第10話 不揃いなボブヘア、白と黒のコントラスト
私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。
右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。
この位置には意味がある。
聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。
そして何よりこの位置からであれば、楽しそうに揺れる彼女の無防備な背中と、黄金色の特大ポニーテールを常に特等席で眺めることができるからだ。
それが、ナナメ後ろに控えるメイド最大の役得である。
***
仕事のない平和な非番の日の午後。
私は教会の自室に設えられた簡素なスツールに真っ直ぐ座り、自分と等身大の鏡を無表情で見つめていた。
鏡の中に映っているのは、一人のメイドの姿。
そして、少なくともこの地方周辺では非常に珍しいとされる『深い黒髪』だ。
誤解のないように言っておくが、この黒髪が「不吉の象徴」だとか「忌み子として迫害される」といった類のエモーショナルで悲痛なオカルト伝承は一切存在しない。
ただ純粋に、血統的な理由でこの地方周辺では「極めて珍しい色素」というだけである。
街を歩けばたまに珍しがられて見られる程度で、実生活に支障はない。
むしろ私としては、闇夜に紛れやすく汚れが目立たないこの髪色は、この上なく実用性が高くて気に入っていた。
髪型は、効率至上主義の極みである。
前髪は、事務作業時に必要な150度の視界を確保するため、眉毛のラインに定規を当てたように一直線に切り揃えられた、完全なるぱっつん。
後ろ髪は、洗髪後の乾燥時間を最小限に留め、かつ動いた時に服の襟に引っかからないよう、肩のラインでピタリと均等に切り揃えられた実用的な髪型だ。
髪留めやリボンといった装飾品が付くべき余地は、1ミリも存在しない。
そして、その黒髪の隙間から覗くのは黒でも茶色でもない、色素の薄いアイスブルーの瞳だ。
光を吸い込むような深い黒髪と、冷たい冬の空のように無機質な青い瞳。
それが、鏡に映る『私』という人間の容姿だった。
私は机の引き出しから鋭い刃先を持った医療用に近いハサミを取り出し、前髪に向かって持ち上げた。
チョキリ、と空を切って刃の滑りを確認する。
「前髪の右端、基準値より3.2ミリ超過。襟足、左側に2.5ミリのブレ。これより自己メンテナンスを実行する」
誰に言うでもなく独り言を呟き、私は鏡を見ながら機械的な正確さでハサミを入れようとした。
その時である。
「あっ!ノエル、何してるの!?」
バタンッとドアが開き、元気な声と共に部屋に飛び込んできたのは、私の雇用主だった。
コンマ一秒で刃先を自分から遠ざけ、ハサミを背後に隠す。
「聖女様。休日の自己メンテナンスです。毛髪の長さが規定の効率基準値を超過しましたので」
「ええっ!いつも自分で自分の髪を切ってたの!?」
「はい。鏡とハサミがあれば十分ですので」
「だーめ!」
聖女様は私の背後に回り込み、スッとハサミを取り上げた。
「いつもワタシのポニーテール、ノエルが綺麗に梳いて結んでくれてるじゃない!だから今日は、ワタシがノエルの髪を切ってあげる!」
「……えっと。お気持ちは大変ありがたいのですが、聖女様の御手を私のような者のメンテナンスで煩わせるわけには」
「これはカミサマの言葉だと思って、そこに座って!」
……でた。最強の命令。
私が「はい」以外の言葉を返す隙を完全に封じられ、無表情のままコクンと頷くと、聖女様は「よーし!」と楽しそうに私の背後に回った。
「まずは、首にタオルをまいて……っと」
いつも私が立っている「ナナメ後ろ」の位置に、今は聖女様が立っている。
鏡越しに見える二人の姿は、まさに『完全な正反対』だった。
私の純粋な黒髪に対し、聖女様の髪はホワイトブロンドに近い。
しかし、ひとたび春の陽光がそこに透けると、途端に眩しいほどの「純金色の輝き」を放つ魔法のような髪色だった。
私のアイスブルーの冷たい瞳に対し、彼女の瞳はころころと表情を変え、あたたかい生命力と好奇心で常にキラキラと輝いている。
無機質な刃物のような私と、春の太陽そのもののような聖女様。
完全に白と黒。光と影。
どこからどう見ても正反対の二人だ。
だが、不思議と鏡の中に映るその強烈なコントラストは、まるでお互いの色を引き立て合うために存在しているかのように、調和を生み出していた。
「ノエル、動いちゃだめだよー」
「……はい」
聖女様の柔らかい指先が、私の黒髪の隙間に差し込まれ、首筋にそっと触れる。
温かい。
そして彼女の袖口からは、春の日向と甘いお花のような、とても心地よい匂いがふわりと漂ってきた。
ジョキッ。
耳元で少し不器用なハサミの音が響く。
他人に背後を取られ、首の近くで刃物を鳴らされるなど、普段の私であれば絶対に許容しない最大の死角にして危険行為だ。
だが、不思議なことに、私の心を満たしているのは警戒心でも不安でもなく、ただひたすらな心地良さだった。
