第2話 ポケットの中の天気予報
私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。
右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。
この位置には意味がある。
聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。
周囲からはただのメイドが控えているだけに見えるが、聖女様からすれば「天候から来客の身辺調査まで、ほんの数秒と目配せで確認できる距離」にいる。
この立ち位置こそが、私が彼女の平穏な日々を死守するための強固な防衛線である。
本日は、待ちに待った聖女様の休日である。
教会の公式行事なし。面会予定なし。
老人たちからの呼び出しも、少なくとも昨晩の時点では一切入っていない。
完璧な休日のためには、完璧な準備が要る。
私にとって、これは立派な業務だった。
朝の四時に起き、メイド服の袖を通し、エプロンの紐を首元で引き締めながら中庭の下見を済ませた。
風向き、日差しの角度、木陰の位置。
連日の晴天で空気は心地よく乾燥しているが、空気の匂いにはわずかな変化の兆しが混じっていた。
「おはようございます、聖女様」
「ん……おはよ、ノエル」
聖女様の部屋を訪ねると、相変わらずソファで寝ていた。
送られてきた手紙を読んでいたのか、便箋が胸の上に置かれている。聖女様の悪癖のひとつだ。
人より多めの毛量を誇る彼女の髪は、寝癖で見事なまでに爆発し、さながら特大なタンポポの綿毛のようになっている。
いつもどおりである。
「おはようございます、聖女様。本日はご予定がございません」
「やったー!」
「ただし、午前中に私が庭の準備を整えますので、お茶会は午後からになります。まずは身支度を」
私は木製の櫛を手に取り、聖女様の髪を根元から丁寧に解きほぐしていく。手慣れたものだ。
ゆっくりと力を込め、正面から見てもわかるほど高い位置へと毛束を集約し、特大ボリュームのポニーテールへとまとめ上げる。
結び目のてっぺん部分の毛並みが、ふんわりと立ち上がる完璧な仕上がり。
このボリューム感こそが、真っ直ぐで少し無防備な聖女様を表現する最大の象徴だと信じている。
髪を整え終えた聖女様が、窓の外をちらりと見る。
庭の花壇に植えられたカモミールが、連日の強い日差しで少し葉を丸めて乾いていた。
「お花が渇いてるみたい。ノエル、ワタシが水やりをしてこようか?」
「不要です、聖女様。今日の夕方には、まとまった雨が降りますから」
「えっ、なんでわかるの?こんなにいいお天気なのに」
私はエプロンのポケットから、今朝に庭の隅で拾い上げておいたある物を取り出し、聖女様の手のひらに乗せた。
「松ぼっくり?」
「はい。昨日の朝までは大きくかさが開いていたのですが、今朝見るとこのように鱗片がはっきりと固く閉じられ、丸みを帯びています」
「本当だ。ぎゅってなってる」
「松ぼっくりは、空気中の湿度を感じ取ってかさを閉じます。松ぼっくりが空気中の水分を吸って膨張し、種を雨水から守るための防衛本能です。つまり、この周囲の空気は私たちの肌には感じられない勢いで急激に湿ってきているのです。近いうちに雨になるかと」
「へぇ……!松ぼっくりってすごいんだね!」
聖女様の目が、子どもに新しいおもちゃを与えたときのようにきらきらと輝いた。
嫌な予感がする。
「お花の気持ちもわかるし、雨が降るのもわかるなんて。ノエルってば、まるで魔法みたい!」
「ただの物理的な変化と植物の防衛本能です。私は魔法使いではありませんので」
私の冷静な訂正にも、聖女様の興奮は冷や水を浴びせられた様子はなかった。
案の定、彼女はその閉じた松ぼっくりをご丁寧にハンカチで包み、自分の服のポケットに大事そうにしまい込んだ。
これ以降、聖女様は暇さえあればポケットの中に手を入れて松ぼっくりの開き具合を確認するようになってしまったが、それはさておき。
私は窓辺から軒下を見上げた。
松ぼっくりの他にも、予兆はある。
鳥たちの動きが極端に鈍い。彼らが普段よりも低く、地面すれすれを這うように飛翔しているのだ。
