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第38話 氷の魔法使いと、過冷却のいたずら

 私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。


 右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。

 この位置には意味がある。

 聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。


 例えば、長すぎる冬にうんざりして、私室でため息ばかりついている聖女様の気分を転換させる時。

 ほんの少しの物理的な細工を用いて、日常の中に小さな「魔法」を演出して見せるのも、ナナメ後ろに控えるメイドの娯楽提供の一つである。


 ***


 冬の終わり。寒さの底とも言える冷え込んだ朝。

 私は昨夜から窓外の棚に置いていた、純水を入れたガラスのボウルを慎重に室内に運び入れた。


「ノエル、それなに?ただのお水?」


 暖炉の前で丸まっていた聖女様が、不思議そうに覗き込んでくる。


「ただの水ではありません。魔法の水です」

「まほうの、お水?」


 私が「魔法」という非科学的な単語を使ったことに、聖女様は目を丸くした。

 私はボウルをテーブルの真ん中に静かに置き、聖女様に手招きをした。


「聖女様。人差し指の先で、この水面を軽く『ちょん』と叩いてみてください」

「え?うん、わかった」


 聖女様はおそるおそる指を伸ばし、ガラスのボウルを満たす透明な水面に触れた。


 その瞬間。


 ピシッ、というかすかな音と共に、聖女様の指先を中心に、白い氷の結晶が放射状に広がった。

 透明だった水は、ほんの数秒の間に、ボウルの底まで真っ白な氷の塊へと変化したのだ。


「えっ……!?うそっ!」


 聖女様は慌てて指を引っ込め、氷になったボウルと自分の指を交互に見比べた。


「ノエル!お水が凍った!ワタシが触っただけで一瞬で凍ったよ!魔法だ!」

「厳密には、魔法ではありません。『過冷却かれいきゃく』という物理現象です」

「かれいきゃく?」


 私は氷のボウルを暖炉のそばに寄せながら説明した。


「水は本来、氷点下になると凍ります。しかし、不純物のない非常に綺麗な水をゆっくりと静かに冷やしていくと、零度を下回っても液体のまま保たれることがあります。これを過冷却状態と呼びます」

「うんうん」

「この過冷却の水は、非常に不安定です。そこに外部から少しでも衝撃が加わったり、不純物が触れたりすると、それを『核』にして一気に連鎖的に凍り付くのです。先ほど、聖女様の指先がその『核』になりました」


 私の物理学的な解説を聞いて、聖女様は少しだけ不満そうに頬を膨らませた。


「なんだ、ワタシが氷の魔法使いになったわけじゃないんだね」

「はい。ですが、この現象を引き起こすための温度管理と振動の排除は、魔法に近い精度を要求されます。つまり、魔法使いは私の方です」

「あはは!自分で言っちゃうんだ!でも、ノエルは本当に魔法使いみたいだね!」


 聖女様は笑いながら、ボウルの氷をつんつんと突いた。


 私は、その屈託のない笑顔を見つめながら、ふと自分の心の中が驚くほど軽くなっていることに気がついた。


 かつて王都の天文台にいた頃。

 私は「真理」を追求することだけが全てだった。

 世界がどのような法則で動いているのかを知り、それを証明し、無知な者たちに突きつけること。

 それが正しい学者のあり方だと信じて疑わず、結果として異端者として追放された。


 私にとって、物理の法則も、天文学の計算式も、世界と戦うための「武器」であり、孤独を深める「呪い」だったはずだ。


 だが、私が計算と知識を用いて引き起こした過冷却の現象は、目の前にいる一人の女性をただ純粋に笑顔にするための「いたずら」として使われた。


 真理は、武器ではない。

 真理は、誰かを笑顔にしたり、誰かの生活を少しだけ豊かにしたりするために使ってもいいのだ。

 そう気づいた時、ずっと私の足首に絡みついていた「星詠みの異端者」としての暗く重い鎖が、音を立てて砕け散った気がした。


「ノエル?」

「……いえ」


 私は微笑み返し、ボウルの氷を見つめた。


「もうすぐ、この氷も溶けます。春が来ますから」


 ***


 夜。『観察ノート』を開く。

 暖炉の前で並んで座り、それぞれにペンを持つ。


 聖女様が、元気な文字で書き始める。


【ノエルが氷の魔法を見せてくれた!ワタシが指で触ったら、お水が一瞬で凍ったの。ノエルは『かれいきゃく』って言ってたけど、やっぱりノエルはすごい魔法使いだと思う。冬の最後にとっても楽しい魔法だった!】


 私はその横のページに、細いペン先で図を書き込んだ。

 水の三態変化と、過冷却状態の温度曲線のグラフ。


 書き終えて、右下の隅に一行添える。


『過冷却水への衝撃による急速凍結を実証。現象自体は物理の基本だが、それがもたらす情動的効果は計算以上であった。真理とは、それを解き明かした者の心を凍らせるものではなく、誰かと分かち合うことで心を温めるためのものだ。過去の呪縛は完全に解けた。さあ、春の星空へ向かおう』


 ペンを置く。

 私室の窓の隙間から入り込む風は冬の鋭さを失い、ほんの少しだけ春の匂いを含んでいた。


残り2話となります。

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