(……心拍数、平熱時より15パーセント上昇。自律神経、極めてリラックス状態。……なるほど、これが『誰かに髪を触ってもらう』ということですか)
私は無表情のまま、温かい春の気配に全身を委ねた。
この時間が永遠に続けばいいのに。
そう思った直後だった。
「あっ……」
聖女様の極めて不吉な声が頭上から降ってきた。
「……聖女様?いま、あっ、と言いましたか?」
「ち、違うの!ちょっとね、ちょっとだけ右の後ろ髪が短くなっちゃったから、左側も少し切って長さを合わせるね!大丈夫だから!」
ジョキジョキッ。
「ああっ……!?」
また不吉な声がした。
「せ、聖女様?」
「待って!?左を切りすぎちゃった!右をもうちょっと……ジョキッ……ああっ!」
(……あ、これ、永久にバランスが合わなくてどんどん短くなっていく魔のループだ)
私はコンマ二秒で事態を把握したが、一切抵抗はしなかった。
たとえ私がこのまま丸坊主にされようとも、聖女様がやってくださっていることであるなら、それがこの世界の正解だからだ。
ただ、聖女様本人が半泣きになり始めたので、私は「聖女様、そろそろ通気性が最大値に達しました」と言って、そっとハサミを止めた。
***
「うぅぅ……ご、ごめんね、ノエル……っ」
出来上がったのは、定規で引いたように完璧だった「ぱっつん」とは似ても似つかない、全く新しいメイドの姿だった。
全体的に元の長さから三センチほど短くなり、肩から少し浮いている。
しかも毛先は絶妙にギザギザで不揃い。前髪も少し短くなり、アイスブルーの瞳がいつもよりはっきりと見えている。
まるで、元気いっぱいの子供が飛び跳ねて毛先を散らしているかのような、少し雑で隙のある不揃いな髪型。
「ワタシ、取り返しのつかないことを……!まさかこんなにガタガタになっちゃうなんて……うわぁぁん、ごめんねぇっ!」
鏡を見て本当に泣き出しそうになっている聖女様。
私は鏡の中の不揃いな黒髪を見つめ——コンマ一秒の躊躇すらなく、断言した。
「素晴らしいです、聖女様」
「ふ、ふぇっ……?」
私はスッと立ち上がり、左右に軽く首を振ってみせた。
普段よりも少し短くなった毛先が、ふわっと空気に乗って軽く揺れる。
「私の計算によれば全体的な髪の質量の低下により、首回りの空気抵抗が約12%削減されました。これは戦闘時の回避行動および事務作業時の首の疲労軽減において、劇的な効率化をもたらします」
「で、でも、毛先がギザギザで……」
「この不揃いな毛先は、あえて風を不規則に逃がすことで放熱効果を高める『空力学的アプローチ』と推測します。何より──」
私は振り向き、彼女の真っ白で細い指先を両手でそっと包み込んだ。
「何より……『聖女様が、私のために懸命にハサミを入れてくださった』というかけがえのない事実が、この髪に無限の付加価値を与えてくれています。今まで生きてきた中で今の髪型が、一番気に入りました」
私の言葉に嘘は一切発生していない。
整ったぱっつんの黒髪など、また数週間待てば勝手に生えてくる。
そんなものより私の黒髪に初めて残された、彼女の不揃いな痕跡が、たまらなく愛おしかったのだ。
「ノ、ノエル……っ!ホントに変じゃない!?怒ってない!?」
「怒る要素が1ミリも存在しません。極めて実用的かつ至高のデザインです」
私は全くの無表情で、確信を持って肯定した。
聖女様はようやくホッとしたように顔を綻ばせ、「よかったぁ……」とその場にへたり込んだ。
***
その日の夜。
いつもの『観察ノート』には、大きな文字で深く反省するような言葉が並んでいた。
【ワタシのバカ!自信満々でハサミを持ったのに、ノエルの髪の毛をガタガタのギザギザにしちゃった!涙。でもノエルは全然怒らなくてすごく優しかった。早くノエルの髪の毛が綺麗に伸びますように!】
聖女様の文章の横には、涙目で「ごめんなさい」と手を合わせる顔文字と、前髪が派手にギザギザになったノエルの絵が描かれていた。
私はその隣のページに、インクペンを走らせる。
「人間の頭髪の平均成長速度は、一日におよそ0.3〜0.4ミリ。一ヶ月で約1センチから1.5センチ」という文字に続き、一次関数の直線グラフを定規で正確に引き、元の長さに戻るまでの日数を算出する。
そしてグラフの下に、こう書き加えた。
『この究極の軽量化により、明日からの私の業務効率は3%向上する見込みである。実に完璧なメンテナンスであった。』
「あ、ノエル!魔法陣を書いて強がってる!」
「強がりではありません。物理的・感情的データに基づいた、揺るぎない客観的事実です」
「むーっ!ノエルの髪が元に戻るまで、ご飯の量を多めに入れてあげるからね!」
私は静かに目を閉じ、小さく息を吐いた。
白と黒。
正反対の私たちが並んでペンを走らせるこの机の上こそが、この世界で平和で美しい特等席なのだ。
こんな感じで二人の時間はゆっくりと流れていくと思います。
お時間合う時にお読みいただければ嬉しいです。




