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第4話 虹の橋、子供の遠足

 私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。

 そして本日の私の最重要任務は、おびただしい数の悲泣と落胆——すなわち三十名もの子供たちの涙腺崩壊という未曾有の災害を未然に防ぐことだ。

 事の始まりは数週間前、近隣の孤児院へ定期慰問に訪れた際のことだった。


『みんなで西の丘の原っぱまで遠足にいきたいな』


 絵本を見ながら一人の小さな子供がこぼしたそのささやかな願いを、聖女様がスルーできるはずがなかった。


「皆様、一緒に行きましょう!私が教会の方々にお願いして、公式の行事として認めさせてみせます!」


 子供たちの前で大見得を切った聖女様の笑顔は太陽のように輝いていたが、そのナナメ後ろで控えていた私の顔は、太陽光を遮断された日陰のように暗かったはずだ。

 教会という組織は、前例のない新しいことを始めるのをひどく嫌う。


『孤児たちを遠足へ連れ出す?そんな労力と予算をどこから出すのだ』

『道中で怪我でもしたら、誰が責任をとる』

『そもそも教会の敷地内で遊ばせておけば十分だろうに』


 運営委員の老人たちの口から飛び出したのは、もっともらしい建前でコーティングされた「面倒事を避けたい」という本音ばかりであった。

 彼らは聖女様を教会の美しい看板として扱うことには長けているが、実務を伴う要望には途端に難色を示す。


 だが、聖女様が一度口にした約束を撤回させるわけにはいかない。

 私は彼らを説き伏せるため、数日間の睡眠時間を削って完璧な企画書を作り上げた。


 引率体制の安全性、万が一の際の補償規定、そして何より彼らの心を動かす要素。

「この遠足を通じて教会の慈悲深さを街にアピールすれば、来月の特別寄付金目標額を大幅に上回る試算が出ています」という、悪魔的かつ魅力的な経済効果のグラフを突きつけた。


