第7話 陽炎、呪われた土地
私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。
右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。
この位置には意味がある。
聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。
例えば、ぽかぽかとした春の陽気に誘われて、聖女様が無防備に大きなあくびをした時。
私はすかさず、誰の目にも触れない角度でその口元や、涙ぐんだ目尻をそっとハンカチで隠すことができる。
それが、ナナメ後ろに控えるメイドの仕事である。
***
本格的な春の到来を告げる南風から数日が過ぎた。
気圧配置は完全に安定し、空には絵に描いたような薄い羽衣のような雲が浮かんでいる。
日中の気温は上着がいらないほど上がり、まさに「春爛漫」といった言葉がふさわしい時期に突入していた。
教会の裏手、少し歩いた先にあるなだらかな南向きの丘の上に、私たちは立っていた。
「わあ……!お日様がいっぱいで、とってもいい気持ち!」
聖女様が両手を大きく広げ、春の光を全身に浴びてキラキラと笑う。
その後ろ姿を見守りながら、私は手元の用地図面にチェックを入れていた。
現在、教会が奉仕する孤児院では育ち盛りの子供たちが増え、食費のやりくりに頭を悩ませている。
そこで、街から南に少し離れた場所にある丘を開墾し、子供たちと一緒にジャガイモやニンジンを育てる自家菜園を作る計画が持ち上がっていたのだ。
本日はその現地視察である。
「土もふかふかだし、きっと美味しいお野菜がいっぱい育つね、ノエル!」
「はい。日照条件は申し分ありません。近隣に水源もあるため初期の開墾労力さえクリアすれば、極めて生産性の高い農地となる見込みです。兵站の観点からも、自給率の向上は教会の財務を劇的に改善します」
「んもう、ノエルはすぐお金と補給の話にするんだから。子供たちが土いじりをして喜ぶ顔が一番の収穫でしょ?」
「精神的恩恵も費用対効果の一部として計上しております」
私が淡々と答えると、聖女様は「可愛くないなぁ」と頬を膨らませた。
だが、この極上の菜園計画に厄介な横槍が入ろうとしていた。
丘の麓から、息を切らしながら登ってくる一団があった。
教会の運営委員の老人たちと、この街の土地売買を牛耳る裕福な地主だ。
地主はぎらぎらとした欲望に満ちた目を持ち、袖口のすり切れない上等な絹の服を着ている。
私はバインダーをすっと胸に抱え、コンマ二秒で営業用の「ただの無学なメイド」の無表情を作り、聖女様のナナメ後ろへと後退する。
「おお、聖女様。丘に自ら足を運ばれるとは」
「こんにちは。本日はこの丘を子供たちの畑にするための視察なのです」
「……あー、その件でございますがな、聖女様。そして運営委員の皆様」
地主はわざとらしく重々しいため息をつき、ひどく悲痛な表情を作ってみせた。
「私は皆様の計画をお聞きし、心配で夜も眠れなかったのです。この土地は……畑になどしてはいけません!いえ、それどころか、ただちに私へ二束三文でもよいので売却し、手放すべき『呪われた土地』なのです!」
「な、呪われた土地だと?」
運営委員の老人たちが動揺し、ざわめき始める。
地主は丘の中心、最も日当たりの良い平坦な部分を大げさに指差した。
「どうか、あそこの地面の少し上を目を凝らしてよくご覧ください!空気がぐにゃぐにゃと歪み、不気味に蠢いているのがお分かりいただけるでしょう!」
言われて聖女様と委員たちが目を凝らす。
確かに、地主が指差した先——太陽の光をたっぷりと吸収している土の上数十センチの空間が、透明な水が混ざり合うように、ゆらゆら、ぐにゃぐにゃと頼りなく歪んで見えた。
向こう側の景色が、まるで蜃気楼のように揺らめいているのだ。
「あ……本当だ。空がゼリーみたいに揺れている」
「聖女様、あれこそが恐ろしい瘴気の可視化現象です!この土地は冥界に通じており、温かくなるとあのように毒の息を吐き出すのです。あんな瘴気を吸った泥で野菜を作れば、子供たちは間違いなく原因不明の病に倒れるでしょう!」
「子供たちが病気に……」
聖女様が顔を青ざめさせ、口元を押さえた。
