第11話 清らかな水の証明、星屑の妖精
私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。
右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。
この位置には意味がある。
聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。
例えば、日が暮れてもじっとりとした空気がまとわりつくような、初夏の湿った夜。
蒸し暑さに耐えかねた聖女様が「うー、あついー」と襟元をパタパタさせるのと完全に同時に、冷やしておいた清潔な手拭いを首筋にそっと当てて差し上げることができる。
それが、ナナメ後ろに控えるメイドの仕事である。
***
季節は巡る。
つい先日まで肌を撫でていたぽかぽかとした春の気配は、少しずつ重たく湿った空気に変わり、本格的な初夏の訪れを告げていた。
この時期になると、雨が増え、植物も一気に背丈を伸ばす。
それは街の発展を司る領主にとって、極めて重要な意味を持つ季節でもあった。
「……だめだ。やはり私の力不足だ」
教会の応接室。
いつもは「なーっははは!」と大口を叩きながらマントを裏返して飛び込んでくる領主のヴェロアが、今日は完全にしおれきった様子でソファに沈み込んでいた。
「どうなさいました、ヴェロア様。お顔色が優れませんが」
「……いや。聖女殿のお気遣い、痛み入る。だが、これは薬で治る問題ではないのだ」
聖女様が心配そうに覗き込むと、ヴェロアは力なく首を振った。
彼女が抱え込んでいるのは、純粋な行政上の壁だった。
交易都市として急激に人口が増加しているこの街には、新しい水道の建設が急務となっていた。
しかし、それを実行するためには『王都による水源の安全認可』が必要不可欠となる。
そして現在、その認可を下すための査察官が、王都からこの街に滞在しているのだ。
「査察官殿は決して悪人ではない。むしろ、王都の役人として極めて優秀で真面目な男だ。だからこそ誤魔化しが利かない」
「誤魔化すって、何を?」
「彼に言われたのだ。『この街の郊外を流れる河川を新たな水源とする計画は素晴らしい。だが、あの川の上流が完全に無垢であり一切の生活排水や泥による汚染がないという明確な【証拠】を提示できなければ王都の印は押せない』と」
ヴェロアは両手で顔を覆った。
「無茶な話だ。見た目がいくら綺麗に見えようとも、本当に毒素や汚れが混ざっていないかを完全に証明することなど不可能だ。そんな神の目のような道具、この世界のどこにも存在しないのだから……!」
ヴェロアの悲嘆はあまりに当然だ。
水が完全に無害であることを視覚的に証明するなど、悪魔の証明に等しい。
「せっかく、この街の皆が美味しい水を飲めるようにと頑張ってきたのに……全部やり直しだ……」
悔しそうに肩を震わせるヴェロア。
普段はポンコツで大口ばかり叩いている彼女だが、その根底にあるのはどこまでも純粋な街の民草に対する責任感だった。
強欲な商人や悪徳な権力者が相手であれば、彼女はどれだけ泥を被ってでも立ち上がって戦うだろう。
物理的な防波堤としては最高に優秀な領主だからだ。
だが、今回立ち塞がっているのは人間の悪意ではなく、純粋な証拠不足という超えられない論理の壁だった。
剣や気合いでは、水質は証明できないのだから。
私は静かに応接室の窓を開けた。
外から入り込んでくるのは、風のないジットリとした初夏の重たい空気だった。
(室温25度。推定湿度、80パーセントオーバー。夕方から完全に無風……完璧な条件が成立していますね)
コンマ数秒で思考を切り替えた。
水質の完全な証明。その手段は、すでに自然界に用意されている。
自らの意思で動くべきではないのだが、水とあらば話は別だ。
「領主様。水質の完全なる証拠の件について、私が今夜、用意いたします」