 相手の逃げ道を書類で物理的に塞ぎ、首を縦に振らせるのはノエルの最も得意とする実務の一つである。

 かくして、教会の予算と権威を巻き込んだ「子供たちのための大ピクニック大会」が正式に決定したのである。


 ***


 そして迎えた遠足の前日。

 私は教会の厨房を借り切り、夜遅くまで明日の準備に追われていた。

 三十人規模の子供たちと、引率のシスターたち、そして聖女様のお腹を満たすための兵站ロジスティクスは、作戦の成否を分ける最重要事項である。


 山積みにされた上質な小麦粉、冷やされた大量のバター、そして教会の貯蔵庫から特別に支給された果物のジャム。

 子供たちが食べやすいサイズのサンドイッチを丁寧に切りそろえ、大釜で煮出した紅茶を保温性の高い魔法瓶の樽へ移し替える。


 一番の目玉は、バターをたっぷりと練り込んだ私の特製スコーンだ。

 冷めても美味しいように水分量を調整し、外はサクッと、中はしっとりとした食感に焼き上げている。


 孤児院の食事は決して豊かではない。だからこそ、特別な日には特別なカロリーと糖分を摂取させるべきだ。

 孤児院育ちの私が言うのだから間違いない。


「ノーエル、まだお仕事してるの?」


 厨房の入り口から、ひょっこりと顔を出したのは聖女様だった。

 寝間着姿のまま、手には白い布と紐で不格好に丸められた何かを持っている。


「聖女様。明日は朝が早いのですから、もう休んでいただかないと明朝の寝癖の処理に多大な支障が出ます」

「だって、お外で雨の降る音がするんだもん。明日、本当に晴れるかなって心配になっちゃって」


 そう言って、聖女様は手に持っていたそれを私の前に突き出した。


「てるてる坊主を作ってみたの!」

「……原型を留めていませんが」

「ちょっとお顔の目を描くのに失敗して、インクが滲んじゃっただけだよ!でも、気持ちはいーっぱいこもってるから!」


 どう見ても呪いの人形にしか見えない布の塊が、私に向かってどす黒い涙を流していた。

 私は深い悲しみとともにため息をつきつつ、スコーンの生地をこねる手を止めて窓の外を見た。

 聖女様の言う通り、外からはシトシトと冷たい雨が石畳を叩く音が聞こえている。

 明日の天気を心配して眠れないのも無理はない。


「聖女様、そのおどろおどろしい人形の御利益に頼る必要はありません。今は雨が降っていますが、明朝には……いえ、明日の午前中には間違いなく上がります」

「本当に?」

「私の言葉よりも、その呪いの人形を信じますか?」

「ううん、ノエルを信じる!」


 聖女様はぱっと顔を輝かせた。


「じゃあ、このてるてるさんは窓辺に飾っておくね!ノエルもお仕事無理しないでね。ワタシ、明日すごく楽しみ!」


 ぽすん、と窓枠に呪いの人形を置き去りにして、聖女様は嵐のように去っていった。

 私は残された人形をちらりと見つめ、再びスコーンの生地に向き直った。


 明日の天候についての私の予測は、聖女様を喜ばせるための単なる希望的観測ではない。

 数日前からの気圧の変化、昨夕の雲の色、松ぼっくりなどの植物の挙動、そして今降っている雨の温度と風の向き。

 それらすべてのデータを統合した結果、明日の朝方に一時的な通り雨が残るものの、その後は急速に天候が回復するという結論に達していた。


 問題は見立ての通り、その通り雨がちょうど出発予定である朝に重なる可能性が極めて高いということだ。

 私は翌日のスケジュール表を脳内で展開し直した。


 出発を遅らせた場合の移動ルートの短縮、到着後の設営手順の効率化、そして何より雨を見た子供たちの絶望をどうコントロールするか。

 思考をフル回転させながら、私は最後のスコーンをオーブンへと放り込んだ。


 ***


 明けて翌日。

 時刻は朝の八時。

 教会の裏手にある広場には傘をさし、雨合羽を着込んだ孤児院の子供たちと引率のシスターたちが集まっていた。


「……ううっ。雨、やまないね」

「お弁当、食べられないの?おうち帰るの?」


 彼らの小さな肩は一様にうなだれている。

 雨はシトシトという生ぬるいものではなく、大粒の水滴が石畳を容赦なく叩きつける、かなり強い降り方をしていた。

 水たまりが至る所にでき、冷たい風が容赦なく体温を奪っていく。


 引率のシスターの顔色は暗く、子供たちをこれ以上この雨風に晒すわけにはいかないという大人の責任感と、遠足を楽しみにしていた子供たちの夢を奪わなければならない苦悩の間で揺れ動いているのが、遠目にもはっきりとわかった。


「……みんな、すごく楽しみにしてたのに」


 教会の深い軒下で、聖女様が今にも泣き出しそうな声で呟いた。

 彼女のお人好しと慈悲の精神は、子供相手ともなると通常時の五割増しで暴走する。


「ノエル、なんとかなりませんか? 私がカミサマに特別にお祈りして、いますぐあの雲を吹き飛ばして差し上げられれば良いのですが!」

「強風を祈って教会の屋根を吹き飛ばしかけた昨年の春の惨事をお忘れですか?」

「……ですが、あの子たちは昨日からずっとお歌の練習をしたり、お掃除を頑張ってくれたり……本当に、心から楽しみにしていたのです!」


 無意識に揺れる大きなポニーテールには、誤魔化しがきかない純粋な悲しみが詰まっている。

 彼女の大きな瞳にはうっすらと透明な涙さえ浮かんでいた。

 私は数秒だけ目を閉じ、静かに視線を上空へ向けた。


 灰色の雲の厚み。雨粒の大きさ。

 頬を撫でる風の温度と、それが運んでくる湿った土の匂い。

 そして何より、東の空の端にわずかに見え隠れする、分厚い雲を力強く押し退けようとするような強い朝の光の角度。


「昨日も申し上げましたが、中止の判断は時期尚早かと思われます」

「え?」


 聖女様が涙目で私を振り返った。

 私は懐から取り出した革表紙のメモ帳をめくりながら、淡々と——決して昂らない感情を維持して告げた。


「この季節、この地形における朝の雨は多くの場合、偏西風へんせいふうによって西から東へと雨雲が押し流されてきた結果です」

「へんせーふう?」

「西から吹く、年間を通じて安定した強い風のことです。通常ならこの雨雲はすでに東の彼方へ通り過ぎているはずでした」


 私はメモ帳に挟んでおいた白紙を一枚引き抜き、素早くペンを走らせた。

 風速、雲の体積、そして時間。


「しかし現在の風向きは、それとは真逆の強い東風。東にある残存の雨雲が無理やり西の丘に向かって押し出されている、局地的な『行き止まりの雨』です。そして東の空の端を見てください。すでに強い太陽の光が射し始めている」