運営委員たちは恐怖に駆られ、「そんな恐ろしい土地だとは知らなかった」「すぐに地主殿に買い取ってもらい、損切りをした方がよい」と口々に言い始めている。
(……なるほど。そういう手口か)
私はナナメ後ろで冷ややかに分析していた。
地主は、この丘が農業にとってこれ以上ないほどの「超優良物件」であることを知っているのだ。
だからこそ、オカルトめいた言いがかりをつけて教会から捨て値で巻き上げ、自分の農園にしようと企んでいる。
あの男の靴の裏には、事前にこっそりこの土地の土質を調べたであろう、肥沃な黒土がこびりついている。
私は白紙のメモ帳の隅に、音もなくペンを走らせた。
あの「ぐにゃぐにゃと揺れる空気」の正体。
あれは呪いでも瘴気でもない。
気象学的に説明のつく、ごくありふれた光学現象だ。
春の強い直射日光によって、黒っぽく乾いた土の表面は急速に熱される。
しかし、まだ春先の上空の空気は冷たいままだ。
地面付近の高温の空気と、その上の冷たい空気。
この極端な温度差を持った二つの空気の層が混ざり合う時、光が不規則に屈折して景色が揺らぐのだ。
俗に『陽炎』、あるいは熱気による蜃気楼と呼ばれる現象である。
そして、この陽炎がこれほどはっきりと発生するということは、この土地が「凄まじい効率で太陽光の熱を吸収する、水はけの良い極上の土壌」である何よりの証明に他ならない。
売却など言語道断。
この防衛ラインは、ここで死守しなければならない。
私は地主が売却の同意書を取り出し、聖女様に署名を迫る寸前で、スッと前に出た。
「聖女様。お髪に枯れ葉がついております」
とん、と、聖女様の肩に触れるふりをして彼女の視界のど真ん中に、指先に挟んだ小さな紙切れを提示した。
『ただの光の曲がり現象。極上の畑の証拠。断れ』
聖女様の大きな瞳が、そのたった三行の無機質な文字を捉える。
彼女は一瞬で表情を変え、地主からスッと一歩距離を置いた。
「——地主様。ご心配いただきありがとうございます。でも、この土地を手放したりはしません」
「な、何を言っておられるのです!あの恐ろしい瘴気が見えないのですか!? 子供たちが死んでも——」
「死にません。だってあれは呪いなんかじゃないもの」
聖女様は、ぐにゃぐにゃと揺れる空間に向かって愛おしそうに両手を広げた。
ノエルが出した『光の曲がり現象』というロジカルな解答は、聖女様のフィルターを通ることで、いつも通り凄まじい超越解釈を引き起こす。
「あれはね、お日様の光をいっぱい浴びて、地面が『温かいよ!』ってうれしくて大きな深呼吸をしているの。だって空の光が楽しそうにダンスしているじゃないですか!」
「空の光のダンス……?は、はぁ!?」
地主が間抜けな声を出す。
もちろん、私はダンスをしているなどとは一言も書いていない。
だが、聖女様が純度100%の笑顔であの現象を肯定したことで、場を支配していた不気味な瘴気という恐怖の空気は一瞬にして霧散した。
「それに、あれだけ元気に土が息をしているなら、きっとすごく良いお野菜ができる極上の畑になりますよ。ね、ノエル!」
「はい、聖女様の仰る通りです」
聖女様から説明をするよう促されるが、私はナナメ後ろから動こうとはしなかった。
以前、申し上げられていた私への「正当な評価」を聖女様は実行してくれている。
しかし、このタイミングで行うとは。想像のナナメ上を行く人である。
このまま黙っていたら、陽炎が消えるまで待ってしまいそうだ。
膨らみつつある聖女様の頬を、私は見つめながら口だけを動かすことにした。
「あの現象に毒性はありません。春の強い日差しで地面周辺の空気が急激に熱せられ、上空の冷たい空気と混ざり合うことで光の屈折——つまり光の曲がりが発生しているだけの現象です。俗に陽炎とも呼ばれます」
「ひ、光の屈折……だと?」
「はい。さらに言えば、あれは土壌が豊かで熱を吸収しやすい証拠。つまりそこは、地主様ご自身が喉から手が出るほど欲しがる『極上の優良農地』に他なりません」
私は淡々と事実を突きつけ、彼の靴の裏についた黒土を一瞥した。
「二束三文で騙し取ろうとした算段でしょうが、査定が甘すぎましたね。聖女様には、あの陽炎が豊穣のサインだと最初から見抜いておいででした」
