第5話 初めての星空観測
私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。
右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。
この位置には意味がある。
聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。
例えば、見上げた夜空の広さと冷たさに、思わず彼女が小さく身震いをして欠伸をした時。
私は冷たい夜風が彼女の体温を完全に奪うより早く、その小さな肩を分厚い羊毛の毛布で包み込むことができる。
それが、ナナメ後ろに控えるメイドの特権である。
***
「ノエル、今夜はお星様が見たい!」
夕食後。暖炉の火が心地よく燃える私室の中で、聖女様が唐突に言い出した。
最近、私と一緒に『観察ノート』をつけることが日課になりつつある彼女は、日々新しい書き込みのネタを探すのに夢中だった。
本日の日中は特に変わった特記事項がなく、ノートのページを埋める材料に欠けていたらしい。
「夜間の外出は推奨いたしません。防犯上も、そして何より健康面においてもです」
私は手に持っていた明日の教会の備品発注書から目を離さず、即座に却下した。
「でもお庭のベンチならいいでしょ?すぐそこだし、安全だし」
「距離の問題ではありません。本日は日没から急激に気温が低下しています。わざわざ冷え切った外気を吸いに行く合理的な理由が見当たりません」
「だって、このままじゃ今日のノートが真っ白になっちゃうよ?それに、カミサマが創った夜空のキャンバスを、ワタシは自分の目でしっかり確かめたいの」
また訳の分からない詩的な理由を持ち出してきた。
だが、その真っ直ぐで不満げな瞳を見る限り、ここで「ダメです」と押し通しても、私が目を離した隙に薄着のまま庭へ飛び出す未来が容易に予測できた。
私は一度コンマ数秒だけ目を閉じ、脳内で現在の気温の低下推移と風速の計算を行った。
現在の室温と外気温の差。風の強さ。聖女様の基礎代謝と、防寒具による保温効果。
「……承知いたしました。ただし、観測は短時間のみとします。私が『撤収』と判断した時点で、速やかに室内に戻っていただきます」
「やった!今夜はずっと起きて、明け方まで星の瞬きを見守るわ!」
「明け方まで起きていられた試しがない方が言うと、実に現実味に欠けますね」
「ノエルは厳しい!」
私はため息をつきつつ、クローゼットから一番分厚い羊毛の毛布を二枚取り出し、さらに厨房へ赴いて保温瓶に温かいホットミルクとたっぷりの蜂蜜を仕込んだ。
完璧な防寒と素早い糖分補給。これさえあれば、短時間の夜間外出で風邪を引かせるリスクは最小限に抑えられる。
準備を整え、私たちは教会の裏庭へと足を踏み出した。
***
扉を開けた瞬間、刃物のように鋭い冷気が私たちの頬を撫でた。
街の灯りが届かない教会の裏庭は、深い闇に包まれている。だが、その闇を補って余りあるほどの無数の光の粒が、頭上いっぱいに広がっていた。
「わぁ……っ!」
聖女様が感嘆の声を漏らし、古い石造りのベンチの前で立ち止まる。
雲一つない夜空。まるで黒いベルベットの布の上に、砕いたダイヤモンドを撒き散らしたような見事な星空だった。
「ベンチが冷え切っていますから、そのまま座ってはいけません」
私は素早くベンチの上に持参した一枚目の毛布を厚く敷き詰め、聖女様をそこに座らせた。
さらにもう一枚の毛布で、彼女の肩からすっぽりとテントのように覆う。
「ふふっ、あったかい。ノエルも一緒に入ろ?」
「私はメイド服の防寒性が高いので結構です」
「遠慮しないでいいのにー」
私は保温瓶からホットミルクをカップに注ぎ、毛布の隙間から聖女様に手渡した。
カップから立ち上る白い湯気が、星明かりに照らされて淡く消えていく。
「ねえ、ノエル」
「はい」
「なんか今日のお星様、いつもよりすごくチカチカしてない?」
聖女様がホットミルクを両手で持ちながら、空を見上げて言った。