 私はパラリとその紙を袖口から滑り出させ、聖女様からは明確に読める胸元の高さへスッと差し込んだ。


「これより三十分後。雨雲は完全に西の丘のさらに奥へと抜け、背後から朝の強烈な日差しがそれを照らすことになります。太陽光が水滴のスクリーンに乱反射し、巨大な気象現象が西の丘を舞台に発生するはずです」


 私の言葉の論理構造をすべて理解したわけではないだろう。

 だが、聖女様の直観力はそれが「最高のハッピーエンド」に繋がるものであることを一瞬で悟った。

 彼女の瞳から涙がスッと消え、代わりにパッと輝くような希望の熱が宿った。


 広場では、引率のシスターが重い口を開こうとしていた。


「みんな、ごめんなさいね。今日はこんなにお天気が悪いから、遠足は——」

「待って!!」


 シスターの悲痛な言葉を遮り、聖女様が両手を広げて屋根の下から飛び出した。

 肩が濡れるのも構わず、彼女は怯える子供たちの前に立ち、満面の笑みで私の差し出したメモを超越解釈して叫んだ。


「大丈夫!お天気は私が保証します!出発の時間を一時間だけ遅らせてから、みんなで西の丘へ向かって!」


 突然の聖女様の託宣に、シスターは目を丸くした。


「し、しかし聖女様!この雨では子供たちが風邪を引いてしまいます。とても西の丘まで歩けるような状況では——」

「向かう頃には雨上がりの素晴らしい贈り物が待っていますよ!これは神様と束の間のお約束です。ですから、それまでは礼拝堂で静かに雨宿りをしていましょうね」


 そこに論理はない。

 西風だの東風だの、太陽光の波長と乱反射だのといった理屈は一切省かれ、ただ純度100%の「善意と謎の自信」だけがそこにあった。


 だが、聖女様のその無邪気な断言には、大人をも巻き込む強烈な引力がある。

 これこそが、彼女が『聖女』として何百人もの信者を集める所以だ。


 迷っていたシスターも、聖女様の圧倒的な光の前に少しだけ表情を和らげ、結果として出発を一時間遅らせての待機を受け入れたのである。


 ***


 一時間の待機時間は、子供たちの不満を抑えるための闘いだった。

 雨宿りをするために教会の礼拝堂に移動した子供たちは、やはり退屈と「本当に遠足に行けるのか」という不安でぐずりそうになっていた。


 そこで聖女様が本領を発揮する。

 彼女は祭壇の前に座り込み、子供たちを集めて身振り手振りで面白い話を始めた。


「お空の雲さんはね、いま一生懸命お水で山の木や草を真っ青に洗ってくれてるの!綺麗になったらお空のカーテンが開くからね!」


 科学的根拠は皆無だが、子供の気を引くには十分だ。

 私はその間に、冷え切った子供たちのために温かいミルクと少量のクッキーを配って回った。

 シスターが感激した目で私を見ていたが、ただの風邪予防の業務である。


 そして、一時間後。

 私の予測は、正確にこの街の空を支配した。


「あ、雨やまないって言ってたのに、やんだ!」

「お日様が出てきたよ!」


 水たまりを避けながら歩く子供たちの行列の先頭で、声が上がった。

 分厚い灰色の雲は西の山の向こうへと完全に押し流され、東の空からは刺すように痛いほどの強い朝の陽射しが、容赦なく降り注いでいた。

 雨に洗われた街の木々の緑はこれ以上ないほど鮮やかに発色し、空気を満たす濡れた土と草の匂いが、不思議な高揚感を煽ってくる。


 歩くこと三十分。

 西の丘のふもとに到着した子供たちとシスターが、次々と息を呑むような声を上げ始めた。

 彼らの目の前に広がっていたのは、文字通り目を疑うような奇跡の光景だった。


「わぁあああっ!!」

「虹だ!虹の端っこに着いたんだ!」


 巨大な雨雲の壁は西の丘の向こう側にまだ居座っており、薄暗い背景を作り出している。

 そこへ強烈な真東からの太陽光が真っ直ぐに突き刺さっていた。

 空気中に高密度で残った無数の雨粒がプリズムの役割を果たし、空いっぱいに、信じられないほど色鮮やかで巨大な七色の『虹の橋』が架かっていたのだ。


 通常見られるような、すぐ消えてしまう薄い虹ではない。

 赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。七色のグラデーションが、空中で絵の具を直接塗りつけたようにくっきりと空を分断している。

