第3話 朝焼け、あと五分
第3話から新規エピソードになります。
私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。
右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。
この位置には意味がある。
聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。
例えば、寝起きの少しぼんやりした瞳で、窓越しの赤い空を指差した時。
私はすかさず温かい上着を一枚、その肩にかけることができる。
***
季節が本格的な春へと向かう最中、今朝の空気はひんやりと肌を刺す。
私はいつものように、分刻みで計算されたスケジュールに従って聖女様の私室の扉をノックした。
返事がないのは想定内である。
「おはようございます、聖女様。起床の時間です」
沈黙。
二度目のノック。
なおも沈黙。
……想定内だ。
私は静かにドアノブを回し、室内へ足を踏み入れた。
暗い。分厚い遮光カーテンが窓を完全に覆い、部屋の中は真夜中のように深い闇に包まれていた。
聖女様のベッドに目をやると、特大の毛玉——もとい、毛布にくるまった球体がその上に鎮座している。
ごく微かな寝息だけが、部屋の静寂に溶けていた。
私は足音を殺してカーテンの前に立ち、左右の生地の端をそれぞれ掴んだ。
一気に開け放つ。
朝の光が奔流のように室内に雪崩れ込み、聖女様が眩しそうにもぞもぞと身をよじらせた。
「んぅ……ノエル……おはよぉ……」
毛布の隙間から覗く髪は、今日も見事に爆発していた。
夜の間に枕と格闘でもしたのだろうか。
ポニーテールに結うべき豊かな毛量が四方八方へ散乱し、さながら冬眠から覚めた小動物の巣のような惨状を呈している。
「本日の午前は礼拝堂での祈祷、午後は教会の前庭にて、近隣の孤児院関係者との青空集会が予定されております。さあ、起きてください」
「あと……ちょっと……」
「身支度の時間を確保するためにも、まず起き上がっていただく必要があります」
私は木製の櫛を手に取り、ベッドの端に浅く腰かけた。
聖女様がのろのろと上半身を起こすと、その後ろに回って髪を梳き始める。
からまった毛束をゆっくりと、しかし淀みなく解きほぐしていく。
聖女様の髪は毛量が多い分だけ寝癖も壮大だが、根元から丁寧に解けば驚くほど素直にまとまる。
これは毎朝の業務であり、私の担当領域だ。
「えへへ……ノエルに髪とかしてもらうの、大好き」
「業務です」
「ノエルってば冷たーい」
「櫛のことでしたら、冷水で洗いましたので」
「そういうことじゃないーっ!」
毛束を高い位置へ集約し、特大ボリュームのポニーテールへとまとめ上げる。
結び目のてっぺんの毛先が、重力に逆らってふんわりと立ち上がった。
この弧。この跳ね方。今日も完璧だ。
朝の支度を終え、聖女様を椅子に座らせて温かいミルクの入ったカップを手渡す。
そうしてようやく、遮光カーテンの向こうの景色に私自身の意識を向ける余裕が生まれた。
——息を呑んだ。
窓の向こう、東の空が燃えるような鮮やかな赤色に染まっていた。
茜色と紫紺が水彩のように混ざり合い、教会の尖塔の輪郭がくっきりとした翳を作っている。
美しい朝焼けである。
聖女様もカップを口元に運びかけた手を止め、その赤い光に気づいたようだ。
彼女は椅子から身を乗り出し、眠そうな目を少しだけ見開いて窓の外を見つめた。
「わぁ……綺麗……」
「朝焼けですね。空気が澄んでいる証拠です」
「ねえ、ノエル。もうちょっと見てたいな……」
「スケジュールが遅れます」
「お願い、あと五分だけ。この赤いお空を見ていたいの……」
カップを両手で抱えたまま、あざとく私を見上げる。
ミルクの小さな湯気が、朝焼けの光の中で淡く金色に光っている。
私は数秒だけ脳内で計算を行い、静かにため息をついた。