これは鳥たちが低空を好んでいるわけではなく、彼らの餌となる羽虫の羽が大気中の高い湿度によって水分を含み、重くなって高く飛べなくなっているだけだ。
植物の防衛本能、羽虫の質量変化、そして大気の重さ。
これらすべての観測は、たった一つの絶対的な未来を予言している。
本日の夕方には土砂降りになる。
「というわけですので、聖女様。夕方の雨を見越して本日のお茶会は屋根のない中庭ではなく、テラスの奥の風が当たらない場所に設置いたします」
「わかった!午後まで大人しく待ってるね!」
聖女様は元気よく頷いた。
休日だからこそ、極上の花茶と厨房から分けてもらった焼き菓子のバターが染みた一番美味しい端っこが必要だ。
私は本日の予定を脳内で確定させた。
——だが。
聖女様の休日を知る教会の関係者や街の住人たちが、その貴重な平穏をそのまま放っておいてくれるほど、この世界は優しくできてはいなかった。
***
午前十一時。
テーブルのセッティングをあらかた終え、茶葉の選別をしていた私の背後で教会の裏口の木扉が急に乱暴に開かれた。
息を切らせた三十代ほどの女性が、犬を引きずるようにして歩く小さな男の子の腕を引いて駆け込んでくる。
犬は暑さにやられたのか、ぐったりと舌を出していた。
「聖女様、聖女様!ちょっとだけお時間をいただけませんか!」
「どうしたの?そんなに慌てて」
どこから駆けつけてきたのか、聖女様が素早く立ち上がった。
当然のように笑顔で。
私は茶葉を準備していた手を止め、ティーカップを静かにソーサーに戻した。
事案一件目。
迷子の犬である。
男の子が泣きながら、しゃくりあげて説明する。
「おさんぽしてたら……ワンちゃんが、おうちがわかんなくなっちゃったの」
聖女様が困ったような、悲しそうな顔をして犬の頭を撫でる。
私は静かに首を伸ばし、犬の首輪を見た。
革製だ。よく使い込まれている。
裏側に小さな刻印があった。
『ハイネ通り・ヴェルナー』
確認所要時間、五秒。
困り果てた聖女様が、助けを求めるようにちらりとこちらへ振り返り、私に視線を送る。
私は彼女にだけ見える角度で素早く口パクをし、三つの単語を紡いだ。
『ハイネ通り』『北に三本目』『赤い屋根』
聖女様はぱあっと顔を輝かせると、女性と男の子に向き直り、とびきりの笑顔で言った。
「大丈夫よ。このワンちゃんは、ハイネ通りのヴェルナーさんのお宅の子ね!ここから北に三本目の角を曲がって、赤い屋根の二階建てのお家よ」
聖女様の淀みなき即答に、男の子が目を丸くした。女性も驚いたように聖女様を見る。
その後、聖女様はそっと私を振り返って小声で聞いてきた。
「(……ねえノエル、なんで知ってるの?)」
「(聖女様の毎月の慰問ルートの途中にあるお宅です。首輪の刻印と照合しただけです)」
「(ノエルの観察力がすごくて怖い!)」
怖くない。業務の一環である。
情報をまとめ、状況に応じて主へ適切な提案をするのは、メイドの基本だ。
聖女様への短い助言を通し、私は二人を犬と一緒に帰らせる手続きを滞りなく終わらせた。
所要時間、四分。
それからわずか十分後である。
事案二件目。
今度は教会の正面入り口から、お隣同士の垣根の境界線トラブルを抱えた東通りの老夫婦が、揃って激高した赤い顔で乗り込んできた。
「うちの垣根を勝手に刈った!泥棒だ!」
「はみ出てたから邪魔で刈っただけだ!そもそもお前んちの木が横柄なんだよ!」
聖女様が、二匹の猛犬の間に挟まれた小動物のように困った顔をする。
こういう時、この人は両方の味方になろうとして、結果として誰の味方にもなれなくなる。
お茶会の時間が削られる。
私は無言で教会の書庫へ向かい、この街の土地台帳の写しを一枚持ってきた。
そして、怒鳴り合う老夫婦の間に挟まれて困り果てている聖女様の視界の端へと、図面をそっと差し出す。
一番太い黒線を指で叩き、聖女様にだけ聞こえる小さな声で簡潔な事実と『着地点』を耳打ちした。
聖女様は大きく一つ頷くと、パンッと柏手を打って老夫婦の気を引いた。
「はい、お静かに!こちらが登記上の正確な境界線を示した図面です!」
聖女様の凛とした声に、老夫婦が一瞬呆気に取られて図面を覗き込む。