 大気中の水滴の粒が大きく、太陽光の入射角と観測者の位置が完璧な条件で揃った時にしか拝めない、気象が作り出す気高き芸術品だ。


「凄い……!本当に神様からの贈り物よ!」


 先頭を歩いていた聖女様が、両手を胸の前で組んでうっとりと空を見上げた。

 子供たちは水たまりを避けもせず、泥跳ねなど全く気にすることなく、歓声を上げて一斉に丘の原っぱを駆け上がっていく。


「虹のふもとはどこだー!」

「あったかい!お日様すごくあったかい!」


「みんな、走ると滑るわよ!気をつけて!」と注意するシスターの声も、子供たちの歓声にかき消されていく。

 いや、よく見ればシスター自身も、その美しすぎる光景に完全に心を奪われ、足取りがふらついている。


「ノエル、ご覧なさい。本当に虹の橋のようです。私たち、まるでおとぎ話の世界に来てしまったみたいです!」


 聖女様も一緒になって泥だらけの靴で走り回り、見事なポニーテールを揺らしながら満面の笑みでこちらを振り返った。

 もはや誰が保護者で、誰が子供なのか全くわからない。


 私はと言えば。

 子供たちが歓声を上げて丘を登っている間に、迂回ルートを使って丘の頂上付近にある見晴らしの良い大きな古木の木陰へと先回りしていた。

 そして、朝の五時から仕込んでおいた教会の荷車を素早く展開する。


 濡れた草の上に厚手の防水シートを広げ、その上に持参した乾いた絨毯を隙間なく敷き詰める。

 折りたたみ式のテーブルを三つ並べ、魔法瓶の樽から温かいアールグレイの紅茶を次々と紙カップに注いでいく。

 テーブルの中央には、朝焼き上げたばかりのスコーンと、山積みのサンドイッチがタワーのように並べられた。


 私が無駄のない動作で手元を動かす間にも、子供たちが頂上へと登ってくる足音と歓声が近付いてくる。


「メイドのお姉さんが先回りしてる!」

「すっごーい!ごちそうだ!」

「お腹すいたー!」


 駆け上がってきた子供たちが絨毯の周りにわっと群がる。

 聖女様は子供たちに紛れて一番乗りでテーブルに手を伸ばし、一番大きいスコーンを一つ失敬しようとしたので、私は無言でその手を軽く叩いて制した。


「(まだです。まずは泥だらけの手を拭いてください)」

「(むぅ。ノエルは休みの時でも厳しいなぁ)」

「(メイドのロジスティクスです。存分にお召し物を汚してきても構いませんが、食べる前の衛生管理は徹底させていただきます)」


 一人ずつ子供たちの手を濡れタオルで拭き、行儀よく席につかせる。

 巨大な虹の橋の下、雨上がりの澄んだ空気の中で食べる温かいスコーンと紅茶は、どんな高級レストランのフルコースにも勝る。

 記憶に残る極上の御馳走になったはずだ。


「おいしい!お姉さんの作ったパン、ほっぺたが落ちそう!」

「あったかーい!」


 子供たちの笑顔が弾け、引率のシスターたちもサンドイッチをかじりながらようやくほっと息をついている。

 聖女様はといえば、子供たちに自分の分のジャムを気前よく分けてあげたり、口の周りをクリームだらけにしたりして、見ているこちらが呆れるほど誰よりもはしゃいでいた。


 喧騒の輪から半歩だけ下がり、木陰の定位置——聖女様のナナメ後ろ——で、私は自分用の紅茶を静かに一口すすった。

 見上げれば、虹の橋はまだ鮮やかに、圧倒的な存在感で空を彩っていた。


 奇跡ではない。

 ただの太陽光の屈折と、水滴の粒子径が引き起こす物理現象だ。


 だが、その事実がこの光景の美しさを少しでも損なうかと言えば、決してそんなことはない。

 理屈を知っているからこそ、この完璧な条件が揃うことの尊さを、私は誰よりも深く理解している。


「ノエル、ありがとう」


 ふと。

 子供たちの相手をしていたはずの聖女様が、いつの間にか私の隣に立ち、小声で囁いた。

 その瞳は、空の虹よりも澄んでいた。


「(ノエルがいなかったら、この奇跡は見られなかった。子供たちの笑顔もなかったよ)」

