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第12話 豪雨、泥だらけの聖女様

 私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。

 右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。

 この位置には意味がある。

 聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。


 例えば、初夏の強烈な日差しが降り注ぐ中。

 太陽の位置と時間の経過を完璧に計算し、聖女様に当たる日差しを常に99パーセントカットできる絶妙な角度で日傘を差し掛け続けることができる。

 それが、ナナメ後ろに控えるメイドの仕事である。


 ***


「ふう……随分と暑くなってまいりましたわね」

「聖女様。あと二畝ふたせで午前の作業は終了となります。水分補給を行ってください」


 初夏の日差しが照りつける南の丘。

 教会の裏手から少し歩いた先にあるなだらかな丘は、太陽の熱をよく吸収する肥沃な土地であり、私たちは孤児院の子供たちと共に野菜を育てる自家菜園として開墾を進めている真っ最中だった。


 当然だが、私は聖女様を無防備に夏の太陽の下へさらすような真似は絶対にしない。

 畑仕事をしている聖女様の服装は、私がこの夏のために特別に用意した「対日差し・完全防御農作業スタイル」だ。


 頭には、首の後ろまで完全に日陰にできるツバの広い特注の麦わら帽子。

 シャツは風通しが良くつつも肌を目地から透かさない厚手のリネン素材で、当然長袖。

 ズボンも足元まですっぽりと覆うゆったりとした構造のものを着用していただいている。

 さらには、植物から抽出した天然のクリームを露出しているわずかな手首や顔にミリ単位の隙間なく塗布済みだ。


 このメイドの目の黒い内は、いかなる強烈な日差しであろうとも、聖女様の純白の肌にダメージを与えることは不可能である。

 実際には無機質な青い瞳であることは、触れてはならない。


「ふう……冷たいお水が身に沁みます。ノエルも無理をしてはいけませんよ?」

「お気遣い痛み入ります。それよりも植えたジャガイモの苗がうまく根付くと良いのですが」

「ええ。きっと豊かな実りをもたらしてくれますわ」


 カンカン照りの太陽に負けず、麦わら帽子の下で聖女様が太陽そのもののような笑顔を見せる。

 一緒に作業を手伝いに来ている領主のヴェロアや、その荷物持ちに駆り出されている教会のレルートも、汗を拭いながら平和な初夏の一日を満喫していた。


 ——と、そこまでは良かった。

 空気が変わったのは、私たちが畑の隅の日陰で昼食のサンドイッチを広げようとした、まさにその時だった。


「……ん?」


 太陽が、急に陰った。

 見上げると、南の空から信じられないほどの速度で真っ黒な雲が湧き上がり、空を覆い尽くしていくのが見えた。

 同時に初夏の生ぬるい空気が、急激に冷たい強風へと変わる。


(積乱雲の急激な発達。気圧低下……これは)


「皆の者!荷物をまとめろ!夕立が来るぞ!」


 ヴェロアが空を見て叫んだ。

 初夏特有の局地的なゲリラ豪雨。

 直後、バケツを引っくり返したようなドシャ降りの雨が丘全体を猛烈な勢いで叩き始めた。


「うわあああ!濡れる濡れる!」

「急いで教会の屋根の下まで撤退しますよ!ほら、子供たちも走れ!」

「聖女様、こちらへ!」


 レルートやヴェロアが子供たちを誘導し、私も聖女様に雨除けのマントを被せようとした。

 雲が太陽を完全に覆い隠したため、日差しの脅威は完全にゼロになった。

 いまはただ、冷たい雨による体温の低下を防ぐことが最優先だ。


 しかし、聖女様は私の差し出したマントを受け取ろうとしなかった。

 彼女は大きく見開いた目で、私たちが先ほどまで作業をしていた畑の方を見つめていた。


「どうしたのだ、聖女殿!早く逃げないと風邪を引くぞ!」

「……お水が」


 聖女様の視線の先。

 開墾したばかりでまだ水はけの悪い畑の土が、尋常ではない量の雨水を受け止めきれず、みるみるうちに巨大な水たまりを形成し始めていた。


「いけません……!このままでは、苗たちが溺れてしまいます!」


 農業の基本に則った正しい判断だった。

 苗を植えた直後の土壌が冠水すれば、根腐れを起こして苗は完全に全滅する。


 大粒の雨が打ち付ける中、聖女様は突如として走り出した。

 彼女は被っていた特注の麦わら帽子をバサリと投げ捨て、泥だらけになるのもいとわずに畑の中央へと飛び込んだ。


「聖女様!?」

「私が抑えます!少しでもお水を逃がしてあげなければ!」


 日差し対策に身を包んでいたはずの清潔なリネンの服が、あっという間に真っ黒な泥水に汚れ、肌に張り付いていく。

 それでも彼女は全く気にすることなく、美しいホワイトブロンドの髪から滴る雨水を拭いもせず、素手と小さなクワで必死に水たまりの泥をかき出し始めた。


(……聖女様があの泥の中で作業を続ければ、制服の修繕確率は99パーセント。クリーニングにおける特殊洗剤の消費量は平時の3倍……)


