第9話 タンポポの時計、ため息をつく大人たち
私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。
右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。
この位置には意味がある。
聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。
例えば平和な教会の廊下で、書類の山を抱えた青白い顔のおじさんが胃を押さえてうずくまっている時。
聖女様が「大丈夫ですか!?」と駆け寄るのと完全に同時に、そのおじさんが普段飲んでいる胃薬の粉末と、ぬるま湯の入ったコップをスッと差し出すことができる。
それが、ナナメ後ろに控えるメイドの仕事である。
***
「あ、あぁ……相済まぬ、メイド殿。まさか胃薬を常備してくれているとは……」
「業務の一環ですのでお気になさらず。それで、本日はまた一段と顔色がすぐれないようですが、オフィト様」
彼はこの教会の運営委員筆頭、つまり実務のトップを取り仕切るオフィトという男だ。
規律と予算、そして王都の上層部の顔色を常に気にする生真面目な官僚肌の大人であり、その真面目さゆえにこの教会で起こる予測不能な事態のすべてを真正面から受け止め、常に胃袋を犠牲にしている苦労人でもある。
「……顔色も悪くなる。教会の中心にある大時計が、今朝から完全に停止してしまったのだ」
「時計ですか、それはまた……」
「春の湿気で内部の歯車が錆びついたか、あるいはどこかにホコリが詰まったか!いずれにせよ王都から取り寄せた特殊な部品がなければ修理できん!」
オフィトは頭を抱え、文字通り絶望的な表情で天を仰いだ。
「王都の監査官が見たらなんと言うか!本日の祈りの時間、食事の時間、孤児院の勉強の時間……そのすべてを知らせる鐘が鳴らせないのだぞ!教会のスケジュールが根底から崩壊してしまう!」
「まあまあ、筆頭。そんなに青筋立ててちゃ、そのうち本当に胃に穴が開きますよ」
そこへ、ペタペタと気の抜けた足音を響かせて一人の男がやってきた。
オフィトの部下であり、同じく運営委員に名を連ねる中年男、レルートだ。
聖職者の立場でありながら、その足元は常にサンダル履きであり、服装もだらしなく緩みきっている。
絵に描いたような昼行灯である。
「レルートォッ!貴様、大時計が止まっているというのにまたどこで油を売っていた!」
「いやいや、ちゃんと職人の手配をしてきましたって。直るのは明後日以降ですけどね」
「明後日以降ぉ!?それまでどうやって厳密に時間を管理しろと言うのだ!」
「別に数日くらい鐘が鳴らなくたっていいじゃないですか。お日様が高くなったらご飯食べて、沈んだら寝る。平和が一番ですよ」
のらりくらりとかわすレルートの言葉に、オフィトの胃痛がいよいよ限界を突破しそうになる。
「き、貴様というやつは!いつもそうやって適当なことばかり……っ!教会には王都が定めた厳格な規律というものがだな……!」
「はいはい、すいませんねぇ。でもほら、あっちにも『気にしない派』のボスがいらっしゃいますし」
レルートが視線で示した先では、聖女様が不思議そうに首を傾げていた。
「時計が止まってしまったのですか?」
「は、はい、聖女様……。誠に申し訳ございません。スケジュールに大幅な乱れが……」
「時計がなくとも、お腹が空いた時にお食事をすればよろしいのではありませんか?」
「聖女様ァッ!!それでは規律が崩壊いたしますぅぅっ!」
純度100%の野生児のような提案に、オフィトがついに膝から崩れ落ちた。
「ああ、王都からの評価が……いや、それ以前に聖女様のお食事や祈りの時間を守れんとは、私の管理不足……」とぶつぶつ呟きながら、魂が口から抜けかかっている。
まったく、このおじさんたちは。
上司であるオフィトは真面目すぎるがゆえにちょっとしたアクシデントで自滅し、部下のレルートは優秀な裏回しの実力を持っていながら、サボれる時は全力でサボろうとする。
私は小さくため息をつきつつ、オフィトが崩れ落ちた床にサッと膝当て用のクッションを滑り込ませた。
「オフィト様。スケジュールの全面崩壊については回避可能です。ご安心を」
「な、なに……?」
「私が一時的に大時計の代わりを務めさせていただきます」
私が静かにそう宣言すると、オフィトはすがるような目で私を見た。
「君が……?いや、いくら君が優秀なメイドだとはいえ、懐中時計一つ持っていないではないか。太陽の位置だけで狂いなく厳密な時刻を刻むことなど不可能だぞ」
「はい。私一人では不可能です。ですが中庭に無数にある生物時計を活用すれば、分単位でのスケジュール進行が可能となります」
「……ん?生物?」
オフィトが怪訝に眉をひそめる。
その横でサンダル履きのレルートが「へえ」と面白そうな顔をした。
「生物時計、ですか。なるほど、それはまた……面白い手品の種明かしが聞けそうだ」
私は懐からメモ帳を取り出し、教会の敷地内に植えられている植物の配置図を素早く開きながら、淡々と説明を始めた。
「光傾性と傾温度性。植物が光の強さや気温の変化に反応し、決まった時間に規則規則正しく花を開閉させる性質のことです。これを俗に『花の時計』と呼びます」
「は、花が時計の代わりになると言うのか……?」
「はい。例えば、朝の六時にはアサガオが咲きます。孤児院の子供たちの朝食の時間である八時には、タンポポが一斉に花を開く。そして午後の活動が始まる頃にはカタバミの花が閉じ始めます。私はこの中庭に咲くすべての植物の開閉時間をすでに分刻みでリスト化し、暗記しております」
