第6話 春一番、踊るポニーテール
私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。
右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。
この位置には意味がある。
聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。
例えば、朝の光を浴びた彼女が、ふと季節の移ろいを感じて窓辺で背伸びをした時。
私はすかさずその日の気温と風向きに完全に適応した薄手のショールを、そっと肩にかけることができる。
それが、ナナメ後ろに控えるメイドの特権である。
***
季節は冬から春へと、明確にその輪郭を変えようとしている時期だった。
分厚い雲に覆われたり、刺すような冷たい雨が降ったりした日々を越え、今朝の空気にはどこかこれまでとは違う重さがあった。
「おはようございます、聖女様。起床の時間です」
私はいつものように寸分の狂いもない定刻に寝室の扉をノックし、静かに足を踏み入れた。
分厚い遮光カーテンを左右に引き開けると、朝の光……というよりは、少しぼやけた生ぬるい日差しが室内に流れ込んだ。
ベッドの上には、今日も見事に丸まった特大の毛布の球体がある。
「……んぅ……ノエル、おはよぉ……」
「朝です。本日は午前中に教会の運営委員との顔合わせ、午後は面会と視察が控えております」
「あと……五分……」
「本日の五分間延長は認可できません。ただちに起床し、身支度を開始してください」
私が容赦なく毛布を剥ぎ取ると、聖女様は「冷たーい!」と身を縮める……はずなのだが、今朝は少し様子が違った。
「あれ……?なんか、あんまり寒くない」
「はい。昨晩から急激に気温が上昇しています」
聖女様はのそのそと起き上がりながら、ボサボサに爆発した髪の隙間から目をこすった。
私は彼女の後ろに回り、木製の櫛でその豊富な毛量を手懐ける作業に入る。
冬の間は乾燥で発生する静電気との戦争だったが、今朝の髪は幾分か纏まりやすく櫛通りが良い。
空気中の湿度が明らかに増している証拠だ。
「もう春が来たのかなぁ」
「暦の上では春ですが、本格的な『春の訪れ』は、また別のサインを待つ必要があります。油断は禁物です」
私はからまった毛束を高い位置へ集約し、彼女のトレードマークである特大ボリュームのポニーテールへとまとめ上げた。
結い上げられた結び目のてっぺん部分が、ふんわりと元気よく立ち上がる。
よし。今日も完璧な防衛陣形だ。
「ノエルの言うことって、いつもお堅いんだから。でも、今日は絶対お外でご飯食べたら気持ちいいよ!」
「昼食はホールでとる予定です。……ですが、午後の空き時間に中庭でお茶を淹れる準備はしておきましょう」
「やった!ノエル大好き!」
聖女様の単純で暴力的な好意の表明に対し、私はコンマ数秒も目を閉じず「業務上の手配です」とだけ返した。
ただ、私自身もこの生ぬるい空気になぜか妙な胸騒ぎを覚えていたのは事実だった。
***
正午を回った頃。
教会の応接間に、面倒な客がやってきた。
街の中央で日用品や燃料を広く手広く扱っている中堅の商流を取り仕切る男だ。
恰幅がよく、高そうなベルベット製の衣服を着込んでいるが、目玉だけが常に損得を計算して落ち着きなく動いている。
私は聖女様のナナメ後ろに立ち、手元のメモ帳にペンを走らせるふりをしながら、男の足元から首元までをコンマ二秒でスキャンした。
新しい革靴だが、つま先の泥の跳ね方が乱暴だ。焦っている。
衣服からは、密閉された倉庫独特の防虫剤の匂いが微かに漂う。
「——いやぁ、聖女様。本日は教会の皆様のために特別なお知らせを持参いたしました」
男は揉み手をしながら芝居がかった大仰な声で言った。
聖女様を挟んで向かい側には、教会の運営委員の老人たちが数名、難しい顔をして同席している。
「特別なお知らせ、ですか?」
「はい!ずばり『大寒波の戻り』に対する、究極の救済プランでございます!」
男がテーブルの上にどんっと置いたのは、大量の高給な備長炭と分厚い冬用の毛布の発注書だった。
運営委員の老人たちが怪訝な顔でそれを見る。
「大寒波の戻り?何を言っている。今日はこんなにも暖かく、いよいよ春本番かという陽気ではないか」
運営委員の一人が窓の外を指差して言った。
確かに現在、外は厚い雲に覆われているものの、春と見紛うばかりの生ぬるい空気に包まれている。
だが、男はニヤリと気味の悪い笑みを浮かべた。
「そこです!そこが自然の恐ろしい罠なのです!私が懇意にしている気象学者によりますと、この突然の暖かさの後には数年に一度の『殺人的な寒波の戻り』がやってくるとのことです。明日の朝には気温が一気に落ち込み、数日は猛吹雪が続くと!」
「な、猛吹雪だと!?」