「(私は、空の顔色を読んだだけです)」

「(ううん。ノエルが作ってくれた奇跡だよ。世界で一番のメイドさんだねっ)」


 聖女様が、今日一番の無邪気な笑顔を私に向けた。

 私はティーカップを口元に運んだまま、しばらく声を出せなかった。

 コンマ数秒、わずかに鼓動が早くなったような気がしたが、それは計算の範囲外だ。


「(……スコーンの残りはあと二十個です。これ以上、聖女様が子供の分までジャムを横取りしないか、監視を続行します)」

「(あーっ、ワタシそんな意地汚いことしないもん!)」


 不満げに頬を膨らませて子供たちの輪に戻っていく背中を、私は静かに見つめていた。

 彼女の純粋な善意と私の冷徹な計算が組み合わさる時、世界は時に、こんなにも美しいハッピーエンドを用意してくれる。

 たまには、こういう悪くない任務があってもいい。


 ***


 夜。

 教会の私室に戻り、泥だらけの服の洗濯を終え、一日のすべてを終えた私たちは、机に並んで『観察ノート』を開いた。

 ランプの柔らかい光が、二人の手元を照らしている。


「今日は本当に最高だったわね!子供たちが虹の下でお弁当食べられて、すっごく喜んでた!」


 聖女様のペン先は、日中の公的な書類や手紙で見せる繊細で美しい筆跡とはまったく違う。

 いつも通り、のびのびとした子供のような大きな字を力強くノートに書き殴る。


【大きな虹!みんなの笑顔!】


 その下にはクレヨンで描かれたような、とても聖女様が描いたとは思えない落書きレベルの虹の絵が添えられていた。

 赤、青、黄色といった原色が無造作に並べられ、アーチの形もいびつ。

 どう見ても私の作ったサンドイッチよりも芸術点は低い。


「朝の東風の強さと日照角度の計算が、完璧に一致しましたから。あの時間、あの場所でなければ、あれほどの規模の虹は発生しませんでした」

「ふふっ。ノエルのそういう難しいお話、好きよ」


 私は椅子に浅く腰掛け、彼女の大きな絵の隣に、太陽光の屈折率と水滴の粒子径の相関について小さく几帳面な字で図解を書き足した。

 水滴への入射角四十二度。光の波長による屈折率の違いと、それぞれの色が見える角度。

 かつて無愛想な書物の中で読んだだけの冷たい知識が、今日こうして暖かな情景として私の記憶に刻み込まれていることに、不思議な感慨を覚える。


「でも、どうしてわかったの?ノエルはカミサマの声でも聞こえるの?」

「私はただのメイドです。私が読めるのは、神の言葉ではなく空の顔色だけですよ」

「ワタシの顔色じゃなくて?」

「聖女様の顔色も読み取れますよ。ですが、それは主に『おやつが欲しい時』か『おねむな時』かの判断に用いられます」

「むーっ!ワタシだって真面目な顔する時くらいあるもん!」

「ええ、月に一度くらいは」

「少ない!」


 ぷくっと頬を膨らませる聖女様を見て、私はようやく小さく息を吐いた。

 窓の外からは、すっかり雨の上がった夜の静寂と、遠くで虫が鳴く声だけが聞こえてくる。


「ノエルの書いたこの図、なんだか魔法陣みたいでかっこいい」

「これは天気図です」

「ううん、ワタシには魔法に見える。ノエルがワタシたちに見せてくれた、優しい魔法の種明かし」


 聖女様はそう言うと、私の緻密な図解の隣に、もう一つ小さな虹の絵を書き足した。

 今度の虹のふもとには、大きなポニーテールをした人物と、そのナナメ後ろに立つエプロン姿のメイドのシルエットが描かれていた。


 二人のペンを走らせるカリカリという乾いた音だけが、静かな部屋に心地よく響いていた。

 この光景を守り続けることができるなら。

 私はどんな気象現象でも、どんな大人の思惑でも、完璧に読み切って見せよう。


 聖女様のナナメ後ろで、メイドの矜持にかけて。

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