確かに、天頂付近で輝く一等星から地平線に近い小さな星まで、まるで呼吸をしているかのように、あるいは誰かに瞬きを送っているかのように、激しく明滅を繰り返している。
「本当だ。ピカピカしてる……」
「あれを『星の瞬き』と言います」
私は聖女様のナナメ後ろ——毛布に包まれた彼女の真横に立ち、同じ空を見上げながら淡々と解説を始めた。
「あれは星自体が点滅しているわけではありません。星と私たちの間にある大気、つまり上空の気流が激しく乱れている証拠です。星からの真っ直ぐな光が、乱れた空気の層を通ることで屈折し、私たちの目にはチカチカと瞬いて見えるのです」
「風が強いの……?」
「はい。遙か上空に強い寒気を伴った強風が入り込んでいます。この風は明日の朝には重力に従って地表に降りてくるため、明日はよく晴れますが、今季一番の冷え込みになるでしょう」
「そっかぁ……。お星様がピカピカしてるのは、冷たい風が吹いてるからなんだね」
聖女様は少しだけ寂しそうな声を出した。
「ですが、空気が澄んでいるからこそ、これだけ多くの星が見えるのも事実です。悪くない観測日和ですよ」
私がそう言うと、聖女様は毛布の中から嬉しそうに笑った。
「うん!ノエルの言う通りだね。ワタシ、今夜はずっとお星様見てる!」
元気よく宣言した聖女様だったが、その声は徐々に小さくなっていった。
「……お星様……きれい……」
「お星様が動いているように見えますか?」
「うん……ゆっくり……まわってる、みたい……ふわぁ……」
「聖女様?」
「……さむい、ね……ノエ、ル……あったかいミルク……おいし……」
聖女様は羊毛の毛布にぐるぐる巻きにされたミノムシのような姿で私の腕に寄りかかり、小さな頭をこてんと傾けた。
そして、そのまま規則正しい穏やかな寝息を立て始めた。
ここまでの滞在時間、わずか十分。
だから言ったのだ。
明け方まで起きていられるわけがないと。
私は小さくため息をつき、静かに首を振った。
だが、寄りかかってきた頭の重みと、毛布越しに伝わってくる柔らかな体温は、冷え切った夜気の中でひどく心地よかった。
結い上げられた大きなポニーテールが私の肩に触れ、微かな甘い香りが鼻腔をくすぐる。
明日の極寒の業務スケジュールと、教会の暖炉の薪の配分を脳内で再構築する。
視察団が来る予定だったか。暖炉の火は通常の三割増で用意し、来客用のお茶には体を内側から温める生姜を忍ばせておくのが最適解だろう。
私が明日の計算と手配のシミュレーションを終えるまで、私はあと五分だけ聖女様の寝顔と星空を交互に眺める時間を作った。
それから彼女を起こさないように毛布ごと慎重に抱え上げ、速やかに温かい私室へと搬送した。
星降る夜の観測は、あっけなく幕を閉じたのであった。
***
翌日の午前。
私の観測データ通り、空は昨日までの雨雲が嘘のように晴れ渡り、雲一つない快晴だった。
しかし、その空気は容赦なく熱を奪う凶器と化していた。
「ひぃっ、なんという寒さだ!この街はどうなっている!教会の中だというのに隙間風が酷いではないか!」
教会の格式高い応接間の入り口でガタガタと震えながらクレームをつけているのは、王都から視察にやってきたという高位の神官だ。
彼は見栄を張って王都の最新の流行だという薄手のシルクの外套を羽織り、胸元には無駄に金糸の刺繍が施されている。
だが、そんな見てくれの装飾は、この地方特有の容赦ない底冷えの前には完全に無力だった。
「防寒具も用意できんとは、この辺境の教会の運営はどうなっているのだ!」
「申し訳ありません。すぐにお席へご案内いたします。暖炉の火はすでに最大まで上げさせております」
私が感情のない声で応対していると、騒ぎを聞きつけた聖女様が奥から小走りでやってきた。
彼女は怒り心頭で震える初老の神官を見ると、怯えるどころかパッと顔を輝かせ、彼の冷え切った両手を自分の両手で優しく包み込んだ。
「ようこそ、王都からの遠い道のりをよくいらっしゃいました!お体、すっかり冷え切ってしまってますね」