「……あと五分だけです」
「えへへ……ノエル、ありがとう……」
聖女様は嬉しそうに微笑むと、再び窓の外の赤い空へ視線を向けた。
カップを口元に運び、小さく一口飲んでは、また空を見る。その繰り返し。
時折、大きなポニーテールが窓からの微風に揺れて、私の視界の片隅で金色の朝日を受けてきらりと光った。
私が貴重な朝の五分間の猶予を与えたのには、明確な理由がある。
朝焼け、つまり太陽の赤い光が東の空の雲を下から照らしている状態は、西から雲が近づいているという気象のサインに他ならない。
太陽光には様々な色の光が含まれている。
赤い光は波長が長いために遠くまで届き、大気を長く通過することで他の色が散乱して失われ、最後に赤だけが残る。
この分厚い雲と空気の湿り気から推測するに、十中八九、今日の午後は雨が降る。
だが。
赤い空を無邪気に眺めて幸せそうにミルクを飲んでいる聖女様の横顔をナナメ後ろからちらりと盗み見て、私は思う。
この朝焼けが午後の雨を連れてくるのだとしても、この瞬間、窓辺でカップを抱えた聖女様が五分間だけの幸福を味わっている事実は変わらない。
天気は、災難だけを運んでくるわけではないのだ。
私は聖女様が朝焼けを堪能している五分間の間に、脳内でスケジュールを再構築した。
午後の青空集会を屋内のホールに変更する手配を済ませ、さらに朝食の支度手順を効率化して削られた五分間を完璧に取り戻す。
五分後、私は予定通りに聖女様を椅子から引き剥がし、朝の業務を開始した。
***
午前の祈祷は、いつも通り滞りなく進んだ。
聖女様が祭壇の前に立ち、訪れた人々に向かって穏やかな言葉を紡ぐ。
その声は高く透き通り、礼拝堂の石壁に柔らかく反響する。
「——今朝、空がとても綺麗な赤色に染まっていました」
祈祷の終わりに、聖女様はふとそう言い添えた。
台本にない即興だ。私は内心で身構える。
「赤い空を見ていたら、あたたかな気持ちになって今日一日がきっと素敵な日になる。みなさんも、もし明日の朝に空が赤く染まっていたら、少しだけ足を止めて眺めてみてくださいね」
信者のおばあさんが深々と頷き、隣の若い母親が幼子の頭を撫でながら微笑んでいる。
聖女様の言葉は常に非論理的だが、不思議と嘘ではないのだ。
朝焼けは午後の雨の前兆であるという気象学的事実と、朝焼けを見ると温かい気持ちになるという聖女様の感想は、まったく別の次元の話だ。
しかし、どちらも真実であることに変わりはない。
祈祷を終えた聖女様が、小走りでナナメ後ろにいる私のもとへ戻ってきた。
「ノエル、先ほどの私の話し方、不自然ではありませんでしたか?」
「問題ありません。礼拝堂にいる方々の顔が穏やかになっていましたので」
「よかった。あの朝焼けの感動を皆様にも分けて差し上げたかったのです」
「聖女様らしいお言葉でした」
聖女様がぱっと顔を輝かせた。
私は彼女の肩にかかっていた祭服の襟元を段差なく整え直しながら、午後の手配に意識を切り替えた。
***
私の観測と予測は、教会に飾られているどんな聖書よりも正確だ。
午後になると西から押し寄せた分厚い雲が空を覆い、バケツを引っくり返したような冷たい雨が降り始めた。
「なんと……こんなに晴れていたのに、突然の雨とは」
「もし庭で集会を開いていたら、子供たちに風邪をひかせてしまうところでしたな」
屋内の暖炉に火が入り、温かなホールの窓から土砂降りの外を眺めながら、孤児院の院長や教会の関係者たちが胸を撫で下ろしていた。
暖炉の炎がはぜる音と、窓を叩く雨粒の音が、不思議と心地よい対比を作っている。
ホールの中央では、聖女様が孤児院から来た子供たちと輪になって座っていた。
当初の予定では屋外の前庭で遊ばせるはずだったが、急遽屋内に変更になったことで子供たちは最初少し不満そうだった。
しかし、聖女様がポケットから松ぼっくりを取り出して——最近の彼女は常にそれを持ち歩いている。