「……は?」
「王都の査察官殿を説得するための絶対に揺るがない生物学的ロジックです。準備がございますので日没後、査察官殿を郊外の川辺へとご案内ください。聖女様もぜひご同行を」
私のあまりに淡々とした宣告に、ヴェロアはキョトンと目を丸くした。
「め、メイド……。お前、自分が何を言っているのかわかっているのか?証拠だぞ?」
「私をただのメイドだと侮っているのですか」
「一言も言ってないが!?」
「ヴェロア様、落ち着いてください。ノエルが用意すると申すなら、懸念は無用です」
聖女様が無条件の全肯定でヴェロアの手を引っ張り上げたことで、問答無用で今夜の視察が決定した。
***
日が完全に落ちた、初夏の夜。
街の郊外にある清流のほとりは街灯もなく、深い闇に包まれていた。
風は完全に止んでおり、草木が呼吸する湿った匂いだけが立ち込めている。
なお今回は夜間の郊外ということもあり、安全確保のために教会の運営委員であるレルートが護衛として同行している。
「はぁ……夜風にあたるのは嫌いじゃないですけどねぇ、これ残業代出ます?」と、相変わらずだらしないサンダル履きでぼやいているが、彼のような食えない実力者が背後に控えているだけで、夜の森でもいざという時の安心感は段違いだ。
「……領主殿。まさかとは思いますが、闇に紛れて私を川に突き落とし、水質問題を隠蔽しようなどという恐ろしい企みではありますまいな?」
「そ、そんなことをするわけがないだろう!私もなぜこんな暗闇に呼ばれたのかわかっていないのだ!」
ランタンを手にした王都の査察官が、胡散臭そうにヴェロアを睨む。
その後ろでレルートが「うちの領主様にそんな度胸はないですよ」と欠伸を噛み殺した。
査察官の言う通りだ。ただでさえ証拠がないと言っているのに、昼間よりも何も見えない真っ暗な夜の川へ呼び出すなど、常識的に考えれば頭がおかしい。
教会筆頭がここにいれば、間違いなく胃薬を持ったまま泡を吹いて倒れているだろう。彼は留守番にして正解だった。
「査察官殿。ランタンの灯りを消していただけますか。目が眩みますので」
「なんだと?何も見えなくなってしまうぞ」
「構いません。すぐに最高の光が見えますから」
私が淡々と指示を出すと、査察官はいぶかしげにしながらもランタンのカバーを下ろして火を消した。
瞬間、完全な暗闇が私たちを包み込む。
静かな水音だけが耳に響く。
「なんだ、結局何も見えな——」
査察官が文句を言いかけた、まさにその数秒後だった。
漆黒の対岸の茂みから、ふわり、と。
淡い、黄緑色の小さな光が一つ、宙に浮かび上がった。
「……ん?」
それに呼応するように足元の草の陰から、別の光が点滅を始める。
一つ、二つ、十、五十、百——。
「あっ……!」
聖女様が息を呑むような声を上げた。
水辺の草むら、木々の葉脈の裏、そして川面のすぐ上。視界のすべてを埋め尽くすように、無数の青白い光が一斉に明滅を始めたのだ。
何百という光の粒が、音もなく空中に舞い上がる。
暗闇の中、川の輪郭に沿って、まるで天の川がそのまま地上に降り注いだかのような、圧倒的で幻想的な光景だった。
「な、なんだこれは……!?魔法か……!?」
査察官が震える声でつぶやく。
ヴェロアもまた、あまりの美しさに口を半開きにしたまま完全に硬直していた。
私は聖女様のナナメ後ろの定位置をキープしたまま、平坦な事務処理用のトーンで口を開いた。
「発光生物、『ホタル』です」
「ホ、ホタル……?これが?」
「はい。発光物質を酸化させることで冷光を放つ、ただの昆虫の繁殖行動です」
身も蓋もない生物学的解説で浪漫を削ぎ落としながら、私は査察官の横顔をまっすぐに見据えた。
「査察官殿。ホタルの生態をご存知ですか」
「い、いや……私は王都の出なもので、このような光景は初めて見る」