 私は脳内で被害額を瞬時に弾き出し——しかし、コンマ一秒の躊躇すらなく、ロングスカートの裾を膝上まで豪快にまくり上げた。

 日焼けの心配がないのなら、私の仕事は一つしかない。


「領主様!子供たちを安全な場所へ!レルート様は私に続いてください!」

「お、おおっ!?」

「えぇ……俺も泥に入るんですか……」


 嫌がるレルートの襟首を掴み、私は聖女様のいる泥の中へと飛び込んだ。

 私の黒いメイド服とエプロンが、泥水を跳ね上げて重たくなる。

 だが、そんなものは想定内だ。


「聖女様!むやみに土をかき出しても逆効果です!こちらへ!」

「ノ、ノエル!?」

「水は流体力学上、高い水圧から低い水圧へと最も抵抗の少ない経路に沿って流れます!現在の丘の傾斜角を考慮し、この水たまりの中心から北東へ向かって三十度の角度で排水溝を構築します!」


 私はレルートからスコップを奪い取ると、無表情のまま凄まじい速度で泥の地面に「V字型の溝」を切り裂くように掘り始めた。


「流速の確保……溝の壁面は水流との摩擦係数を下げるために鋭角に!聖女様、そこの泥を右へ寄せてください!」

「承知いたしました。……精一杯、お手伝いします!」

「いけません、私も加勢しよう!領主が民の畑を見捨ててなるものか!」


 聖女様の必死な姿に突き動かされ、マントを脱ぎ捨てたヴェロアと、渋々といった様子のレルートも泥の中へ。

 大人四人と一人の聖女による、泥だらけの決死の排水作業が始まった。


 数分後。

 私が計算し尽くしたV字の排水ルートが完成した瞬間、畑に溜まっていた濁水はまるで意思を持っているかのように一斉に溝へと流れ込み、丘の下へと勢いよく排出されていった。


「……排水率、95パーセント。苗の生存ラインを確保しました」


 私がスコップを杖にして宣言した直後。

 先ほどの豪雨が嘘のようにサッと雨雲が引いていき、雲の隙間から西日が差し込んできた。


「はぁ……はぁ……終わった……」

「ひでえ泥だ……。せっかくの新品の靴が」


 ヴェロアとレルートが、畑のあぜ道に力尽きて倒れ込む。

 私も息を整えながら、泥だらけの手で前髪を払った。


「ノエル!」


 振り返ると、そこにいたのは「純白の聖女様」ではなかった。

 美しいホワイトブロンドの髪も、特別に仕立てたリネンの夏服も、上から下まで顔の半分すらも真っ茶色の泥でコーティングされた泥んこの女の子が立っていた。


「……お怪我はありませんか」

「ええ! ジャガイモたちを救うことができましたね。ノエル、あなたの働きは本当に見事でした。あのような速さで溝を掘り進めるなんて」


 聖女様は顔をほころばせ、泥だらけの腕で自分の服と私の服を指差した。


「見てください、ノエル。泥だらけなのは皆お揃いです。これこそが、命を守る者の色なのですね」


 夕日を浴びて、同じ茶色に染まった二人の姿。

 私はコンマ数秒静かに目を閉じ、メイドとしての体面など完全に無視して、泥だらけの自分のエプロンを誇らしく見つめた。


「はい。極めて優れた放熱性と泥の効果を備えた、最高の夏服です」

「えへへ、そうね!」


 ***


 その日の夜。

 教会の裏手で水を浴び、綺麗に泥を落とした後。

 いつもの『観察ノート』には、泥だらけになって笑う大人たちの姿が描かれていた。


【今日は大変だった!突然の雨でジャガイモさんが溺れそうになったけど、みんなで泥んこになって助けたよ!ノエルも畑のドロボーさんをやっつけるみたいにすごい勢いで溝を掘ってくれた!】


 ……相変わらず表現が少しずれているが、因果関係は合っている。

 私はその隣のページに、泥のついた手で触ったため少し茶色く汚れている余白を避けながらペンを走らせる。


「流体力学に基づいた効率的な排水により、苗の生存率は99%と推測される。また、今回の作業においては日差しの脅威が完全に排除された状況下であったため、泥水を浴びる労働による副次的な肌ダメージはゼロであった」


「あ、ノエルまた強がりの魔法陣書いてるー!」

「強がりではありません。日差し対策が実を結んだ証です。泥は水で落ちますが、日差しによる肌へのダメージは蓄積されますから」

「むー。じゃあ明日は、ノエルにも麦わら帽子かぶらせてあげるもんね!」


 私は静かに口角を上げ、わずかに泥のシミがついたノートの端を指先でそっと撫でた。

 予想外の夕立も、計算外の泥汚れも。

 彼女と一緒の「おそろいの色」になれるのであれば、たまには悪くない。


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