「せ、聖女様……。いや、これはその」
「素晴らしいです!私たちへのご支援と視察のお仕事のために、ご自身の防寒さえ忘れて駆けつけてくださるなんて……!ご無理をなされてはダメですよ!」
神官が見栄で薄着だったという痛い真実は、聖女様の純度100%の善意のフィルターを通すと、『仕事に一意専心するあまり防寒を意識する余裕すら無かった立派で勤勉な大人』という美しすぎる建前に自動変換されるらしい。
相変わらず、彼女の暴力的なまでの善意の解釈には恐れ入る。
神官は図星を突かれて気まずそうに目を泳がせたが、聖女様のあまりに尊敬に満ちた眼差しを前にして、「う、うむ。視察の使命が何より優先だからな」と、咳払いをして完全にその建前に乗っかった。
その瞬間。
私は音も立てずに聖女様の視界の端——ナナメ後ろへスッと入り込み、持参したお盆の上のティーカップを一瞬だけ突き出し、唇を動かした。
『お星様、ピカピカ。あったかいお茶』
聖女様は一瞬だけ目を丸くして私を見たが、すぐに意図を完全に理解したように大きく頷き、再び神官へ満面の笑みを向けた。
「昨夜、空の星々がひときわ強く瞬いておりました。それを見たとき、今日はきっと遠くから来てくださる皆様が冷たい風で凍えていらっしゃるのではと思ったのです。ですから、お体を温めるお茶を準備して待っておりました」
「星の瞬きで……我々のために、このお茶を!?」
私が差し出した湯気を立てるカップを覗き込み、神官の目が驚愕に見開かれた。
「はい!生姜と蜂蜜をたっぷり入れた、特製の花茶です!」
神官はそのカップを両手で受け取り、信じられないものを見るような目で聖女様を仰ぎ見た。
「なんという……なんという慈悲深さ……!」
彼は感動で声を震わせた。
「偶然の気象などではない!星の瞬きという神の導きを通じて、我々の到着の苦難と寒さを予見し、こうして特効薬のようなお茶を準備して待っていてくださったとは……っ!これこそ本物の聖女の奇跡だ!」
彼は感動のあまり本気で涙ぐみ、生姜のピリッとした辛味が効いた熱々のお茶を一口飲んでは「神の御心だ、おおお」と咽び泣いた。
星の瞬きと冷え込みという気象の因果関係が、神の啓示という宗教的ロマンティシズムに完全にすり替わっている。
論理と理由は崩壊しているが、まったく問題ない。
手柄と名誉はすべて聖女様に帰属する。
私はお盆を脇に抱え、これ以上目立たないように静かに一歩後退してその場を去ろうとした。
「——待ちなさい、そこのメイド」
だが、その時。
涙ぐんでいたはずの高位神官が、不意に鋭い声で私を呼び止めた。
私は表情を変えず、静かに振り返って一礼した。
「何かご不浄でもございましたか」
「いや……。星の瞬きから本日の急激な冷え込みを予測し、生姜で血流を促すという医学的アプローチ。君……どこかでその教養を身につけたのだね?」
神官の目が、先ほどまでの滑稽な怯えとは違い、獲物を値踏みするような冷たい光を帯びていた。
王都の中枢で権力闘争を生き抜いているだけのことはある。馬鹿ではないのだ。
「いいえ。私はただのメイドでございます。すべては聖女様の神聖なる直感によるもの。私は命じられてお茶を淹れたに過ぎません」
「ほう……。王都の天文院の資料室でしか読めないような気象の相関知識を、この辺境の教会のメイドが知っているわけがない……とは思っていたが」
神官は私を頭の先からつま先まで舐め回すように観察した。
「かつて中央教会の天文台に、異端の説を唱えて追放された優秀な学者がいたという噂を聞いたことがある。たしか……『星詠みの異端者』と呼ばれていたか。あまりに真理に近づきすぎ、星と世界の動きの禁忌に触れたがゆえに居場所を失った哀れな——いや、生意気な小娘だったそうだが」
私は、コンマ数秒も目を閉じなかった。
呼吸の乱れも見せず、ただ静かに、何一つ興味がないという完璧な無表情を保って首を傾げた。
「さあ、存じ上げません。私は孤児院から追い出され、聖女様に拾っていただいた田舎育ちの無学なメイドですので。難しいお話は、ぜひ王都の立派な学者様同士でなさってくださいませ」
