
扉の鐘が鳴り、一人の人間が入ってきた
テュールはチラリと目をやるが
すぐに呆れて視線を戻した
長髪で痩せ型の男
ヨレたTシャツにジーンズ
動きに覇気はなく
どこからどう見ても戦士には見えない
50階まで来られる眷属は、ある程度は強いはず
だが、この男からは闘気の一片も感じられなかった
その男は、挨拶もなしにフラフラと店内を観察し始め
突然、高い声を上げた