「この線が境界です。現在、お宅の垣根は三十センチほど東に寄っています。相手の敷地にはみ出していたのは事実ですが、そもそも垣根の植林位置自体が数年前からジワジワと元の位置からずれていますよ」
老夫婦がピタリと黙った。
互いの怒りの矛先が「相手の悪意」から「自然による物理的なズレ」へと見事にすり替わった瞬間である。
「刈った刈らないで揉めるより、一緒に植え直したらどうかしら?きっとお庭も綺麗になるし、楽しいわよ!」
聖女様がここぞとばかりに無邪気な笑顔で提案する。
理屈ではない。ただ、まっすぐなだけだ。
聖女様の純粋な提案というものは、私が冷たく事実を突きつけた後の最高の緩衝材になる。
老夫婦は顔を見合わせ、矛先を納めて礼を言い、一緒に教会の門を出て帰っていった。
所要時間、十一分。
事案三件目。
正午を少し回った頃、私がテラスの椅子の埃を払っていると、若い女性が教会の礼拝堂にやってきて聖女様の手をすがりつくように握った。
「聖女様、明日、親が決めたお見合いなんです……。相手の方の顔も性格もよく知らないのに。相手の方を教会で見かけたこと、ご存じありませんか?」
「ごめんなさい。私は教会にいらっしゃる方のお顔はできるだけ覚えるようにしているのだけど、その方のお名前は……思い当たらないわ」
「そうですか……不安で夜も眠れなくて」
聖女様は少し困ったように眉を下げた。
お見合い相手の名前は、街の商家で働く長男の男だった。
聖女様が、助けを求めるようにちらりとナナメ後ろにいる私のほうを見る。
私は音を立てずに半歩だけ前へ出て、聖女様にだけ聞こえるようにそっと囁いた。
『先週の朝の礼拝。一番後ろの席。始終あくび。そして朝からお酒の匂い』
聖女様は一瞬こわばった顔をした後、若い女性の手を優しく握り直した。
「……いま、うちの者が教えてくれたのだけど。その方は先週の朝の礼拝に一度だけお見えになっていたわ。一番後ろの席で始終あくびをされていたそうよ」
若い女性がはっと顔を上げる。
「本当ですか!?」
「ええ。それに……その方は朝の礼拝の時間帯から明確にお酒の匂いがしたと聞いているわ。前夜の酒が抜けていないか、朝から飲んでいるかのどちらかね」
若い女性の顔から、血の気が引いていくのがわかった。
聖女様が私だけを振り向き、ひそひそ声で聞いてくる。
「(ノエル……それ、本当なの?)」
「(事実です。私の嗅覚判定によって資料化された、朝から酒臭い人間の評価は動かしようがありません)」
「(でも……うん、そうね)」
聖女様は少し思案した後、女性の冷えた手を両手で優しく包み込んだ。
「それでも、まずは一回会ってみてから決めたらどうかしら?お酒を飲んでいたのだって、彼自身の意思とは限らないわ。お仕事でお付き合いを断れなかったのかもしれない。だから、あなたが自分の目で確かめて。もし本当に嫌なら、お父様にきちんとお断りした方がいいと思うわ。私が教会から口添えしてあげることもできるから!」
若い女性は聖女様の温かい手と、教会が味方になってくれるという約束を得て、少し元気を取り戻して深々と頭を下げて帰っていった。
所要時間、八分。
私の冷たい断定だけで終わらせず、相手に「自分で見て考える」という選択肢を残す。
聖女様のこのフォロー力は、私には絶対に真似のできない天性のものだった。
そして事案四件目。五件目。六件目と七件目は同時に処理した。
休日というものは、どうしてこうも人間の悩みを教会に集積させる引力を持っているのだろうか。
気がつけば、木漏れ日の角度はすっかり斜めになり、テラスのテーブルの上を赤みのかかった西日が染め始めていた。
「もう!夕方じゃない!」
聖女様がテラスの椅子に深く腰掛けたまま、机の上にぺたりと上半身を突っ伏した。
大きなポニーテールが、力なく背中に垂れている。
用意していた花茶はとっくに冷め、焼き菓子のバターの香りも飛びかけている。
「……おやすみ、ノエル」
「聖女様。不貞寝の前に、冷めた花茶を淹れ直してまいりますので」
「ぶぅ。ノエルがせっかく用意してくれた休日の場所だもん……。もう誰も来ないよね?」
私はコンマ数秒、目を閉じた。
その「誰も来ないよね」という言葉のフラグ回収の早さを、私はメイドとしての経験から誰よりも熟知している。