「はい!もし備えがなければ教会の関係者はおろか、孤児院の小さな子供たちはひとたまりもありません。凍えてしまいますぞ!」
老人たちの間にどよめきが走った。
「孤児院の子供たち」という言葉が出た瞬間、聖女様の表情がこわばった。
「子供たちが、凍えて……?」
「そのとおりです、聖女様!慈悲深き貴女様であれば、子供たちが寒さに震える姿など見過ごせますまい!今なら私の倉庫にある冬用燃料の在庫を特別価格——そう、市価のたった一割増しで教会に優先的にお譲りいたします!これは神の思し召しと言っても過言ではありません!」
商人の底の浅い嘘を、私はナナメ後ろで冷ややかに分析していた。
(……なるほど。「在庫過多」の処分か)
この冬は事前の予測よりも温暖な日が多かった。
男はおそらく大量に仕入れた冬用燃料や防寒具の在庫を抱え、春が来る前に売り抜けられずに焦っているのだ。
靴についた泥と防虫剤の匂いは、直前まで倉庫の奥底を引っ掻き回していた証拠。
「特別な気象学者」のくだりなど、恐怖を煽って今日中に無理矢理契約書にサインさせるための三流の詐欺話に過ぎない。
だが、教会の運営委員たちは保守的でリスクを恐れる。
『もし本当に大寒波が来たら、責任問題になる』
『特別枠だと言うし、子供たちのためなら多少の出費は……』
彼らの心はすでに、男の作り上げた偽物の恐怖に傾いていた。
「さあ、聖女様。どうかこの発注書にサインを!迷っている時間はありませんぞ。今夜にも冷たい吹雪がこの街を襲うのですから!」
男が身を乗り出し、ペンを聖女様に差し出した。
聖女様はペンを受け取り、震える手で発注書を見つめた。
「……子供たちが寒くて震えるのは……絶対に嫌」
純度100%の善意。
他者の危機を想像しただけで心を痛め、子供たちを守るためならどんな不利な契約でも判を捺してしまう。
それがこの人の圧倒的な長所であり、最悪の弱点だ。
私は深呼吸を一つし、自分の懐にある小さなメモ帳を滑り出させた。
このまま無駄な契約を結ばせるわけにはいかない。
論理で説得するのは時間がかかる。恐怖に縛られた老人たちの洗脳を解くには、もっと強烈で、物理的で、圧倒的な事実が必要だ。
私は応接間の窓ガラスが先ほどから微かに、しかし規則的なリズムで「ガタ、ガタ」と鳴っていることに気づいていた。
南側の窓だ。
気圧計を見るまでもない。この生ぬるい空気の正体。急激に低下する気圧。南から入り込む強烈な湿気。
間違いない。あれが来る。
寒の戻りなどという嘘っぱちを根底から物理的に粉砕する強力な援軍。
私はペンを握る聖女様の手が発注書に触れる寸前、ナナメ後ろから「失礼いたします」と極めて事務的な動作で割り込んだ。
お盆の上のティーカップを下げるふりをして、聖女様の視界の端にスッと一枚の紙切れを差し込む。
聖女様が、わずかに目を丸くした。
『この人は嘘つき。あと10秒待て。大きな風が吹く』
私は感情を完全に殺し、書類にペンを落とそうとする聖女様を見つめた。
私の紙切れを見た聖女様の瞳孔が、一瞬だけ揺れる。
男が忌々しそうに私を睨んだ。
「なんだねメイド!邪魔をするな、今は重要な契約の最中だぞ!」
「大変失礼いたしました。新しいお茶の葉とインク壺をお持ちしたまでです」
私は一歩下がり、元の『ナナメ後ろ』の位置へ戻る。
残されたのは、聖女様の決断だけだ。
大人の恐怖を信じるか、ナナメ後ろのメイドの紙切れを信じるか。
聖女様は顔を上げ、男と震える運営委員たちを真っ直ぐに見据えた。
その手から、すっとペンが離される。
「——皆様、落ち着いてください。契約書へのサインは、まだ待つべきです」
「な、何を言っているのです聖女様!子供たちが凍え死んでもよいのですか!」
「そのようなことは起こりません。……何故なら、この方は嘘をついておいでですもの」
「う、嘘だと!?聖女様、この私を詐欺師呼ばわりなさるおつもりか!」
男が激昂して立ち上がった。
委員たちも狼狽え、「聖女様、滅多なことをおっしゃるな」と止めに入る。
だが、聖女様は全く怯まず、胸を張って言い放った。
「私には分かります。あと十秒もすれば、神様からの『本当の春の使者』が、皆様のもとへやってまいります!」
「は……?」
「皆で数えましょう!神様のお告げの時間を!十、九、八……!」
突然始まった聖女様のカウントダウンに、応接間の大人たちは完全にポカンとした。
私もポカンとした。
「あと10秒待つように」とは書いたが、まさか本人に向かってカウントダウンを始めるとは思わなかった。
この人の超越解釈は、相変わらず予測のナナメ上を行く。
「な、何を馬鹿なことを……!七、六……いや、私が数えてどうする!」
「五、四、三……」
「やめなさい!こんな茶番につきあってられるか!凍えても知らんぞ!」
「二、一……ゼロ!!」
聖女様が両手を天に向かって高く掲げた。
その瞬間。
——ドゴンッ!!