「ホタルの幼虫は、川の泥の中ではなく、水底の石や水生苔の中で育ちます。彼らの生態系において最も重要な条件は『汚染の一切ない極めて純度の高い清流であること』です」
「——」
私の言葉に、査察官とヴェロアが同時にハッと息を呑んだ。
「彼らは嘘をつきません。上流からの生活排水の混入、わずかな泥の流入、あるいは水温の異常な変化。どれか一つでも欠ければ幼虫はたちまち死滅し、これほどの群生を維持することは不可能です」
私は大きく手を広げ、光の乱舞による天の川を指し示した。
「無風、高湿度、気温20度以上という完璧な気象条件が揃った今夜。この幾万の光の乱舞こそが、この川にあらゆる汚染物質が存在しないという、絶対的かつ最も美しい『生物指標』です」
沈黙が落ちた。
査察官は、目の前で点滅を繰り返す無数の光の粒一つ一つが、厳格な水質検査基準をクリアした合格印であるかのように見えているはずだ。
これほど説得力のある、生態系という名の完璧なロジックは他にない。
「……くっ」
見ればヴェロアが肩を震わせ、感動のあまりボロボロと大粒の涙をこぼしていた。
「み、見たか査察官殿!これが私の治める街の美しい水だ!いかなる嘘も偽りもない奇跡の清流なのだぞ!」
「……お見事です、領主殿。書類での証明などおよびもつかない至高の証拠を見せていただいた。……私としたことが認可書を忘れてきてしまったようだ。明日、一番に書類を作成しましょう」
査察官が厳格な顔を初めてほころばせ、深々とヴェロアに頭を下げた。
「ヴェロア様!報われましたね、おめでとうございます!」
「う、うおおおっ、聖女殿ぉぉっ!」
大喜びする聖女様と、マントを振り乱して泣きながら突撃してくるヴェロア。
私はヴェロアが突撃してくる軌道をコンマ一秒で計算し、聖女様が怪我をしないよう絶妙な角度で背中から支えに入り、物理的衝撃を完全に殺した。
ホタルの光があちこちを飛び交う中、聖女様は私の胸に寄りかかりながら無邪気に夜空を見上げた。
「ノエルが話していた難しいことは、私にはよく分かりませんが──」
彼女は自分の鼻先に止まった一匹のホタルを愛おしそうに見つめる。
「あまりの美しさに、空の星屑が清らかな水を求めて舞い降りてきたようです。まるで妖精のようですね」
相変わらずの完璧な超越解釈だ。
私は生物指標や酸化発光といったロジックを提示し、事務的な問題を解決したに過ぎない。
だが、その現象を神聖で幸せな奇跡として人々の心に定着させるのは、いつだって聖女様のこの一点の曇りもない笑顔なのだ。
「ええ。そうですね、聖女様」
***
帰還後。
教会の静かなデスクの上で、いつもの『観察ノート』が開かれる。
【川に星屑の妖精さんがいっぱい遊びにきてた!ヴェロアちゃんが嬉しくて泣いてた!これも全部、美味しいお水のおかげ!ご飯のときのお水がもっと美味しくなるの、楽しみだな!】
大きく乱れた元気な文字の横には、黒いインクで塗りつぶされた夜景に、黄色や緑のインクで無数の点がぽんぽんと散らされた抽象画のようなホタルの絵が描かれていた。
しかし、その光の粒の真ん中には、涙と鼻水を流しながら喜ぶヴェロアの顔と、微笑む王都の査察官の顔がしっかりと描き込まれている。
私はその隣のページに、極めて細いペン先で図表を書き込む。
川の流速データ。水温の変化グラフ。ホタルの成虫が発生するまでの積算温度の計算式。
それらを完璧なレイアウトで配置し、右下にこう添えた。
『認可完了。当街における水質問題は、生物指標の活用により完全に解決した。これにより街の兵站およびインフラ整備はスケジュール通り進行可能となる』
人間が引き起こした悪意のロジックを解くのも悪くないが、自然が作り出した現象を証明し、正面から大人の壁を突破するのも、なかなか悪くない仕事だ。
私はペンのインクを拭き取りながら、コンマ数秒だけ静かに目を細める。
初夏の訪れを告げるぬるい風が、窓の隙間からそっと吹き込んできた。