「聖女様。お時間いただきますが、今から——」
私が厨房へ茶葉を取りに行こうと踵を返したその時だった。
教会の回廊の向こうから、大きな足音が幾つも重なって近づいてくるのが聞こえた。
恰幅の良い、教会の運営委員の老人たちと、この街で幅を利かせている商会の主である。
彼らは上機嫌で大きな声で笑い合いながらテラスに現れた。
「おお、これは聖女様。よいところにおられましたな!」
「こんな気候の良い日に休んでおられるとは、もったいない。実は我々は、今から教会の広い前庭を使って、近隣の商人と教会の親善のための会合をしようと決めたのですよ!」
商人の一人が、自信満々に胸を叩いた。
聖女様は机からゆっくりと顔を上げると、自分の服のポケットにもぞもぞと手を入れ、何かを触りながら不安そうに言った。
「えっと……いまから、ですか?でも、お天気が……」
「はっはっは!聖女様もご冗談を。このところ連日の快晴ではありませんか。我が商会の占い師も、今日は素晴らしい陽気のまま夜を迎えると太鼓判を押しております!」
「私が持ってるちょっとした『おしらせ』だと、もうすぐ雨が降るかもしれないって……」
聖女様はポケットの中の「松ぼっくり」のかさが固く閉じていることを手探りで確認しながら、必死に忠告しようとしていた。
しかし、老人たちは聖女様の言葉を「乙女のちょっとした気まぐれ」程度にしか受け取らず、朗らかに笑い飛ばした。
「ご心配には及びません!万が一雨が降ったとしても、それは神の御心。我々への恵みの雨です!では、庭をお借りしますぞ!」
彼らは満足そうに去っていった。
聖女様はぽかんとしたまま、ポケットから松ぼっくりを取り出して、ナナメ後ろにいる私を見上げた。
「ノエル……どうしよう。もうすぐ雨だって素直に教えてあげた方がよかったのかな?」
「私からは何も。聞かれませんでしたので。聖女様のご厚意である言葉を無視したのは、あの方々ご自身の判断です。気になさる必要はありません」
「う、うん……。おじいさま方のお洋服が、ずぶ濡れにならないといいんだけど……」
本気で心配しているのだ。この人は。
私は内心でため息をついた。
今から庭で会合を強行する彼らの高価なシルクの服と、雨除けの屋根を持たない商品の数々がどうなるか……悲惨な結末など、火を見るより明らかである。
だが、神は平等だ。天気も平等だ。
忠告を聞かない大人たちがどうなろうと、私が守るべき聖女様のティータイムの優先順位には遠く及ばない。
「では、聖女様。今度こそ、花茶を淹れ直してまいります」
「うん!一日中、待ってたんだからね!」
聖女様が、ようやく今日一番の嬉しそうな顔をしてポニーテールを揺らした。
***
十数分後。
夕暮れのテラスのテーブルの上には、新しく淹れ直した甘い花茶と、バターの香りがしっかり残る焼き菓子の端っこが並べられた。
テラスの奥、風が当たらない木漏れ日の中で聖女様が椅子に深く腰かけて、大きく伸びをした。
「あぁ……最高だわ……。休日なのに、なんだかすごく働いた気がする」
「お疲れ様でございました。さあ、お茶をどうぞ」
「ノエルも座って」
「私は立っております。メイドですので」
「休日なんだから座りなさいって。さっきから一回も休んでないじゃない?」
「聖女様の休日であって、メイドの休日ではありません」
「ワタシが一緒にお茶をしたいの。カミサマの言葉だと思って座って!」
神の言葉だと言われましても、今日のところはポケットの中の松ぼっくりの教えに従っていただきたい。
だが、聖女様が一度こう言い出すと、雨雲よりも重く動かないことはよく知っている。
お茶の温度を味わい尽くすため、私は抗議を飲み込むことにした。
雨が降り出した瞬間にメイドとして最適な挙動へ移れるよう、向かいの椅子に音を立てずに浅く腰掛ける。
焼き菓子の端っこをかじる。
香ばしく焼き上がったバターが一番多く染み込んでいるこの部分が、実は一番おいしい。
聖女様も同じように端っこを選んでかじった。
「ノエルと好みが一緒ね!」
「端っこが美味しいのは水分が適度に飛び、糖分が凝縮されているという事実に基づく合理的な判断です」
「それを一緒っていうの!」
西風が木々の葉を揺らし、テーブルの上に夕日の光の粒が優しく踊る。