応接間の大きな南側の窓が、留め具を引きちぎるような凄まじい轟音とともに内側へ弾け開いた。
「ひっ!?」
大人たちの悲鳴を掻き消すように、外から猛烈な目を開けていられないほどの強大な突風が部屋の中を真っ直ぐに吹き抜けた。
「うわあああっっ!」
突風はテーブルの上の発注書を空高く巻き上げ、書類の束を吹雪のように部屋中に散乱させた。
それ自体がまるで一個の生き物のように暴れ狂う風の塊。
だが、その風は冷たくなかった。
「……あ、あたたかい!?」
男が悲鳴のような声を上げた。
そう。窓から吹き込んできたのは、息が詰まるほど暖かく、湿り気を帯びた強烈な南風だった。
室内の温度が一瞬で跳ね上がり、分厚い冬服を着込んだ老人たちと商人は、一斉に汗を吹き出し始めた。
「これこそが真の『春の使者』です」
風の轟音が響く中、私は淡々とよく通る声で宣告した。
「これは『春一番』。本格的な春の到来を告げる南からの強烈な暖気流です。この尋常ではない湿気と温度の上昇。明日の朝が氷点下になるなどという現象は、起こり得ません」
「は、春一番……!?」
「在庫処分のための『大寒波』の嘘はこの瞬間、神の御心たる春の風によって完全に否定されました」
私は散らばった発注書の一枚を靴の裏で踏みつけ、無表情のまま男を見下ろした。
男は滝のような汗を流しながら、暖かく湿った暴風の中でガタガタと震えていた。
嘘が完全にばれ、最悪のタイミングで物理的な「春の証拠」を叩きつけられたのだ。
「ひっ、い、いや、私はただ、誰かから聞いた噂を……っ!」
「……子供たちを寒さで脅かすなんて、許さないわよ」
聖女様が、吹きすさぶ風の中で静かに言った。
彼女の背後にそびえる特大のポニーテールが、春の強風を受けてまるで炎のようにバサバサと荒々しく踊り狂っている。
その神々しさと嘘に対する純粋な怒りを含んだ瞳に射抜かれ、男は腰を抜かした。
「ひぃいいっ!も、申し訳ございませんでしたぁぁっ!」
商人は発注書を拾うこともせず、転がるように応接間から逃げ出していった。
後に残された保守的な運営委員たちも、暑さと気まずさでハンカチを取り出し、そそくさとその場を後にする。
風は数分でピークを過ぎ、嘘のように穏やかになり始めたが、部屋の中に持ち込まれた鮮烈な春の暖かさは確固としてそこに残っていた。
「皆様、お帰りになりましたね。お疲れ様でございました」
「んーっ!風が気持ちよかったー!」
聖女様は、ぱぁっと顔を輝かせて窓辺に駆け寄った。
大人の醜悪な思惑が去った今、彼女は暴風によってぐちゃぐちゃになった応接間の惨状など気にも留めず、ただひたすらに外の暖かい空気を肺いっぱいに吸い込んでいる。
「ノエルの教えてくれたとおりだった!本当にカミサマからの春の使者が風に乗ってやってきたね!」
「私は『風が吹く』と事実を伝えただけです。それを『春の使者』という宗教的な奇跡に変換したのは聖女様ご自身です。相変わらず、その強引とも言える情報変換能力には恐れ入ります」
「えへへ、褒められちゃった!」
「褒めていません。事実の確認です」
私は乱れたポニーテールを手櫛でわずかに整えながら、深く静かな安堵の息を吐いた。
子供たちの安全を盾に取られ、不利な契約という泥を被る前に、自然現象という最強の盾を用意できたのは幸運だった。
「ねえ、ノエル。こんなに暖かくなったんだから、さっき約束してくれた通り、お庭でお茶にしましょう!」
「……ただいま応接間の散乱した書類を回収しなければならず、私の業務は立て込んでおります」
「えー。でも今日の風、お花のいい匂いが混ざってたよ。中庭の蕾、絶対に開いてるって!」
「植物の開花と私の書類整理は無関係です」