「この松ぼっくりのかさがぎゅって閉じてたら、雨が降るんだよ!」と嬉しそうに教え始めると、空気が一変した。
「えー!松ぼっくりって天気がわかるの!?」
「すごい!聖女さまの松ぼっくり、魔法みたい!」
子供たちが松ぼっくりを奪い合うようにして触り、開閉の具合を確かめている。
聖女様が得意げに胸を張った。
「実は、私のナナメ後ろにいるノエルが教えてくれたのです!ノエルは空のことなら何でも知っているのですよ」
全員の視線が、ホールの隅のナナメ後ろに控えている私に向けられた。
子供たちがきらきらした目でこちらを見ている。
「メイドのおねえさん!他にもなんかあるの?天気がわかるやつ!」
私は目立ちたくはなかったが、子供の好奇心を無視するのは業務規定に反する。
窓の外を指差した。
「あの軒下を見てごらんなさい。鳥が巣の中から出てこないでしょう。雨の日は餌になる虫が低く飛ぶから、鳥もあまり外に出たがらないのです」
「へぇ!鳥も雨がやだって思うんだ!」
「虫さんも大変なんだね」
子供たちが窓に顔を押し付けて鳥の巣を覗いている。
聖女様が私を振り返り、とても嬉しそうに笑った。小声でこう囁く。
「(ノエル、子供たちに教えるの上手ね)」
「(業務外です。早く本題の集会を)」
「(もうちょっとだけ。みんな楽しそうだから)」
楽しそうと言われると反論しづらいのは、私の数少ない弱点のひとつだった。
「しかし、聖女様。なぜ朝の段階で会場を屋内に変更するようご指示を?今日は快晴だと誰もが信じておりましたが」
院長が感嘆のまなざしで聖女様を見た。
聖女様は一瞬、きょとんとした後、慌ててナナメ後ろに控える私のほうをちらりと振り返る。
私は誰にも見えない死角から、音を立てずに口パクと小さな手振りで伝えた。
『朝。赤いお空。雨の恵みをお祈りした』
聖女様はポンッと手を打ち、ふんわりとした笑顔を院長に向けた。
「えっと……今朝、東の空がとても赤く、美しく染まっておりました。ですから、その輝きがより多くの恵みに変わるよう、私なりに祈りを捧げたのです」
因果関係と理由が崩壊している。
だが、問題ない。
「おお……!聖女様が雨を降らせてくださったと!」
「なんという奇跡……!神の御心だ!」
「さすがは聖女様、我々凡人には計り知れないお力だ!」
老人たちは勝手に納得し、感動の涙まで流し始めた。
手柄はすべて聖女様にある。
メイドは決して表に出ず、聖女様を裏から支える。
これが私たちの完璧な連携である。
***
集会が無事に終わり、夕方の休憩時間。
雨はまだ降り続いていたが、先ほどの暴力的な勢いは収まり、静かで穏やかな雨音に変わっていた。
窓ガラスを流れる雨粒の筋が、暖炉の橙色の光を透かして、部屋の中に小さな光の模様を無数に作っている。
私は私室で休む聖女様のために、温かい花茶とジンジャークッキーを用意した。
花茶はカモミールとラベンダーのブレンドだ。
雨の日に飲むと、乾いた花弁の柔らかな甘みがいつもより深く香る。
湿度が高い日は匂いの分子が空気中に留まりやすいという特性を利用した、ささやかな計算の結果だ。
「お疲れ様でございました。さあ、お茶をどうぞ」
「ノエルも座って」
「私は立っております。メイドですので」
「えー、なんでよー。さっきからずっと立ちっぱなしじゃない?」
「聖女様の休憩時間であって、メイドの休憩時間ではありません」
「むーっ!ワタシがノエルと一緒にお茶を飲みたいの!カミサマの言葉だと思って座って!」
神の言葉だと言い張られましても、外から聞こえるこの穏やかな雨音の中では、雷鳴のような説得力はかけらもありませんよ。
だが、この人が一度こう言い出すと、分厚い雨雲よりも頑固なことは知っている。
せっかく淹れたお茶の温度と香りを無駄にしないため、私は抗議を飲み込み、向かいの椅子に音を立てずに浅く腰かけた。
花茶を一口含む。
カモミールの甘みが舌の上で淡く溶けて、喉の奥へ温かく落ちていった。