「ぐ、ぬぅ……っ!ただのメイドの分際で生意気な口を……っ!」
「私はただの無学なメイドですので専門的なことは存じ上げませんが、聖女様の直感は常に正しいと信じております」
私は完璧な営業用スマイルを浮かべて一礼した。
運営委員の老人たちも地主が不当に土地を騙し取ろうとしていたことに気づき、「ふむ、確かに日当たりは抜群だ」「まんまと騙されるところだった」と地主を冷ややかな目で見ている。
「ちぃ……っ!勝手にしろ!出来そこないのジャガイモでも作るがいい!」
地主は捨て台詞を吐き、苛立たしげに足音を立てて丘を下っていった。
老人たちも「鍬の準備をしよう」と頷き合いながら教会へ戻っていく。
静かになった丘の上に、私と聖女様だけが残された。
「ふふっ。おじさま、真っ赤な顔して逃げてっちゃったね」
「欲に目が眩み、気象学的な基本現象をオカルトで飾ろうとした自業自得です」
「でもノエルのおかげで、ここが極上の畑だってわかったわ!ありがとう!」
聖女様が屈託のない笑顔で振り返る。
春の陽光を受けて、彼女の背中の特大ポニーテールがさらさらと風に揺れる。
その後ろの景色はいまも陽炎のせいでぐにゃぐにゃと夢のように揺らめき続けている。
「さあ、ノエル。問題を解決したことだし、あの『光のダンス』の真ん中でお茶にしよう!」
「……お言葉ですが聖女様。本日の視察業務は終了しました。事務仕事が山積しておりますので速やかに戻るべきです」
私は予定表を見せながら帰還の合理的理由を提示したが、聖女様は全く意に介さず、腕組みをして胸を張った。
「だーめ!ワタシはいま、春の匂いがいっぱいのこの丘の上でノエルの淹れたお茶が飲みたいの。あの陽炎ってやつを一番近くで見ながらね」
言葉を切り、彼女は楽しげにウィンクをした。
「カミサマの言葉だと思って、そこに敷物を敷いて座りなさい!」
それは、教会という組織の頂点に立つ聖女としての、絶対不可侵の業務命令だった。
……この人がこの台詞を使った時、私がそれに逆らえた試しはない。
「……承知いたしました。十五分お待ちください。保温瓶のハーブティーと、お茶菓子を用意してまいります」
「やったー!いつものクッキー多めでお願いね!」
私は小さくため息をつき、荷物を取りに一度教会へと引き返した。
***
ゆらゆらと揺れる陽炎のすぐ真横。
ぽかぽかと温かい土の上に広げられたピクニックシートで、私たちは並んでお茶を飲んでいた。
カモミールティーの香りが、春の風に乗って溶けていく。
陽炎越しに見る眼下の街の景色は、水の中に沈んだように歪んでいてとても不思議で、圧倒的に平和だった。
やがてお茶の時間が終わりに近づき、私たちはいつものように『観察ノート』を開いた。
「今日の陽炎、なんだか妖精さんが踊ってるみたいでとってもきれいだった!」
聖女様はご機嫌な鼻歌を歌いながら、大きな文字で楽しそうに書き連ねていく。
【土が温かくて大喜びしていた!春の光がダンスして地主のおじさんをびっくりさせて追い払ってくれた!ここにいっぱいお野菜の種をまく!】
文章の隣には、ぐにゃぐにゃと揺れる線の中で顔文字のような妖精が踊っている抽象画が描かれている。
私はその隣のページに、インクペンで細い線を引いた。
地表の温度「高」から、上空の温度「低」に向かう矢印。
その温度勾配によって屈折していく光の曲がり線を定規を使って几帳面に図解する。
「あ、また小難しい魔法陣書いてる。ノエルはいつもそうだね」
「光学現象のデータ記録です。この時期に陽炎が発生する土壌は地温の上昇が早く、種まきの時期を二週間前倒しできるという貴重な証拠となります」
「ふふっ、理屈はわかんないけど。でも──」
聖女様は私の図解の隣に、大きなジャガイモとニンジンの絵を無邪気に書き足した。
「ノエルの見つける魔法は、いつも泥んこに隠れた宝物を見つけるみたいで、すごく楽しいよ」
嘘を見抜き、土地を守り、子供たちの食糧問題も解決する最適解。
私はコンマ数秒静かに目を閉じ、彼女が描いた歪なジャガイモの絵の横に「極上の畑」という短い承認の文字を書き添えた。
春の陽炎が揺れる丘の上で、二人でノートに文字を書き込むカリカリという小さなペンの音だけが、のどかに響き続けていた。
20:00にもう1話を投稿予定です。