「……ふん。そうか。人違いのようだな」
神官は面白くなさそうに鼻を鳴らし、再び聖女様が勧める生姜のお茶に口をつけて大声で素晴らしいと絶賛し始めた。
私は音もなく廊下へと下がり、重い扉をそっと閉ざした。
——星詠みの異端者。
その懐かしい、そして忌々しい響きが脳裏をかすめる。
かつて世界は神の気まぐれではなく物理法則と数式で回っていると証明しようとしたばかりに、狂人扱いされてすべてを奪われた人物の名だ。
だが、それはもう関係のない話だ。
***
夕方。
視察員たちは『聖女様の奇跡のお茶』と心温まる歓待に大満足し、今後の教会の支援増額を大口で約束してホクホク顔で王都へ帰っていった。
これで来月の教会の予算会議も安泰である。
書類の処理を秒速で終わらせた私が私室へ戻ると、聖女様がソファでぐったりとしていた。
大きなポニーテールがクッションに埋もれてぺちゃんこになっている。
「……お疲れ様でございました。いつものお茶をどうぞ」
「ノエルも座って!」
「私は立っております。メイドですので」
「えー。今日はいっぱいお話ししたから疲れちゃったの。ノエルも隣で休んで!」
「聖女様の休憩であって、メイドの——」
「ワタシが一緒にお茶をしたいんだけどなー!カミサマの言葉だと思って座ってほしいなー!」
神の言葉だと言い張られましても、外の木枯らしを防ぐためにガンガンに焚かれたこの私室の暖炉の前では、昨夜のように猛烈な眠気を誘うだけです。
だが、この人が一度こう言い出すと、私が着せかけた二枚の羊毛の毛布よりも頑固なことはよく知っている。
このまま押し問答を続ければ、彼女の休む時間が減るだけだ。
私自身が暖かさに負けて寝落ちする危険を含みつつも、私は仕方なく向かいの椅子に音を立てずに浅く腰かけた。
「はぁ……。それにしても、昨日はごめんね。ワタシ、あんなに楽しみにしてたのにすぐ寝ちゃって」
「五分以上起きているとは期待していませんでしたので、想定の範囲内です」
「むー。次はもっと起きてるもん!本格的な春が訪れたら、きっと起きてられるよ!」
その理屈だと、春の暖かな陽気で余計に強烈な眠気を誘発するだけだという明確なデータがあるのだが。
私はあえて指摘せず、熱い紅茶を一口飲んだ。
***
夜。
暖炉の火が静かにパチパチとはぜる中、私たちはいつものように机に並んで一冊の『観察ノート』を開いた。
聖女様がペンを握り、嬉しそうに公文書とは比べ物にならないくらい大きく、元気いっぱいの文字を書き殴る。
【お星様がピカピカしてたら、次の日はお茶が美味しい!(ジンジャーティー大成功!)】
相変わらず、因果関係がとんでもない方向に飛躍している。
私はため息をつきつつ、その隣のページに星の瞬きと地表への寒気の下降、それに伴う気温低下の相関グラフをインクペンで几帳面に描き込んだ。
「ねえ、ノエル。今日のおじさま、ノエルに変なこと言ってなかった?」
ペンを止めた聖女様が、ふと心配そうな目で私を見た。
何も見ていないようで、この人は時折、恐ろしいほどの直感で核心を突いてくる。
「何も。ただ、私が淹れたお茶が不満だったのかと」
「嘘だ。少し怖い顔してノエルのこと見てた」
「気のせいです」
「気のせいじゃない。あのね、もしノエルにイジワルする人がいたら、ワタシが絶対に守るからね」
聖女様は真剣な顔でそう宣言し、再びノートに向き直った。
私の心臓が、またしても数ミリだけ不規則な動きをしたような気がした。
世界から否定され、真理を追求する学問の場から追放された異端者。
そんな過去の亡霊など、どうでもよかった。
仮に世界中が異端者の知識を「悪しき魔法」と呼んで迫害しようとも、この人は美味しいお茶を淹れる「優しい魔法」だと笑って全肯定してくれるのだ。
二人が見るページは、まったく違うことを書いているようで、不思議といつも同じ場所に着地する。
私はコンマ数秒だけ静かに目を閉じ、彼女の描いた大きな文字の隣に、小さく「明日の晴天」のマークを書き足した。