窓の外の雨音と、カップの中の湯気と、向かいの席で無邪気にクッキーをかじる聖女様。
——悪くない。
雨の午後のお茶は、晴れた日のそれとはまた違う味わいがある。
外に出られないという制約が、かえってこの小さな部屋の中の時間を濃密にしているのだ。
ふと、聖女様がクッキーをかじりながら、窓の外を見つめた。
雨粒が窓ガラスの上を不規則に滑り落ちていく。
一つの雫が別の雫と合流して、少し大きくなって、また流れていく。
聖女様はその軌跡を指先でなぞりながら、静かな声で言った。
「ねえ、ノエル。今朝の五分間、ありがとう」
「業務上の判断です。あの朝焼けは午後の雨の前兆でしたから。予定を変更する思考時間を確保したに過ぎません」
「ふふっ。ノエルはいつもそう言うね」
聖女様は紅茶のカップを両手で包み込み、とても幸せそうに目を細めた。
「でもね、ワタシ思ったの。今日の雨って嫌な雨じゃないなって」
「と、おっしゃいますと」
「だって、この雨のおかげで子供たちに松ぼっくりのお話ができたし、鳥のことも教えてあげられたし。ホールの暖炉の前でみんなでおしゃべりできて楽しかった。それに——」
聖女様はカップを傾け、花茶の香りを深く吸い込んだ。
「——いまノエルとこうやって、雨の音を聴きながらお茶を飲んでるのが、すごく幸せ」
私は答えに詰まった。
正確には答える言葉がないのではなく、適切な温度の言葉を選ぶのに時間がかかっているだけだ。
そういうことにしておく。
「……雨は作物に水を与え、空気の塵を洗い流し、花の根を潤します。嫌な天気というものは本来ありません」
「でしょ?お天気って嫌なことだけじゃなくて、楽しいこともいっぱい連れてきてくれるよね」
聖女様がにっこりと笑った。
非論理的だが、反論の余地がない。
「じゃあ、明日も朝焼けだといいなぁ」
あのですね、聖女様。
それはつまり、明日も雨が降ることを望んでいるのと同じことなのですが。
私は心の中でそうツッコミを入れたが、あえて訂正はしなかった。
明日も雨なら、明日もこうして二人で花茶を飲むことになる。
それが悪い結末だとは、少なくとも今の私には思えなかったからだ。
***
夜。
雨はようやく上がり、洗われた空気がひんやりと澄んでいた。
一日の終わりに、私たちは机に並んで『観察ノート』を開いた。
聖女様のペン先は、日中の公務で見せる繊細で美しい筆跡とはまったく違う、大きな字をノートに書き殴る。
この人は不思議なもので、公式の書類では息を呑むほど綺麗な字を書くのに、このノートの前に座ると途端に子供のような筆致に戻ってしまう。
【朝焼けが綺麗 → 午後は雨(ノエルが教えてくれた!)】
続けて、下に一行書き足した。
【雨の日のお茶は、いつもよりいい匂いがする(これもノエルのおかげ?)】
おかげ、というか。湿度と香気成分の揮発に関する物理的な相関関係であり、私の功績でも神の奇跡でもない。
だが、訂正するのは無粋というものだろう。
私はその隣のページに、今朝の朝焼けの色温度と西の空から迫っていた雲の分布を几帳面にスケッチした。
赤から紫紺へのグラデーションの境界線を書き込み、雲の移動速度の推定値を添える。
ペン先がノートの紙を引っかく、カリカリという乾いた音。
聖女様のペンが生み出すのびのびとした音と、私の細かく刻むような音が、交互に静かな部屋を満たしていく。
「今日みたいな日がずっと続けばいいのにね。ノエル」
「はい、そうですね」
聖女様が、ペンを止めずにそう言った。
私もペンを止めなかった。
雲の分布図の端に、ほんの小さく、朝焼けの窓辺でカップを抱えた人影のシルエットを描き足した。
記録としては不要なスケッチだ。
だが、今朝の五分間の記憶を、データだけで残すのは少しもったいない気がした。
二人でペンを走らせるカリカリという音だけが、静かに響く。
この平穏な音を守るためなら、毎朝五分くらい奪われても悪くないかもしれない。