「むーっ!ワタシがノエルのお茶をお庭で飲みたいの!カミサマの言葉だと思って準備しなさい!」
カミサマの言葉だという大義名分を、お茶会開催の法的根拠として振りかざされても困ります。
それに、先ほどの春一番で中庭には相当な砂塵が舞い込んでおり、テーブルを拭き上げるだけでも手間が三割増しになるというのに。
だが、この人が一度こう言い出すと、さっきの春一番よりも頑固なことはよく知っている。
このまま押し問答を続ければ、せっかくの春の陽気が無駄に流れてしまうだけだ。
「……承知いたしました。十五分お待ちください。特製の冷たいお茶をご用意します」
「やったー!待ってるね!」
聖女様は満面の笑みで中庭へと駆け出していった。
私は散らばった商人の契約書を拾い集めながら、小さく首を横に振った。
――あの悪徳商人がこの場に一つだけメリットを残していったとすれば。
彼が部屋の温度を不必要に上げ、冷や汗を流してくれたおかげで、今年初めてアイスティーを淹れる完璧な理由ができたことくらいか。
***
その日の夕方。
窓を開け放ち、春の心地よい空気が流れる私室の机の上に、私たちは一冊の『観察ノート』を開いていた。
中庭でのティータイムは、聖女様の直感通り最高のものとなった。
春一番が運んできた暖気により、中庭の桜に似た小さな花が一斉にほころび始めていたのだ。
その花びらの下で飲む冷たいミントティーの味も悪くはなかった。
「今日は本当にすごかったね!ノエルの魔法、また見ちゃった!」
聖女様のペン先は、日中の公的な書類や手紙で見せる繊細で美しい筆跡とはまったく違う。
いつも通り、のびのびとした子供のような大きな字をノートに嬉しそうに書き殴る。
【春のカミサマが窓をドカーン!って開けて、変わった人を追い払ってくれた!ポニーテールがすごく踊った!髪の根元が痛いくらい!】
文字だけでなく、風に吹かれて荒ぶる髪と汗をかいて逃げるおじさんの絵が添えられている。
絵の芸術点は相変わらずだが、事の顛末は正確に表現されている。
「魔法でも神の使いでもありません。低気圧の発達に伴う、強い南風の気象現象です。急激な気温上昇はその副産物に過ぎません」
「ふふっ、ノエルはいつもそうやって難しい言葉で照れ隠しするんだから」
「照れ隠しではなく、科学的アプローチによる事象の定義付けです」
私は小さく息をつき、椅子に浅く腰掛けたまま、彼女の大きな字の隣にインクペンを走らせる。
等圧線の分布グラフと、暖かい南風が冷たい空気を押し退ける前線のメカニズムを小さく几帳面な字で完璧に図解していく。
「あ、また魔法陣書いてる!」
「天気図だと何度申し上げれば」
「ううん、ワタシには魔法陣に見えるの。だってこの線と数字のおかげで孤児院のみんなを守れたんだもん。ノエルが書いてくれた冷たくてすごく優しい魔法のお守り」
聖女様は満面の笑みでそう言うと、私の書いたグラフの端っこに小さなお花のマークを無邪気に書き足した。
二人のペンを走らせるカリカリという乾いた音だけが、開け放たれた窓からの春の微風に乗って静かに部屋を満たしていく。
「ノエル、明日もこのお花咲いてるかな?」
「春が来たのですから咲いているでしょう。これからしばらくは、毎日お庭でお茶が飲めますよ」
「やったぁ!」
聖女様が私の腕にぎゅっと抱きついてくる。
私はそれを引き剥がしはせず、ただ数秒間、彼女の頭頂部のふんわりとしたポニーテールの感触を堪能した。
大人の悪意を退け、子供たちの未来を守り、そして春のお茶会を確保する。
それが、ナナメ後ろに立つただのメイドの業務の成果である。
次回更新は明日の土曜12:00を予定しています。
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