私がそう言うと、オフィトは口をパクパクと金魚のように開閉させた。
時計塔の歯車ではなく、庭に咲いている花を歯車代わりにして時間を測るなど、彼の真面目な官僚的思考には絶対にない発想だろう。
「聖女様。本日の鐘の代わりは、中庭の花たちが担当いたします」
「お花が神様の鐘の代わり……?」
聖女様は顔をぱぁっと輝かせ、両手をポンと叩いた。
「素晴らしいです!本当に素敵なお時計ですね。私、今日はお花の時間係さんにお手伝いしていただきます!」
かくして教会の歴史上初めての「お花」によるスケジュール進行が幕を開けた。
***
「ノエル!見て、タンポポの花が開いてたわ!」
「はい。現在時刻、ちょうど午前八時を回ったところです。これより朝の祈りと朝食の時間となります」
「皆様、お食事の時間です!」
中庭の芝生にしゃがみ込み、黄色いタンポポの開花を確認した聖女様が、孤児院の子供たちに向かって元気よく手を振る。
本来であれば厳格な鐘の音に合わせて整列する時間だが、今日は「タンポポが咲いたからご飯」という、童話のような合図で子供たちが大喜びで食堂へと走っていく。
「ふむ……。午前十時、マリーゴールドが開花……スケジュール通り、図書室での学習の時間だな」
「オフィト様。あまり窓から身を乗り出すと落ちますよ」
「うるさいぞ、レルート。私は責任者としてメイド殿の『花の時計』が本当に正確なのかを監視しているだけだ」
執務室の窓辺ではオフィトが片手に書類を持ちながら、数分おきに中庭の様子を興味津々な様子で監視していた。
サンダル履きのレルートは、窓際のソファに寝転がりながら薄い茶をすする。
「しかし、あのメイドの知識とロジックは相変わらず大したものですねぇ。大時計の故障なんていうイレギュラーをあんなメルヘンな理屈で乗り切ってしまうんですから」
「全くだ……。王都の監査官にはどう報告しようかと胃が痛かったが……これならば『自然との調和を重んじた神聖な儀式の一環』とでも書類に書いて誤魔化せそうだ」
オフィトがほっとしたように胸を撫で下ろした。
彼の胃痛は、どうやら今日のところは引いたらしい。
「それにしても」と、オフィトは窓の外——お花畑の中でタンポポの綿毛に息を吹きかけ、子供たちと一緒に笑っている聖女様の姿を見て、ふと表情を和らげた。
「……あの方がああして幸せそうに笑っておられるのを見ると、私の悩みなど、ひどくちっぽけでどうでもいいものに思えてくるから不思議だ。胃薬を飲む量も最近は減った気がする」
「へえ、筆頭も丸くなりましたねぇ」
「馬鹿を言え。私は常に王都の威信と教会の規律を……こら!レルート!貴様は口を動かしていないでサボらずに書類の束を片付けろ!!」
「はいはい、すいませんねぇ。花が閉じたらやりますよ」
「今すぐやれェッ!!」
上司の怒鳴り声と、部下の間の抜けた返事。
いつも通りの教会の風景。
しかし、その背景に流れる空気は冷たい歯車の音ではなく、春の陽気のようにぽかぽかと温かかった。
***
「ノエル!スイレンのお花が閉じたよ!」
「はい。午後五時、夕方の祈りの時間です。……これにて、本日の『花の時計』による全スケジュール、トラブルなく進行完了いたしました」
「わーい!お花さんたち、今日はいっぱい教えてくれてありがとう!」
夕日に照らされた中庭で、聖女様は閉じたスイレンの花に向かって丁寧にお辞儀をした。
私もその後ろで静かに一礼する。
大人の悪意への対応(防衛)も嫌いではないが、今日のような平和な業務も、たまには悪くない。
「ノエル、今日はとっても楽しかったね!時計がなくても、お花を見てれば時間がわかるなんて、全然知らなかった!」
「ええ。光傾性と傾温度性という、植物の立派な生存戦略の一つです」
夕食を終えた夜。
聖女様の私室のデスクの上に、いつもの『観察ノート』が開かれる。
【今日はお花さんがカミサマの時計の代わりをしてくれた!タンポポが咲いたらご飯で、スイレンが眠ったらおやすみの時間!カミサマが作った一番素敵な時計だった!】
聖女様の大きな字の横には、文字盤の代わりにいろいろな花が描かれた、可愛らしい大きな時計の絵が添えられていた。
インクがはみ出しているが、今日の平和な一日を象徴する、とても良い絵だ。
私はその隣のページに、インクペンを静かに走らせる。
温度変化による植物細胞の膨張メカニズム。光に反応する化学物質の受容体。
それらを極めて几帳面な線で、正確な図表として書き込んでいく。
「あー、やっぱりノエルはまた小難しい魔法陣書いてるー」
「魔法陣ではありません。植物の環境応答システムを図解した学問です」
「ううん、魔法陣だよ」
聖女様は私の引いた直線の端っこに、小さな黄色いタンポポの絵を書き足した。
「だって、おじさまたちも全然怒ってなかったし、オフィトさん、今日は一回も胃薬飲んでなかったよ。ノエルの魔法陣がみんなの痛いのを治してくれたの」
「……それは私の手柄ではなく、聖女様の笑顔のおかげかと」
私はコンマ数秒だけ静かに目を閉じ、自分の書いた図表の余白に、オフィトの胃薬の瓶の落書きを小さく一つだけ書き加えた。
時計の針の音は聞こえない。
ただ、二人がノートに文字を書き込むカリカリという優しいペンの音だけが、春の静かな夜の部屋にいつまでも響いていた。
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20:00にもう1話を投稿予定です。