冷えかけた空気に、熱い花茶の湯気がゆっくりと溶けていく。
ようやく訪れた、完璧な休日の風景だった。
「ねえ、ノエル」
「はい」
「あなたは、いつお休みなの?」
茶葉の香りが、微かな風に乗って鼻腔をくすぐる。
私は椅子の背もたれにわずかに体重を預け、目の前の純粋無垢な聖女様を見た。
「聖女様のお隣でお茶を飲む時間が、私の最高の休日です」
「もう、それだと休日じゃないでしょ?」
「いいえ。休日です」
世界で一番贅沢で、そして一番手に入れるのが難しい、とびきりの休日だ。
その日、私たちは日が沈んで空が濃い群青色に染まるまでお茶をすすり、静かな休日の残り香をたっぷりと味わい尽くした。
***
夕暮れを完全に過ぎた頃。
聖女様のポケットの中の「松ぼっくり」の予言通り、空は真っ黒な雲に覆われ、狂ったような風を伴う暴力的な土砂降りの雨が教会の庭を打ち据え始めた。
当然である。
低く飛んでいた鳥たちは、とっくに安全な軒下の巣に避難している。
聖女様の私室の窓ガラスを、大粒の雨が激しく叩く。
部屋の中は、外の嵐が嘘のように暖炉の火が入り、静かで温かい空気に満ちていた。
風の噂で、庭で会合を強行した商人や老人たちが泥水の中に吹き飛ばされ、ずぶ濡れになって慌てふためいているという知らせが耳に入った。
彼らの高価な商品は水浸しになり、自分たちが無視した忠告の代償をたっぷりと払わされているという。
だが、そんなことは私たちにはどうでもいいことだ。
聖女様はソファに座り、机の引き出しから一冊の薄い冊子を取り出した。
表紙には大きな字で『観察ノート』と書かれている。
最近、聖女様が私のインクで汚れた手を見て、「私も日々の気づきを何か書き残したい」と思いついて始まった、私たちの密かな日課だ。
「ノエル、今日はワタシが先に書くね!」
聖女様はインク壺にペンを浸し、元気いっぱいの大きな字で白紙のページに向かった。
【松ぼっくり、閉じると雨!鳥たち、低く飛ぶと雨!】
書き終えると、聖女様は「さあノエルの番!」とペンを渡してきた。
私は椅子に浅く腰掛け、彼女の大きな字の横に、小さく几帳面な字を書き足した。
【松ぼっくりの吸湿による鱗片の膨張収縮。鳥の採餌高度と大気圧の逆相関を確認。気象現象との因果関係について別途要検証】
「……ノエルの書くことって、いつもお堅いよねぇ」
「事実を淡々と書くのが、記録というものです」
聖女様は少し不満そうに頬を膨らませたが、すぐにその表情を解き、窓の外の激しい雨に視線を戻した。
「でも、すごいね」
「何がでしょうか」
「ノエルの教えてくれたことと松ぼっくりのおかげで、最初からお茶会の場所を移しておいて本当によかった。おかげでワタシ、今日一日とっても楽しかったわ。雨が降るのを知るって、自分を守る魔法みたいね」
聖女様のその言葉に、私はポットからお茶を注ぐ手を一瞬止めた。
知識は、自分を守る盾になる。
私が孤児院の子供たちに文字や知識を与えようとしている理由の根幹に、彼女はまたしても直感で触れてみせたのだ。
「……そうですね。知識はどんな魔法よりも確かな盾になります」
「でしょ?よし、明日も松ぼっくりとお話ししよっと!」
聖女様は嬉しそうに笑うと、もう一度ペンを取り、私の文字の下部に大きく乱雑に書き足した。
【雨でも、お茶は美味しい!(ノエルもそう思うって!)】
私の冷え切った気象記録が、一瞬で温かな落書き帳の1ページに変わってしまった。
私はそれを見て、小さくため息をついたふりをした。
コンマ数秒、目を閉じる。
雨音の向こう側で、ずぶ濡れになった大人たちの絶叫や怒号が微かに響いた気がしたが、私の耳にはもう聞こえない。
私の仕事は、この純真で危うい太陽を、外の世界から守り抜くことである。
特等席からの完璧な休日の眺めを守るために。
私はカップの紅茶を傾けながら、聖女様のナナメ後ろへ視線を移した。
今日のポニーテールの結び目は、尋常ではない湿気にもかかわらず、ふんわりと見事な弧を描き真っ直ぐに立ち上がっている。
相変わらず、完璧な眺めだった。
私は聖女のナナメ後ろにいる、ただのメイドである。
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